江戸・東京の部屋
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その1から読まれる方はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html 三島由紀夫事件について最初から読まれる方はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52963429.html 前回は、三島由紀夫事氏の檄文(全文)を掲載いたしました。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53004853.html 今回は、檄文について私なりの解釈を述べてみましょう。 三島由紀夫氏は檄文で、憲法改正と、自衛隊の国軍化を訴えていました。 まず、憲法というのはその国の最高法規です。 ところが、日本国憲法は、日本が聯合国に占領統治されていた時代にGHQがフィリピンに押し付けた憲法を基にやっつけ仕事で作った国際法違反の押し付け憲法です。 英文をむりやり短期間で翻訳したものだから、読みにくいったらありゃしないのに、どういうわけか左翼の人達は『声を出して読みたい名文だ』と言っています。 この人達って本当に日本人なのでしょうか? 日本の敗戦当時、日米共に批准していた国際条約=戦時国際法に『ハーグ陸戦条約』というのがあります。そこには、 ※ ※ ※ 第43条 [占領地の法律の尊重] 国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限、占領地の現行法律を尊重して、成るべく公共の秩序及生活を回復確保する為、施し得べき一切の手段を尽すべし ※ ※ ※ という条文があります。 GHQの押しつけ憲法は国際法違反の重大犯罪です。 この条約を制定し、批准した国々は、まさか『占領地の現行法律を尊重』するどころか、最高法規である『憲法』を改変するような厚顔無恥の無法者国家が出現しようとは夢想だにしなかったに違いないのです。 それについて三島氏はこう述べています。 われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を成して来てゐるのを見た。 最高法規である憲法がこのような欺瞞に満ちた存在なのに、誰がそれより下位の法律なんて信用するのでしょうか? 今の憲法自体が、法治国家の否定なのです。 これが国民のモラルの崩壊を招くのは当然のことです。 ※ ※ ※ 第二章 戦争の放棄 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 ※ ※ ※ 普通に上記の日本国憲法第9条を読んだら、自衛隊はあきらかに憲法違反(違憲)の存在でしょう。 『国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』っていうのですからね。 つい先日も、田中直紀防衛大臣が自衛隊の合法性の根拠を答えられなかったといって批判されていましたが、この『根拠』というのが『1946年8月21日:日本国憲法草案に対する芦田小委員会修正案』だというのだから笑わせます。 これは、『前項の目的を達するために、』という文言が2項の冒頭にあるのだから、『前項の目的に含まれていない』自衛のための『陸海空軍その他の戦力は』『これを保持』してもいいし、『自衛行為』は認められているというのです。 しかしながら、『自衛行為も』前項の『武力による威嚇又は武力の行使』であり『国際紛争を解決する手段』に含まれるのですから、明白に憲法違反じゃないですか。 こんなの理屈にも何もなっていないインチキです。 こういうインチキ解釈をやるのが東大法学部と官僚なんですよね。 ところが、三島由紀夫氏自身が、東大法学部卒で官僚中の官僚である大蔵省(現財務省)に入省していたのです。 三島氏はこの日本の代表的な本流中の本流のエリートコースを何の未練もなく捨て去り、辞めてしまったのですが・・・。 そもそも軍隊というのは、命のやりとりをする公務です。 例えば、一般人(非戦闘員)を殺せば『殺人』なのが、正規の戦闘行為に於いて相手の戦闘員を殺せば、それは『戦果』であり、『英雄』として勲章が授与されたりします。 チャップリンの『殺人狂時代』という映画の最後の台詞『一人殺せば犯罪者だが、100万人殺せば英雄』というのは、『反戦平和』とやらをお題目のように唱える日本人もよく引き合いに出しますが、これは全くの出鱈目です。 この人は、左翼の例に漏れず、全く戦闘員と非戦闘員の区別が付いていません。 軍人といえども、国際法上、非戦闘員を一人でも殺せばこれは殺人なのであって、立派な戦争犯罪者です。 