祇園祭の部屋
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31浄妙山(じょうみょうやま:六角通烏丸西入) 32=最終 南観音山(みなみかんのんやま:新町通錦小路上ル) です。 31浄妙山(じょうみょうやま:六角通烏丸西入) 『平家物語』の宇治川先陣の故事に取材した山です。 平家打倒のため、源三位頼政(げんざんみよりまさ)は以仁王(もちひとおう)を奉じて挙兵しようと企てますが、露見して以仁王は三井寺に入り、頼政は平等院に逃げ込んで、追撃してきた平知盛軍と宇治橋を挟んで戦います。 この時、三井寺の僧兵『筒井浄妙』が一人で奮戦し平知盛の軍勢を食い止めつつ、一番乗りを果たそうとしますが、すぐ後ろにいた、一来法師(いちらいほうし)が 『悪(あ)しゅう候(そうろう)、浄妙坊』 と叫んで浄妙の頭に手を置き、飛び越えて先陣を果たしました。その一瞬を表したのが、この山です。 『悪(あ)しゅう候(そうろう)』山ともよばれるんだって! 抜け駆けはずるいよお! 挙兵は成功しませんでしたが、これをきっかけに源頼朝や木曽義仲(きそよしなか)の挙兵につながり、源氏の時代が到来します。
浄妙さんは、一来法師に一番乗りの手柄を横取りされた上に、雨よけシートで見えなくなって、踏んだりけったりです。
浄妙の頭に木片のくさびを打ち込んで一来法師を支えています。筒井浄妙像の顔は春日(かすが)作とされる古面。金襴の長範頭巾(ちょうはんずきん)を被り、その上から白鉢巻を締めています。胴体は寄木ではなく自然木。 鎧は白川楽翁(しらかわらくおう)松平定信編の『蒐古十種(しゅうこじゅっしゅ)』に載る名品で、『黒革緘(おどし)肩白胴丸−大袖喉輪附−附鉄製臑当(すねあて)一双、一領』で、昭和45年に函谷鉾前懸、芦刈山人形小袖とともに重要文化財指定を受けました。 鎧は楠木正成(くすのきまさしげ)所要との伝承を持ちますが、実際は室町後期のものだそうです。 ずるっこした一来法師(いちらいほうし)像は、『いちきほうし』とも読みます。浄妙像と同じ木の枝部分を使い、全身を支える左手と左胴あたりまでが、一木(いちぼく)です。左手のひらに20cmほどの突起があって、これを浄妙像の頭頂部に差し込んで固定します。 宇治橋は、黒漆塗擬宝珠(ぎぼし)付高欄(こうらん)を持ちます。前部の橋板には、8個の穴があけられ、9本の矢が刺さっています。嘉永6年(1853)、名人佐野長寛(さのちょうかん)の漆工です。
前縣、胴縣、見送りはいろいろあるのですが、このときはどうも、19世紀初期のイギリス製『エジプト風景図』を 懸装していたみたいです。
それで、山鉾巡行の掉尾(ちょうび)を飾る、南観音山の辻回しをご覧ください。
右の人は、腰に粽を挿していますね。大きな車輪を見たら、地下足袋より、安全靴の方が良い様な気がします。でも、これが伝統なのですね。
『祇園祭の山鉾・南観音山、150年ぶり「天水引」を復元新調』 という報道がありました。
これは、「四神」を、縦0・7メートル、横2・3〜3・1メートルの毛織物4枚に、5年がかりで刺繍(ししゅう)したもので、手がけたのは地元の刺繍師木村正之さん(67)です。
今年の祇園祭も益々楽しみですね。
やっとこれで、山鉾巡行の記事は終わりました。でも、祇園祭の記事はまだあるんだよ。
次回に続きます次回からは、その日に神幸祭があった、祇園社の記事です。まだまだ続くよ。 次回はこちら。 |
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祇園祭について最初から読まれる方はこちら。 今回は、 28鈴鹿山(すずかやま:烏丸通三条上ル) 29役行者山(えんのぎょうしゃやま:室町通三条上ル) 30黒主山(くろぬしやま:室町通三条下ル) です。 28鈴鹿山(すずかやま:烏丸通三条上ル) 鈴鹿明神(瀬織津姫神=せおりつひめのかみ)は鈴鹿峠で通行人に被害を及ぼす鬼を退治した女神様です。高さ174cmの木彫り像で、美しいお顔だそうですが、神面をつけているので拝見できません。 現在使われる神面は享保3年(1718)作の新しいものですが(!?)天和3年(1683)のものも保存されています。金の烏帽子を被り、大太刀を持っています。 雨よけのカバーが邪魔だねえ。 鈴鹿山の趣を表現する真松には、絵馬が吊るされています。表には鈴鹿の関を表す『山に木立ちに鳥居』、裏には宝珠(ほうじゅ)が描かれていて、巡行後盗難除けのお守りとして町内の人に授与されます。 前掛けは平成元年に作られた『黄砂の道』です。 駱駝さんが描かれているのは、鈴鹿山を出す馬ノ町(ばのちょう)が、室町時代、米の集積所としておかれた『三條米場之町』という交易の町として栄えていたことにちなんでいるそうです。 