【ファイルMK3】2009.03.10 鈴ヶ森刑場はしながわ水族館のそば八百屋お七さんが処刑された刑場以前、大阪千日前の刑場について記事にしました。http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/38010328.html 今回は東京です。 しながわ水族館の入り口からさらに第一京浜(国道15号)を東京方面に少しだけ歩くと、東京都史跡鈴ヶ森刑場跡があります。 右奥の緑地帯が刑場跡です。 水族館に行く前に立ち寄りました。 「鈴ヶ森」という名は、この近くにある磐井神社の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったことに由来します。 江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)に設置されていた小塚原刑場、西の入口(甲州街道)沿いに設置されていた八王子市の大和田刑場(または中仙道の入口の板橋刑場とする説もある)とともに、江戸3大刑場といわれていました。 この刑場は慶安4年(1651年)に開設されました。 Wikipediaによると 間口40間(74m)、奥行き9間(16.2m)という広さがあり、閉鎖される明治4年(1871年)までの220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われていますが、はっきりした記録は残されていません。 10万人としても、220年だと一年に450人、一日に一人以上の処刑などというと、いくらなんでも多すぎますから、これは江戸時代暗黒史観による出鱈目だとしか思えません。江戸時代は実際にはとても治安が良かったのです。 当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されているそうです。 ここは当時の東海道沿いの、江戸の入り口とも言える場所にありますが、刑場設置当時浪人が増加し、それにともない浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、とくに浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられているそうです。 でも江戸に住んでいる人間に対して再犯防止のためにみせしめにするなら、江戸の入り口なんかじゃなくて、中心の人通りの多い場所に設置すれば良いわけで、この説は怪しいものです。 ルイ16世やマリー・アントワネットが処刑されたギロチンは、街の真ん中の衆人環視の下に置かれたわけですからね。 『道』という字には『首』という字が入っています。道というのは、他の氏族のいる土地や外界、異界に通じる邪悪な霊に接触する可能性がある危険な印つきの場所なのです。 ですから、その『道』を行く時は、異人の首を刎ねて、手に持ち、その呪力で邪霊を祓い清めながら進んだのです。 江戸時代の刑罰と言うのは、単なる処罰というより、罪によって生じた穢れ(けがれ)を祓う(はらう)という呪術的な意味がありました。 道の境界に刑場を設置することによって、邪気を江戸に入れないという風水的な意味あいの方が大きいのだというのが私の説です。 小塚原刑場も、大和田刑場も、大坂の千日前刑場もそのような位置にあります。 最初の処刑者は慶安事件の首謀者のひとりである丸橋忠弥だったとされています。反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に絶命したのですが、改めて死体が磔刑に処されました。 その後も、平井権八や天一坊、八百屋お七、白木屋お駒といった人物がここで処刑されました。 首洗いの井戸です。 明治大学博物館に展示されている獄門首台木(ごくもんくびだいき)のレプリカ(複製)。 鈴ヶ森刑場受刑者のお墓です。 左が磔台で、右が火炙り台の礎石です。 磔台礎石の近影です。 再び明治大学博物館に展示されている磔柱のレプリカです。 これを「見せ槍」と称しました。これで気を失う罪人もいたようです。 次に「アリャアリャ」という掛け声ともに、槍でねじり込むようにまず右脇腹から左肩先にかけて受刑者を串刺しに貫き(穂先が肩先から一尺出るのが正式とされる)、次に左脇腹から右肩先へ貫通させ、その後は同様の手順で左右交互に槍を貫通させるそうです。 磔刑をいうよりも、むしろ串刺し刑という方がいいようです。 火炙台礎石の近影 この台で処刑された江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘八百屋お七(やおやおしち、寛文8年(1668年)? - 天和3年3月29日(1683年4月25日))の話が有名ですね。 お七は天和2年12月28日(西暦1663年1月25日)の大火(天和の大火)で罹災し、避難所となった檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎とも、または武士であり左兵衛とする説もあり)と恋仲となりました。 まもなくお七の家は再建され、泣く泣く二人は別れることになりました。 翌年、彼女は寺小姓への恋慕の余り、また火事が起きれば再会できるのではないかという幼い考えから放火未遂を起した罪で捕らえられたのです。 その時彼女はまだ16歳(=数え年、満年齢だと14歳)になったばかりであったため、吟味をした町奉行・甲斐庄正親はそれを哀れみ、未遂でもあったことから、何とか命を助けようとしました。 15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑を免れることができたので、奉行はお七の助命を試みようとします。 当時は、役所が行う町人に対する年齢の確認は本人の申告で十分でした。 奉行は評定の場において「お七、お前の歳は十五であろう」と誘導尋問をしました。 それなのに、彼女は正直に十六歳であると答えたのです。 彼女が自分の意図を理解出来てないのではと考え、「いや、十五にちがいなかろう」と重ねて問いただしたのですが彼女は再度正直に年齢を述べたばかりか、証拠としてお宮参りの記録を提出しました。 こうなるとさすがの奉行も放火の量刑である火炙りの判決を言い渡さないわけにはいきません。 江戸の人々は、罪は罪としながらも、お七の幼い恋慕の一途さに大いに同情しました。 お七処刑から3年後の1686年(貞享3年)、井原西鶴がこの事件を『好色五人女』の巻四に取り上げて以降有名となり、紀海音の『八百屋お七』、菅専助らの『伊達娘恋緋鹿子』、為永太郎兵衛らの『潤色江戸紫』、鶴屋南北の『敵討櫓太鼓』など浄瑠璃・歌舞伎の題材として採用されました。 お七のモデルとなった人物は大和国高田本郷(現在の大和高田市本郷町)のお七であるとする説もあるそうです。 少女の頭に鶏の体の幽霊として現れた話もあるようです。 お七さんやここで処刑された人々に改めて合掌します。成仏してください。 京浜急行線大森海岸駅からしながわ水族館へむかう道の歩道でみつけた人面木 こっちでは木を食べています。 ということで鈴ヶ森刑場跡でした。ついでがあったら、お参りしてくださいね。
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魔界の部屋
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