アメリカ軍の東京空襲他大都市の非戦闘員の虐殺を目的とした空襲や、来るべき東西冷戦構造を見越したソ連共産主義へのデモンストレーションと、原爆の人体実験を目的とし、非戦闘員の大量虐殺を引き起こした広島長崎の原爆投下で、民間人を100万人以上殺しましたが、これは『国際法違反の戦争犯罪=殺人』以外のなにものでもないのです。 自分が殺されることが敵の名誉になる。 つまり、常に死と隣り合わせである過酷な公務の『軍人』が、戦うとすれば、『命以上の価値=大義』がなければなりません。 当たり前の話です。 なのに、自衛隊の根拠が自衛隊を否定するインチキ憲法だからたまりません。 三島氏はこう述べます。 ?H1>日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。
命以上の価値。 日本の文化・歴史。日本の国体(国柄)を徹底的に破壊し、日本を二度とアメリカに刃向かえないように7年間に亘って占領し、洗脳し続けてきたのがマッカーサーのアメリカでした。 親米、親ソ、親支那、親北鮮。これらの人達は立場か違うように見えても、いずれも日本の文化・歴史。日本の国体の破壊については同じ穴の狢(むじな)なのです。 ?H1>楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体があきらかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。
三島氏は、議会制度下での憲法改正は不可能だと判断していました。 ですから、安保騒動に於ける争乱の収拾が警察では不可能だとなった時、自衛隊の治安出動がなされ、これによって、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」という日本国軍の建軍の本義が日本国民の目にもあきらかになり、これによってのみ、憲法改正が可能だと考えていたのです。 ところが、三島氏の企図はもろくも崩れ去ります。 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰めともいふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本精神に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。 結局極左暴力集団の煽動によるデモは警察権力のみによって鎮圧されたのです。 この結果、どういうことが起きたのか? これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる!政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。 『名を捨てて、実をとる』。民主主義が政治的なルールである以上、政治家はこれで安泰なのです。 佐藤栄作首相は、事実これにより長期安定政権を保持し、これがベトナム戦争等で混乱をしていた東南アジアでの最後の秩序の砦となり、後にこれが評価され、佐藤栄作氏はノーベル平和賞を受賞したのです。 ところが、『命のやりとり』を職務とする軍隊にとって、『命以上の価値』がなければ、命がけの戦闘に向かえるわけなどないのです。 特攻により散華された植村大尉は、当然、祖国と残してきた家族に自分の命以上の価値を見いだしていたのです。 日本はいまだにこういった国の存亡にかかわるような重要問題を先送りにし、うやむやにしながら、国体を朽ち果てさせていっているのです。 (中)に続きます。 |
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その1から読まれる方はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html ということで、東京裁判について長々と記述したのですが、まだまだ書きたいことはあって、前に進まないので、東京裁判については、別コーナーで書きますね。 それで、一旦記念館の玄関に戻り、2階にあがります。 階段のデザインも美しいねえ。 2階の旧陸軍大臣室(前陸自東方総監室)です。 現在は、旧一号館時代の建物の模型が据えられています。 ここは、士官学校時代、士官学校長室として使われました。 昭和16年以降は陸軍大臣室でしたが、その後は陸上自衛隊東部方面総監の執務室として使われました。 陸上自衛隊東部方面総監の執務室時代にここで起きた事件が、三島由紀夫事件なのでした。 事件があった当時の建物(旧一号館)の写真。 