胴縣は、平成13年に新調された今井利充(いまいとしみつ)下絵の『紅葉図』、『桜図』です。 見送りは、昭和57年皆川月華(みながわげっか)作『ハワイの蘭花図』綴織です。 29役行者山(えんのぎょうしゃやま:室町通三条上ル) 宵山の記事で紹介したので、ご参照ください。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/archive/2007/10/03 今回は辻回しの写真を掲載します。 30黒主山(くろぬしやま:室町通三条下ル) 謡曲『志賀(しが)』に取材された山とされ、歌人で六歌仙の一人大伴黒主を祀ったとされていますが、実は西行(さいぎょう)ではないかという説も根強い山です。 黒主さんが仰いでいる桜の造花は、ちまきと同様、戸口に挿すと魔除けになるとされ、巡行後に授与されます。 大伴黒主(おおともくろぬし)像は、寛政元年(1789)5月辻叉七郎作の銘があります。ヒノキ材で、高さは160cmです。 1789年といえば、7月14日、 パリ民衆のバスティーユ襲撃によりフランス革命が始まった年です。 現在の装束は寛政2年(1790)新調(!)の金襴小袖に宝尽くし文の大口袴、桜花散らし文の水衣(みずごろも)に白繻珍の帯を締め、白足袋をはいて中啓(ちゅうけい:親骨の上端を外へそらし、畳んでも半ば開いているように造った扇)を懐中しています。 宵山の町屋で展示されていた黒主さん。西行さんなら、もっと地味な格好をしてるような気がするねえ。 前懸は、明の第14代皇帝万暦帝(ばんれきてい)着用と伝えられる『五爪龍文錦(ごつめりゅうもんにしき)』を復元新調して使っています。 胴縣は、3枚掛けの『草花胡蝶文』綴錦で、霰天神山や山伏山の胴縣と同じく曙織(あけぼのおり)と呼ばれる技法で織られています。 見送りは、17世紀清時代の『唐子喜遊(からこきゆう)図』綴錦です。唐子が蹴鞠や凧揚げ、かくれんぼ、独楽遊びに興じている図柄です。この他に、もう一種類明時代の『牡丹鳳凰文』綴錦があり、毎年交代で使っています。 次回に続きます 次回はこちら。 |
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前回まで、山鉾巡行の先祭りのご紹介をしました今回からは、後祭りの巡行です。 24北観音山(きたかんのんやま:新町通六角下ル) 25橋弁慶山(はしべんけいやま:蛸薬師通室町東入) 26鯉山(こいやま:室町通六角下ル) 27八幡山(はちまんやま:新町通三条下ル) をご紹介します。 もともと、山鉾巡行は先祭りと後祭りに分かれていて、別々の日にやっていたのですが、交通規制の関係で、今は同じ日に一度にやってしまいます。 それで、後祭りのトップバッターは北観音山です 24北観音山(きたかんのんやま:新町通六角下ル) 北嵯峨観空寺村の旧家に伝わる古文書に文和2年(1353)から延享4年(1747)までの約400年間、北観音山に真松を納めていたという記録があり、この山は応仁の乱がおこる100年前から存在していたことがわかります。 楊柳観音像(ようりゅうかんのんぞう)が御神体です。北の観音像は115cm。岩座に結跏趺坐(けっかふざ)し、宝冠瓔珞(ほうかんようらく)をつけ、通肩(つうけん)で法界定印(ほっかいじょういん)を結び、径23cmほどの円鏡をもっています。 天水引は緋羅紗地に大きく青の蟠龍(ばんりゅう)を豪快に刺繍。金唐革縁で北観音山独特の目印になっています。また、金地に朱の観音唐草文錦綴で文化14年(1816)新調の水引があり、これを平成元年に復元した山口安次郎氏より寄贈を受け、現在は蟠龍とこの唐草を交互に使用しています。 前懸は19世紀イスファハン製絹絨毯(じゅうたん)。 胴縣は20世紀の中東連花葉文トルキスタン絨毯。他に雨天用胴縣として緑赤白黒黄の5色縫い合わせ猩々緋(しょうじょうひ)縁どりの4枚があります。 勇壮な辻回しです。 見送りは、金地縫詰(ぬいつめ)道釈(どうしゃく)人物図で寛政3年(1791)の製作。現在は明末から清初の製作とされる色鮮やかな『日輪鳳凰額唐子嬉遊(からこきゆう)図』綴織(昭和61年購入)を使用しています。 25橋弁慶山(はしべんけいやま:蛸薬師通室町東入) 辻回しの風景です。 26鯉山(こいやま:室町通六角下ル) 辻回しの風景です。 27八幡山(はちまんやま:新町通三条下ル)宵宵宵2 この山は、舞台としての場面設定や主役の人形を持たず、町内に祀る八幡宮を勧請(かんじょう)した社殿を山上に置き、八幡神をお祀りしています。 前懸は伯牙山と同じく上下詩文、中央群仙図の慶寿裂(けいじゅぎれ)を中央に、左右に阿蘭陀本国裂を配したもので、『元禄三年午六月吉日』の裏銘がある。現在のものは、昭和62年に復元新調されたもの。 鳥居の上に向かい合っておかれる鳩。これも左甚五郎作と伝えられています。 見送りは2種類あり、1つは宝暦年間製の『雲龍波濤(うんりゅうはとう)図』総刺繍。蝦夷錦(えぞにしき)で、官服を仕立て直したもの。もう一つは『婦女嬉遊(ふじょきゆう)図』綴錦。明末から清初の作で天明5年(1785)に新調されました。 次回はこちら。 |
