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祇園祭について最初から読まれる方はこちら。
今回は、宵山で撮ったスナップ写真をご紹介します。 山鉾や屏風祭りと少しはなれた街の情景も風情があります。 まず、狭い道に並ぶ町屋と浄妙山(じょうみょうやま)です。 今年は台風が来ていて、宵山での段取りが大きく狂ったようです。 雨の中、鈴鹿山(すずかやま)の組み立て(山建て)をしていました。車輪の上に山を乗せようとしているところです。足元が滑るので大変です。 道においてあった部品です。これを組んでいくんですね。 雨ん中、ようお越しやしたなあ。気をつけてお帰りやす。 雨の光景もいいものです。 浴衣の女性は、帯の後ろに団扇を刺しています。 新撰組の人たちがパトロールしています。愛知県新撰組同好会と会津新撰組同好会のプラカードが見えます。遠路ご苦労様です。 四条傘鉾の中から見た景色はピンク色です。 地面に伏せて動こうとせず、抵抗するワンちゃん。 もう疲れたよお。動きたくないよお。雑踏の人ゴミの足の間なんて、空気が悪くて歩きたくないよお! 飼い主さんには悪いのですが、笑ってしまいました。 そうだね。いつも飼い主の言いなりになってたら、病気になっちゃうよ。 がんばれワンちゃん! 商家の若いお父さんとお子さん。 お父さんの着物の着こなしが粋だねえ。普段から着ていないと、こうはいかないねえ。 祭りのいでたちのちっちゃい子もかっこいいねえ。ちっちゃいけど京の町衆だい! 粽(ちまき)売りは子供が活躍します。 夕闇が迫ってくると、宵山は最高潮を迎えます。でも人が混むので大変です。 提灯の光りがだんだんと色濃くなっていきます。 祇園囃子を奏でています。何ともいえない良い雰囲気です。 夜の月鉾です。 長刀鉾の混雑は身動きが取れません。写真を撮るのが大変でした。 いかがでしたか?山鉾や屏風祭り以外の風景もなかなか良いでしょう? 次回に続きます 次回はこちら。 |
祇園祭の部屋
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ということで、前回の紫織庵の続きです、2階の洋間の途中からです。 まず円筒形の和風のシャンデリアです。 暖炉の上の鏡の前に置いてあった時計です。 暖炉はこんな感じです。こんなところでゆっくり本を読んだら素敵でしょうね。 カーテンも素敵ですね。 豪華な刺繍の帯です。 和服の模様も立派な美術品です。 1階に下りたら、鶴の屏風がありました。雛が可愛いねえ。 反物が並んでいるお部屋です。いかにも京の町屋といった雰囲気ですね。 当然、立派な蔵もあります。 庭石と緑のコントラストが素晴らしい。 蔵の中には立派な箪笥が。 天井の梁が立派です。頑丈にできていますね。 蔵の窓です。まるで銀行の金庫みたい。火災からしっかりとお宝を守ります。 これは、庭師が土足のまま外から庭に入れるように作られた地下道の出入り口です。 広縁はこんな感じです。木の苔がいい感じです。 こういう細工を見るだけでも楽しくなります。 ということで、紫織庵でした。 次回に続きます 次回はこちら。 |
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http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/34800676.html