事件現場の現在の写真(再掲) ガイドのお姉さん(聞いたらば、自衛隊員じゃなくて、人材派遣会社から派遣されているお姉さん)は三島由紀夫事件の説明の時、『三島は』と三島由紀夫氏を呼び捨てにしていて、まあ、三島氏は東部総監を人質に取り、もみ合った際に自衛隊員を傷つけたのですから、立場上それは仕方がないのですが、やはり、三島由紀夫事件が起きたこの部屋は東京裁判のあった大講堂と並んで、市ヶ谷ツアーの大きな目玉だと言うことは否定できないのでした。 昭和45(1970)年11月25日午前11時過ぎ、三島由紀夫事件が発生しました。 当日の朝日新聞号外【週刊昭和 NO.4 昭和45年 1970大阪万博/三島由紀夫自決/公害列島 朝日新聞出版より】 昭和45(1970)年11月25日午前11時過ぎ、総監室で三島由紀夫氏他4名(総勢5名)は計画を実行に移します。 総監の益田兼利陸将と歓談し、自慢の名刀「関の孫六(せきのまごろく)」を益田総監に見せた後、飛び掛って縛り上げ、人質に取って総監室に立て籠もります。 よく事件の概要を示した文章に『東部方面総監部に三島由紀夫ら楯の会が乱入する事件が発生(三島事件)』などと書かれていますが、これは全くのでたらめです。 たった5名で自衛隊の東部方面総監部に乱入なんてできるわけがないでしょう。あらかじめ面接の約束があった上での訪問だったのです。 様子を見にきて事態に気がついた幕僚8名は総監救出をこころみますが、5名は日本刀などで応戦し追い出ます。 もみあいの際に三島氏等が振りかざした日本刀でついた刀傷が残っています。 このドアは幕僚室から総監室に入るためのものです。 (昭和四十六年四月二十六日に弁護側の申請により行われた現場検証場所【裁判記録「三島由起夫事件」伊達宗克 講談社 P81より】) 【前掲書P114】によると、 公判における益田総監の証言によると、櫛淵裁判長の三島氏の刀の振り方についての問いに対し。 『ときどきは振り上げたりすることもあったが、いざ切るときには、なで斬りでした。(刀の柄の)握りしめはなかったと思う。斬る意思はあっても、重傷を負わせるつもりではなかった。後遺症の残るものもいるが、あれだけで済んだのは斬り方に気をつけたためだろう』 三島由氏は、自衛官と詰めかけたマスコミ陣に向け30分間演説することを要求してそれを認めさせた後、バルコニーで憲法改正のための自衛隊決起(クーデター)を促す演説をしました。 三島氏が最期の演説を行った後、正座をして皇居を向いて「天皇陛下万歳」を三唱したバルコニーです。 事件現場(陸上自衛隊東部方面総監の執務室)と、極東軍事裁判が行われた大講堂跡。皇居と、靖国神社、国会の位置関係はこうなっています。 拡声器をもちこまず、肉声での演説は、野次や怒号、報道ヘリコプターの音にかき消されます。 決起の呼びかけに応じる自衛隊がいないことを確認した三島氏は、わずか7分で演説を切り上げました。 総監室に戻った三島氏は、自身の腹に短刀を突き立て自決しました。 検察側の冒頭陳述によると【前掲書P79】 ※ ※ ※ 午後零時十分ころ三島は総監に対し「こうするより仕方がなかったのです」といって制服を脱ぎ、正座して短刀を両手に持ち、気合いを入れて左脇腹に突き刺し、割腹した。 このとき、正座したままの三島の左後方に日本刀を持って立った森田が、三島の頸部に斬りつけたが介しゃくを果たさなかったので、被告人小賀、同古賀は、「森田さんもう一太刀」と声をかけ、森田がさらに二大刀、ついで被告人古賀が一太刀切りつけて介しゃくし終わった。 この結果、即時三島を頸部切断により死亡させた。 この間、被告人小川は、割腹、介しゃくが自衛隊員らに妨害されないよう正面入り口付近で見張りをしていた。 次に、森田は、制服を脱ぎ、正座した。森田は、被告人小川が介しゃくする手はずになっていたが、被告人小川は、右のように見張りをしていたところから、「小賀頼む」といった。 しかし、被告人小賀は、総監を監視していたため、森田の介しゃくを被告人古賀に依頼した。同被告人は、被告人小賀から日本刀を受け取り、森田の左後方に立ち、森田が担当を腹にあてて割腹し、正座したまま「よし」と合図するや、一太刀で介しゃくを遂げた。 この結果、即時森田を頸部切断により死亡させた。 被告人三名は、三島、森田の介しゃくを終えて両死体をあお向けに直して制服をかけ、両名の首を並べて合掌した。 そのあと、総監を縛ったロープを解き、総監も、両名の首に向かって瞑目合掌した。 次いで、被告人三名は、総監室前に総監を連れて出て、日本刀を自衛官に渡し、午後零時二十分警察官に逮捕された。 ※ ※ ※ 三島由紀夫事件を報じた朝日新聞号外【週刊昭和 NO.4 昭和45年 1970大阪万博/三島由紀夫自決/公害列島 朝日新聞出版より】。 新聞記事の写真はここを写したものです。 上の記事の写真左側と文章の間に不自然な空白がありますが、最初この空白部分の写真に三島由紀夫氏と森田必勝氏の首と思われる陰影が写り込んでいて、その後朝日新聞はその部分をカットしたのです。 