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祇園祭の紹介がとっても久しぶりになってしまいました。 どうも、回り道が多すぎて疲れたねえ。 今回は、 21放下鉾(ほうかほこ:新町通四条上ル) 22岩戸山(いわとやま:新町通仏光寺下ル) 23船鉾(ふねほこ:新町通綾小路下ル の紹介です。 21放下鉾(ほうかほこ:新町通四条上ル) 謡曲『放下僧(ほうかそう)』に取材した鉾だということですが、天王人形が放下僧である以外、その特徴を見出すことができません。 鉾頭の形から、別名『すはま鉾』とも呼ばれます。 放下僧というのは、中世に手品や曲芸などの雑芸を見せつつ、街頭で僧が法を説く際の集客を助けたり、自らの米銭を乞うたりした人気者で、謡曲『放下僧』は、父の敵討ちを誓った主人公の兄弟が、放下僧に化けて雑芸を見せ、油断した仇を討ち取る話です。 前懸は『中東連花文(ちゅうとうれんかもん)』インド絨毯(じゅうたん)を使用していました。現在のものは復元新調してあります。 幸野楳嶺(こうのばいれい)下絵の破風正面の彫刻など、明治以降の工芸装飾が楽しめます。 昭和4年より、長刀鉾とともに守ってきた生稚児(いきちご)を人形に変更しました。当時、四条堺町にあって、鬮改め(くじあらため)の会場となっていた丸平大木(まるへいおおき)人形店の大木平蔵さんが稚児人形を作りました。 久邇宮(くにのみや)多嘉王(たかおう)より『三光丸(さんこうまる)』と命名されています。 できた当初は生稚児と同様、社参して入魂式が行われました。間接が動き、鉾上で生稚児と同様に三人の人形方によって、稚児舞を演じます。 撥をもった両手を広げて、 太鼓を叩くよお!ドン! 胴縣は放下鉾が特注した『中東連花鉾先文』インドペルシャ絨毯(じゅうたん)及び『中東連花葉文』インド絨毯を使用していました。現在のものは復元新調してあります。 辻回しもかっこいいねえ! 見送りは昭和58年、皆川泰蔵作のローケツ染『バグダッド』が寄贈され、使用されています。なお、この見送には専用の裾金具(すそかなぐ)も付属してあり、同じく皆川泰蔵さんがデザインしたフクロウの図柄です。 22岩戸山(いわとやま:新町通仏光寺下ル) 岩戸山は天岩戸(あまのいわと)のお話を題材にした山です。 屋根の上には伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が鎮座しています。 金色の唐冠(とうかん)に有職文(ゆうそくもん)唐織小袖、雲文金襴大口袴(おおぐちばかま)、花菱七宝文金襴陣羽織を着用。金装の太刀を佩(は)いています。 右手には90cmほどの三叉の矛(ほこ)を突き出すようにもって、矛身の根元から金色の径5cmほどの円球を60cmほどの紐で下げています。 これは、天瓊矛(あまのぬぼこ)と潮(しお)のしずくを表しています。 鉾の中には天照大神(あまてらすおおみかみ)像と、天岩戸(あまのいわと)を取り除いて下界に投げた手力男命(たじからおのみこと)像が安置されています。 天岩戸は落ちた場所に隠され、そこが戸隠(とがくし)山だそうです。 屋根の下にちらりと胴と足が見えているのが素盞嗚尊(すさのおのみこと)です。 天水引は緋羅紗(ひらしゃ)地に彩雲を配した刺繍です。丸の鳳凰を前後に3個、側面に5個配置しています。明治の作で総角結浅葱房(あげまきみすびあさぎふさ)一対を添えています。 前懸は、双唐獅子玉取文様段通(だんつう)です。吉祥図案で雌雄の獅子が戯れると体毛が絡まって鞠(まり)となり、その中から勇猛な児獅子が生まれるという言い伝えがあります。 胴縣・後縣ともに花模様段通です。ペルシャ・アゼルバイジャン地方18世紀作で元文5年(1740)に購入しました。 車輪も立派です。 辻回しの風景です。 見送りは『日月龍百人唐子嬉遊(からこきゆう)図』綴錦です。狩野9代栄岳(えいがく) 23船鉾(ふねほこ:新町通綾小路下ル) 船鉾は、以前紹介した12占出山(うらでやま) や休み鉾の大船鉾と同じく、神功皇后の三韓征伐を題材にした鉾です。 今回は辻回しの風景をお楽しみくださいね。 次回はこちら。 |