http://www.shiorian.gr.jp/前回は外から覗ける町屋の屏風祭りをご紹介いたしましたが、今回は紫織庵(川崎家住宅)をご案内します。HPはこちらです。 紫織庵の建物は、大正15年、240坪の敷地に建てらた京の伝統的な「大塀造」建築の代表例だそうです。 洋館部分は日本の近代建築の父と呼ばれる 京都帝国大学建築学科初代教授、武田五一氏が設計し、当時流行したF.L.ライト風意匠に仕上げられ、和室部分は同時代に活躍した数奇屋の名工 上坂浅次郎氏によって建築されています。
平成11年4月には、京都市指定有形文化財に指定を受け、また京都府医学史研究会史跡にも指定されている優れた建物です。
さて写真を撮るよお!って張り切ってカメラを構えたら、着物を着た若いいかにも学生のアルバイトといった感じのお兄さんが、追っかけてきて『それは撮影禁止だ』って言うのです。 屏風を撮っちゃいけないのかな?って思って、置時計を撮っていたら『それも撮っちゃだめ』って言われたから、『だったら、どれとどれとが撮影禁止なのか教えてもらえればそれを守りますから』って言ったら、分からないらしく、奥に聞きに行きました。 それで、戻ってきたらば、ストロボさえ焚かなければすべて撮影OKとのことです。ストロボの光は金箔や顔料に悪影響があるんだって。 但し、ここは襦袢や浴衣などを扱うお店でもあるので、売り物の商品は撮影禁止です。 まず、素敵なランプシェードを撮るよお!細かい仕事だねえ。 広縁のガラス戸はすべて建築当初の「波打ちガラス」で、一枚も破損していないということです。普通のガラスのように表面は均質ではありませんが、クリアさが違います。 客間と仏間の境の欄間は日本画家・竹内栖鳳の作で東山三十六峰をモチーフに桐正目の一枚板で彫刻されています。これだけの正目の桐って凄いねえ。 広縁から見た素晴らしいお庭です。「波打ちガラス」越しに撮影しています。 廊下の向こうに緑が見えてとっても素敵です。 竹林をあしらった屏風です。金箔に緑って合いますね。 洛中洛外図屏風です。とっても見事です。 屏風の細部を写しました。 着物が掛けて飾ってありました。 アンティークの置時計です。 やはり祇園祭の鉾の模型は必需品ですね。 いろいろな画家の絵が屏風に張ってありました。なんとなく気に入った牛の絵です。 丸い照明はシルエットが美しいねえ。 二階洋間サロンに上がります。 20帖の洋間で、大正時代の贅を尽くした造りになっています。 これはYAMAHAグランドピアノの最初期のもので大変に貴重なものだそうです。 以前、関西の超有名人『浪花のモーツアルト』こと作曲家のキダ・タローさんが、地元京阪電鉄のコマーシャルの撮影をここで行ったんだって。 ランプ越しにステンドグラスを写しました。 ということで、写真はまだあるので、続きは次回をお楽しみに! 次回はこちら。 |
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自慢の屏風のお披露目なのです。 それにしても、祇園祭を『概観しただけ』の記事がこれだけの量になるなんて予想もしていませんでした。それだけ奥が深くて見所が沢山あるということなのですね。京都の町衆文化は本当に凄いですね。 それぞれの山鉾や懸装品にこめられた由来を知るだけでも日本の歴史、文化、教養と当時の世界観が俯瞰(ふかん)できるのです。 まだまだあるので、なかなか沖縄に着きません。寒いときに沖縄の記事も暖かくていいかな? 屏風祭は江戸中期から始まり、明治の頃から盛んになったと言われています。 上村松園(うえむらしょうえん)画伯も京都府画学校に入った頃に毎年通い詰めて屏風絵のスケッチをしてまわったそうです。 山鉾の懸装品だけでもインターナショナルで刺激的なのに、屏風祭りも京都の絵師にとって、生きた美術の勉強に活用されたのですね。 やはり、文化というのは環境がなければ育ちません。 有料で中に入ることができる町屋もありますが、外から窓越しに覗くところが多いようです。 