【前掲書より】 赤く表示した『写真がカットされた部分』の下側。つまり、先ほどの刀傷のあったドアの前の赤い絨毯の上の部分に切腹し介錯された二人の首と思われるものが並んでいました。 例えば、前掲書には、事件当日の朝日新聞の紙面が載っていますが。 事件現場の記事【こっちは『号外』でなく『夕刊』】にはこのように、不自然な空白はなく、丁度二人の思われる陰影が写り込んでいたと思われる部分は別の紙面で隠されています。 さっきの写真の当該紙面の部分。 『常軌を逸した行動』という小見出しと写真の間に余白が無いでしょう。 当日夕刊の早刷りは、写真のカットが施されずに問題の部分がそのまま掲載されていたということです。 それにしても、メディアって酷いですね。 江戸時代、一番の極刑は『獄門』でした。遺体を晒し者にするのが一番の重刑だったのです。 それなのに、朝日新聞は切り落とされた首の写真を紙上に掲載するなんて、この人たちは普段から人権人権と声高に叫ぶくせに、人権を説く以前に、人間として異常です。朝日新聞は今も酷いのですが、自分に逆らう意見の持ち主に対してはどんな酷いことでもするのです。 ところで、三島由起夫事件の現場は、今なお背筋が寒くなるような雰囲気があるのです。 三島由紀夫氏の予見した日本の没落は現実となってその姿を現しつつあります。 もし三島氏が今なお生きていたら、今の日本についてどのような発言をしたのか?私はそれを思わずにいられません。 ただ、この問いは無益なのですね。仮に、1945年に三島氏が自決しなかったにしても、それ以降、日本のこのていたらくを観るに付け、何回自決しても足りないでしょうから。 |
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今村閣下は、その人柄や軍人としての能力、軍政は今日でも旧占領国のみならず、敵国であった連合国側からも称えられていた名将でした。 大東亜戦争開戦に際し、今村閣下は第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。 帝国陸軍の最精鋭空挺部隊である挺進連隊や、一式戦闘機『隼』配備の飛行第64戦隊・飛行第59戦隊の活躍により、パレンバンの油田地帯を制圧(パレンバン空挺作戦)。 わずか9日間で約9万3千のオランダ軍と約5千のイギリス軍・アメリカ軍・オーストラリア軍を降伏させました。 その際に今村閣下は、オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放し、資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から接収した資産で各所に学校の建設を行い、日本軍兵士の軍規の保持や治安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めました。 かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人の待遇を良くするなど寛容な軍政を実施しました。 また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌『インドネシア・ラヤ』が、ジャワ島で盛んに歌われていることを知った今村閣下は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれたといいます。 その後1942年(昭和17年)11月20日、今村閣下は第8方面軍 (日本軍)司令官としてニューブリテン島に位置するラバウルに着任。 今村大将以下の第8方面軍は、草鹿中将以下の南東方面艦隊と共に、孤立しながらも奮戦。アメリカの猛攻に耐えながら、終戦までラバウルを確保しました。 1945年(昭和20年)8月15日、日本が降伏し第二次世界大戦は終結。 今村閣下は戦争指導者として戦争犯罪者の容疑により軍法会議にかけられます。 第8方面軍司令官の責任を問われたオーストラリア軍による復讐裁判では、一度は死刑にされかけますが、現地住民などの証言などもあり禁錮10年で判決が確定しました。 他方、第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされました。 その後、今村閣下はオーストラリア軍の禁錮10年の判決により、1949年(昭和24年)に巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に送致。 しかしながら、今村閣下は「未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると、自分だけ東京にいることはできない」として、1950年(昭和25年)には自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望し、妻を通してマッカーサーに直訴したといわれています。 