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【ファイルN2】2008.07.21 西出さんの 幻想
セミ
作 西出 満寿夫
ある朝、私はセミの声で目がさめた。
やけに大きい声だ。それもそのはず。セミは私の頭の中にいる。
内耳の更に内側から、爆竹のような声で鼓膜をゆすっているのだ。
セミは頭の中の木の枝にとまって、じゃばらの腹を震わせながら、声を限りに鳴き喚いている。
今朝がた羽化したばかりなのだろう。白みがかったセミの下の枝には褐色の抜け殻が人間の胎児の形でしがみついている。
私の脳から漿液を吸い取って成長したに違いない。道理で最近とみに記憶力が悪くなってきたはずだ。
多分、私の一番貴重な時代の記憶を吸い取って、生き延びてきたに違いない。
私の記憶の残骸が、セミの抜け殻なのだろう。
私の小さな分身が私の頭の中の森深く分け入っていく。
私は兼ねてからポケットに忍ばせていた折畳式の補注網を広げ、背後から忍び寄りセミを捕獲した。
網の中に手を差し入れて掴むと、セミは破裂した水道管のようにけたたましい悲鳴を噴出させ、あたりに撒き散らした。
私はその騒音に鼓膜を叩かれ、一瞬気が遠くなった。
そして堪らず掌中のセミを握りつぶした。
セミは一瞬の断末魔を爆発させて粉々に砕け散り、その跡にぽっかり開いた穴のような森林の静寂があたりを包み込んだ。
破片の中から、黒い毛糸球が出てきた。
私は毛糸の端をピンセットでつまむとゆっくりと慎重に引っ張った。
ある程度ほどけると、糸は自然にほぐれていく。
弾みをつけて地面に転がすと毛玉は少しずつ小さくなりながら、まるで親犬の元に駆けていく子犬のように森の小道をどんどん転がっていった。私は慌ててその後をついていく。
突然森が途切れ、視界が広がった。
そこには深い緑をたたえた湖があって、見ると、すっかり伸びきった糸の端が湖に浸かっていた。
風にそよぐ見たことも無いような奇怪な枝ぶりの広葉樹の葉が私を差し招くように揺らめいていた。
糸は水面に髪の毛のような薄い皺をかたどりながら、湖の中に曳き込まれていく。
黒い糸は、湖の緑に染まり、空から降り注ぐ陽光を吸い込んで光りだした。
一筋の光の糸は、深い森の大気を鋭利な刃物のように切り取った。
私は立ちくらみがして、思わずしゃがみ込んだ。
気を取り直して立ち上がろうとすると、帽子のようなものが、ばさりと音を立てて頭から落ちた。
なんだか頭が軽くなって、とっても涼しくなった。
帽子は良く見ると、眉毛の上からすっぱり切り取られた私の頭部だった。
断面がてらてらと鮮やかな赤で光っていた。
中には所々黒い種が入っていた。
私の頭はスイカだった。
私は喉が渇いていたので、それを貪り食った。
豊かな果汁が私の喉から胸元に筋を引いて滴り落ちた。
とても美味しいスイカだった。
喉の渇きが癒え、私は何故かとても愉快な気持ちがして、スイカの皮の帽子を被り直し、大きな声で笑い出した。
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