今回はスナップ風に外から気軽に覗ける屏風祭ご紹介していきましょう。 まず源平合戦から、『鵯越(ひよどりごえ)の坂落とし(さかおとし)』の屏風です。 屏風はこんな感じで展示されています。 松坂屋(町屋)には武者の鎧兜(よろいかぶと)が飾られています。 鎧兜のアップです。 鉾の模型と屏風です。 こちらは団扇(うちわ)を飾っています。 祇園祭に粽(ちまき)はかかせません。 鷹の絵は縁起がいいのかな? 四季花鳥図です。 京都高島屋百貨店では、鉾の模型が正面入り口に鎮座しています。マネキンも浴衣を着て団扇を持っています。 阪急地下通路でも屏風を展示しています。 このとおり、京都は期間中、祇園祭一色で町全体が美術館で博物館で、かつ『厄払い』のテーマパークなのです。次回も町屋の記事を掲載しますね。
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大の男の弁慶は 長い薙刀(なぎなた)ふりあげて 牛若めがけて切りかかる♪ って、まあ弁慶さんが出ないことには京都は話が始まりません。 都では、夜な夜な、怪僧弁慶(かいそうべんけい)さんが通行人の刀を奪い取り、これを一千本集める祈願(きがん)をたてているという噂でもちきりでした。 そんな手前勝手な願をかけてもらっちゃあ、はた迷惑だねえ。 そして後一本で一千本目という満願成就の日の夜、場所は五条大橋。 橋の袂には花束を持ったミニスカートの女の子が待ち構えています。 どこからともなく聞こえてくる、澄んだ笛の音。 笛の主は、鞍馬山で天狗さんに剣術を教わったので、すこし天狗になっていた牛若丸さんでした。 「お子ちゃまには用はないねえ。がっかりだあ!」と、やりすごそうとした弁慶さんでしたが、牛若丸さんの腰の太刀を見たとたん、「うへえ、みごとな太刀だねえ。この太刀なら、一千本目にふさわしいから、その太刀はもらったよ!」と、長刀(なぎなた)を振りかざし、牛若丸の前に立ちはだかりました。 弁慶さんは、長刀を振り回して牛若丸さんに打ちかかりますが、牛若丸さんったら、こことか思えばまたあちらという具合にひらりひらりと切っ先をかわします。 最後に、高くジャンプしてえびぞりながら、侍ジャイアンツの番場蛮みたく手にした扇を投げつけました。 『牛若ちゃんのえびぞりハイジャンプ魔扇を受けてみよ!どうりゃあああああああ!』 ばびゅーん。ばしっ! 扇は弁慶の額にあたり、弁慶はひっくりかえってしまいました。 「うへえ!痛い痛い。まいったよお!」さしもの弁慶さんも、頭を抱えてうんうん唸りながらガックリひざをついてあやまりました。 弁慶さんの額がぱっくり割れて赤い血がたらたら。これをずっと根にもった弁慶さんは、後に本能寺の変を起こし・・・・。というのはうそです。 でもねえ、明智光秀の本能寺の変の原因だとされている『森蘭丸に命じて鉄扇で光秀の額を打たせた恨みから』っていう説の根拠って、ここからパクったんじゃないかねえ?森蘭丸も美少年だったらしいし…。 弁慶さんは、このときから牛若丸さんの家来となって、いつまでも牛若丸さんにつかえましたとさ。 めでたしめでたし。 それにしても、それまで弁慶さんが集めた999本の刀はどうなったんだろうねえ。 無責任な話だねえ。きっと古物商に回して儲けたんだろうねえ。挙兵の軍資金にしたのかな? ところが、謡曲の『橋弁慶』は話が違っています。 比叡山西塔に住む武蔵坊弁慶は、宿願祈願のために、京都へ宮参りを志しましたが、五条大橋の近くに、少年の辻斬りが出ると聞いて、その少年を懲らしめてやろうと思い立ち、辻斬りが出そうな夜になってから出掛けました。 実はその少年こそ、何を隠そう平家の討伐(とうばつ)と源氏再興の為に夜毎に五条の橋の上で、辻斬りを装い、腕の立つ家来を見出してスカウトしようとしていた牛若丸その人だったのです。 