その態度にGHQ司令官のマッカーサーは、「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」と言ったといいます。 その後刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた小屋に蟄居し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら「回顧録」を出版し、その印税はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に用いられました。 今村閣下は1968年(昭和43年)10月4日死去。享年82歳でした。 このような名将の存在を、戦前戦中、自らさんざん戦争を煽ったメディアは、徹底的に隠蔽し、日本軍がいかに残虐非道だったかということを口を極めて喧伝します。 金鵄勲章(きんしくんしょう)の授与を証した賞状です。 御名御璽(ぎょめいぎょじ)というのは、本来、君主の名前(の署名)及び公印を意味します。 金鵄勲章はかつて大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の軍人軍属に与えられた日本の勲章です。 『金鵄(きんし)』という名前の由来は、神武天皇の東征の際に、神武の弓の弭【ゆはず:弓の末端にあって、弦の端をひっかける金具。また、弓の末端部】にとまった黄金色のトビ(鵄)が光り輝き、長髄彦(ながすねひこ)の軍を眩ませ、降参させたという逸話に基づいたものです。 賞状には金鵄勲章の図案があしらわれていますが、これは印刷じゃなくて手書きなのだそうです。とても細かい仕事でびっくりです。 功級により金鍍金の範囲が異なりますが、ほとんどの等級で意匠は同一で裏面の装飾はありません。 功一級の副章及び功二級の正章のみ、斜めの旭光部分に黄色の七宝が用いられています。 綬(じゅ)は浅葱色(あさぎいろ)と呼ばれる鮮やかな緑色を織地に白の双線が配されています。佩用式(はいようしき)は旭日章(きょくじつしょう)などと変わりませんが、功一級の大綬は日本の勲章では唯一、左肩から右脇に掛けました。 千人針(せんにんばり)です。 出征兵士の武運長久を願うお守りとして、多くの女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作ります。 1メートルほどの長さの白布に、赤い糸で千人の女性に一人一針ずつ縫って結び目をつくってもらうのですが、寅年生まれの女性は特例として自分の年齢だけ結び目を作る事が出来ます。 これは虎が「千里を行き、千里を帰る」との言い伝えがあるからです。 同じ理由で、ただ単に縫い目を並べるのではなく、虎の絵を刺繍で描いた例も多く見られるそうです。 また、穴の開いていない五銭硬貨や十銭硬貨を縫いこむことも行われました。 これは「五銭」は「死線(しせん=四銭)」を越え、「十銭」は「苦戦(くせん=九銭)」を越えるという事に由来しています。 他に、神社などの護符を縫いこんだ例もあったようです。 兵士は、この千人針を銃弾よけのお守りとして腹に巻いたり、帽子に縫いつけたりしました。 千人針は、日露戦争の頃から、行われるようになりましたが、この頃には「千人結び」や「千人力」などの名でも呼ばれていたそうです。 その後、支那事変から太平洋戦争にかけて日本全国に普及していく過程で、呼び名も「千人針」で統一されていきました。 戦時中は、街頭で通行中の女性に縫い取りの協力を求める光景が良く見られたそうです。 大東亜戦争の後は、日本が戦争を経験しなかったことから、千人針が行われることもなくなりましたが、自衛隊イラク派遣での第4次復興支援群派遣に際しては、出動する自衛隊員に千人針が贈られたことがあったそうです。 軍用手票(ぐんようしゅひょう)です。 一般的には『軍票(ぐんぴょう)』とよばれます。 日本が敗戦したので、この軍票は何の価値も無くなってしまいました。うへえ。 ということで、次に続きますね。 |
【ファイルET54】2011.12.19 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その13)東京裁判において、日本軍が規律を守り、敵兵・市民に対して仁慈の念をもって接したという証拠資料として提出された戦陣訓防衛省ツアーの市ヶ谷記念館大講堂の記事の続きです。 日本側の弁護人であった清瀬一郎による東京裁判の冒頭陳述書から引用しましょう。 【秘録 東京裁判 清瀬一郎 中公文庫P237より】 ※ ※ ※ 太平洋戦争中の事件とドイツの行為 検察官はしばしば太平洋戦争中に起こった事件と、ドイツが欧州戦争中に行った行為とを比較しておられます。ことに太平洋戦争中に発生しましたテロ行為、残虐事件はドイツにおいて行われたものと同一型のものであること、またこれらの行為は偶然に発生した個人的の不正ではなくして、国家の政策として計画せられたものであるとまで極言されております。 被告弁護人は日本の中央政府並びに統帥部は、戦争の法規慣例は厳重にこれを守ること並びに一般市民並びに敵人といえども、武器を捨てた者には、仁慈の念をもって接すべき旨をきわめて強く希望したことを証明する用意があります。それがために一九四三【ママ:一九四一の誤りか?】年一月には戦陣訓というものがつくられて、兵卒には一人残らずこれを交付いたしました。また海軍ではかねてよりこの点に関する国際法規の徹底には努力いたしました。そして違反者は軍法会議によって裁かれたのであります。前線の指揮官は常にこの点を強調しております。 ただ戦争の末期にわたりまして本国との交通も途絶し、戦線は分断せられ、その司令官との通信も不能となり、食料は欠乏し、自己の生存は刻々危険となったような場合、または現地人の非道なるゲリラ的妨害を受けたような場合には、非人道的行為が行われたであろうことは認めねばならぬと思います。准士官及び仕官の労務に関しては、必ずその自発的の申し出によって労働に服せしめるということを命じております。 これらのことについては第一部門において具体的に証明いたします。わが国においては、ドイツにおいて行われたと言われまするユダヤ人等を迫害するというがごとき故意の人道違反を犯したことはかつてありませぬ。この点において、ドイツの戦争犯罪の場合と非常に相違のあることを第一部門において証明されなければなりませぬ。 ※ ※ ※ 以上、清瀬弁護人は、ドイツにおける戦争と日本のそれの違いを適確に指摘しています。 ドイツ政府は、ユダヤ人等を迫害しましたが、別にドイツはユダヤ人等と戦争をしていたわけではありません。戦争とは別に計画的な民族浄化政策の一環としてホロコーストを行ったのです。 日本政府はそのような残虐行為を国家として行っていません。 ドイツ政府の成した残虐非道な行為を他に捜すなら、それはアメリカの行った広島長崎への原爆投下しか見当たらないでしょう。
前回、戦陣訓の全文を御紹介しましたが、清瀬弁護人の正しいことは一目瞭然です。
戦陣訓の全文はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52859946.html まず、序で、 ※ ※ ※ 夫(そ)れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍(あまね)く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威(みいつ=御威光)の尊厳を感銘せしむる処(ところ)なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅(かた)く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。※ ※ ※ 皇軍として恥ずかしくない道義を保持するためにこの戦陣訓を作ったと言っているのです。 また、問題の『生きて虜囚の辱を受けず』のある章を見てみましょう。 ※ ※ ※ 第八 名を惜しむ 恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう=郷里を同じくする仲間)家門(かもん)の面目(めんぼく)を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)して其の期待に答ふべし。生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ。※ ※ ※ この章は、故郷の仲間やご先祖様、一族郎党に恥ずかしくないよう、正々堂々と戦えというのが主旨です。 ネット上では『生きて虜囚の辱を受けず』と『死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』という言葉をつなげて、捕虜にならず死を選べと言っていると、無茶苦茶な解釈をしているものをよく見かけますが、これは、『生きて・・・』と『死して・・・』が対句をなしていて、たとえ死んでも罪過の汚名を残すようなことのないよう、軍規軍律を守れと言っているのです。 『生きて・・・』の解釈については、前々回説明したとおりです。 ※ ※ ※ 第十 清廉潔白(せいれんけっぱく) 清廉潔白は、武人気質の由(よ)つて立つ所なり。