牛若丸さんったら、渋谷で女の子をスカウトしようとするタレント事務所の人みたいだったんだねえ。 それにしても『辻斬りを装い』って言っても、実際に人を斬らなきゃあ、『辻斬り』って呼ばれないよね?斬られた人はかわいそうだねえ。ひどい話だねえ。 運命の勝負が五条の橋の上でくりひろげられます。 『あれえ?弁慶さんは強いねえ。こんだけ強ければ、家来になってもらったら、とっても役に立つねえ。ちょっと弁慶さん。うちの事務所に入らない?ギャラは弾むよお☆』 切り結ぶうちに、美少年牛若丸の大望が分かってきたので、弁慶さんは適当な所で負けて、牛若丸の家来となりましたとさ…。 どちらの話もフィクションで、五条橋での勝負というのも後年付け加わった設定みたいです。 『義経記』では、二人が出会ったのは、『五条天神』とされているそうです。 仮に、五条橋の勝負が本当だとしても、当時の『五条橋』は、今の五条大橋より一つ上流に架かる松原橋の位置にあって、橋を渡ると六原を経て清水寺に至るから『清水橋』ともいい、また、橋の修理は清水寺が勧進(募金)しておこなったから、『勧進橋(かんじんばし)』とも呼ばれたそうです。 歌舞伎の『勧進帳』と符合するのは偶然かな? 今の『五条大橋』は秀吉が天正年間に豊臣秀吉が架けた橋の位置だそうです。 いずれにせよ。牛若丸と弁慶の話って楽しいね☆ それでもって、橋弁慶山は、謡曲の『橋弁慶』を題材としています。 橋弁慶山は、古来よりくじ取らずで、後祭の先頭を巡行してましたが、明治5年以降は北観音山が復興されたため、編成上の理由で次の二番目に巡行することになっています。 舁山(かきやま)では唯一のくじ取らずの山で、また、巡行時のくじ改めの時、奉行の前で山をまわさず特別扱いになっています。 やっぱり牛若丸さんは特別だったんだねえ。 いわゆる判官贔屓(ほうがんびいき)なんですねえ。 牛若丸さん=元服して源義経さんのことを 『 源九郎判官義経 (くろうほうがんよしつね)』っていうからねえ。 町屋に展示してあった五条の橋。黒漆塗りに鍍金(ときん)の擬宝珠(ぎぼし)が美しいのです。 擬宝珠のアップです。 町屋の2階に展示してあった牛若丸さん。 身長約120cm、眉は、室町末期に公家男子元服以前の子供に施されていた『八文字眉(はちもんじまゆ)です。頭部には『永禄6年(1563)6月吉日、七条大仏師 康運之作造』と書かれています。 こっちが弁慶さん。 白木綿の鉢巻を締めています。手首と足首に太い縄を巻きつけて、長刀は関兼明(せきのかねあき)の黒漆塗長刀でしたが、現在はレプリカ(模造品)が使われています。 巡行のときの橋弁慶山。 弁慶は鎧姿に大長刀を斜めにかまえ、牛若丸は橋の欄干の擬宝珠の上に足駄で立ち片足を曲げ右手に太刀を持っています。 牛若丸さん、『ひらり』ってかっこいい! 前掛は18世紀清朝時代の官服を切り継ぎした真向龍(まむきりゅう)刺繍が懸かっていましたが、現在のものは富岡鉄斎筆『椿石図』綴錦です。 胴掛けは、円山応挙下絵と伝わる葵祭(あおいまつり)を絵巻風に描写した『賀茂祭礼行列図』綴檻で、牛車(ぎっしゃ)や近衛使(このえつかい)、検非違使(けびいし)などがあしらわれています。 後掛は昔の前掛に応じた大小の龍3頭と瑞雲岩波刺繍です。見送りがないので、他の山鉾では隠れている後掛が見えるのが特徴です。 それにしても、昔のラグビー日本代表の平尾 誠二(ひらお せいじ)選手と大八木 淳史(おおやぎ あつし)選手って、牛若丸さんと弁慶さんみたいでかっこ良かったねえ。 ということで、今回はかっこいい橋弁慶山でした。 次回に続きます 次回はこちら。 |