己(おのれ)に克(か)つこと能(あた)はずして物慾に捉(とら)はるる者、争(いか)でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。身を持するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)ぢざるべし。 ※ ※ ※ 皇軍として恥ずかしくない行動を保持せよと言っているのです。 また、 ※ ※ ※ 本訓 其の三 第一 戦陣の戒 一 一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳(げん)に警(いまし)めざるべからず。敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭(いと)ふこと勿れ。不注意も亦災禍(またわざわい)の因(もと)と知るべし。(中略)六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅(じんめつ)等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依(よ)るべし。七 皇軍の本義に鑑(かんが)み、仁恕(じんじょ)の心能(よ)く無辜(むこ=罪のないこと)の住民を愛護すべし。八 戦陣苟(いやしく)も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎(かいしん)し、断じて武人の清節を汚(けが)さざらんことを期すべし。九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔(くい)を後日に残すこと多し。 軍法の峻厳(しゅんげん)なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思を父母妻子の真情に馳せ、仮初(かりそめ)にも身を罪科に曝(さら)すこと勿れ。第二 戦陣の嗜(たしなみ) (前略) 四 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、馬匹(ばひつ)を愛護せよ。五 陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。「立つ鳥跡(あと)を濁(にご)さず」と言へり。雄々(おお)しく床(ゆか)しき皇軍の名を、異郷辺土(いきょうへんど)にも永く伝へられたきものなり。六 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。 他の栄達を嫉(そね)まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。七 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。八 常に大国民たるの襟度(きんど=度量)を持し、正を践(ふ)み義を貫(つらぬ)きて皇国の威風を世界に宣揚(せんよう)すべし。国際の儀礼亦(また)軽(かろ)んずべからず。九 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具(つぶさ)に思を護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。※ ※ ※ どうです? 『敵及住民を軽侮するを止めよ』と戒め、『敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅(じんめつ)等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依(よ)るべし』と軍規により律し、『皇軍の本義に鑑(かんが)み、仁恕(じんじょ)の心能(よ)く無辜(むこ=罪のないこと)の住民を愛護すべし』と非戦闘員である住民の愛護を求めているのです。 また、『馬匹(ばひつ)を愛護せよ』と軍馬を愛するように命じています。こんなきめ細かい軍規は他国にあるのでしょうか? さらに、最後の『万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具(つぶさ)に思を護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし』というように、生き延びた人が戦死した人の英霊を祀るという約束をしているのです。 それにしても、東京裁判において、日本側が戦争の法規慣例を厳重に守ることを命じていて、決して組織的に敵や捕虜に対して残虐行為を行ったわけではないという『証拠』として提出した『戦陣訓』を、日本軍が兵の命を粗末にしたという言いがかりに利用している人達は何を考えているんでしょう? 私にはさっぱり理解できません。 ということで、次に続きますね。 |





