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【ファイルET83】2013.08.01 銀座の伝統がある泰明小学校だよ

関東大震災の教訓を生かして、子供の安全を考えた震災復興小学校なんだねえ。

 カフェーパウリスタでブラジルコーヒーを堪能し、有楽町駅の方に戻ると、ビルに囲まれた、緑の建物を見つけました。
 カフェーパウリスタの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54322899.html

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 これが、東京都中央区銀座にある中央区立泰明小学校(ちゅうおうくりつ たいめいしょうがっこう)です。

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 ランプがとってもお洒落だねえ。

 校名のプレートに“TAIMEI  ELEMENTALY SCHOOL”と英文表記もされています。

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 “フランス門”と呼ばれる瀟洒なデザインの門扉がとても素敵です。その両脇には緑が植わったアーチ型の開口を有する塀が設置されています。

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 説明プレートもあります。

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 ※    ※    ※

 みゆき通りと門扉(もんぴ)

 この通りは明治天皇が宮城(きゅうじょう)より海軍兵学校に御行幸(ごぎょうこう)された折にお通りになられたことから みゆき通りと呼称されるようになったといわれている また門扉は その時代南フランスの貴族の館で使用されていたものである

 ※    ※    ※

 こんなカッコイイ小学校だったら、通うのも楽しかろうねえ。

 校舎はこんな感じです。

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 ツタの絡まる校舎の外壁。時計のあるところが、バルコニーになっているのかな?

 もう一つプレートが。

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 ※    ※    ※

 東京都選定歴史的建造物
 Tokyo Metropolitan Government Selected Historical Structures

 中央区立泰明小学校
 Taimei Elementary School

      所在地 中央区銀座五丁目1番1番13号
                  設計者 東京市
                  建築年 昭和4年(1929)

 泰明小学校は明治11年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造の校舎として建て替えられたものである。
 表現主義と呼ばれる建築様式の建物で、カーブを描く壁面やアーチ窓等を使った外観に特徴がある。L字型校舎の南端に位置する玄関部分には、柱や入口庇等に個性的な装飾が集中して施され、建物の顔となっている。これらの意匠は、震災復興期につくられた他の小学校ではあまり見受けられない個性的なものである。また、校庭に面した側の窓は他の学校より大きくとられ開放的な印象を与えている。
 蔦のからまる校舎は銀座のシンボルとして人々に親しまれており、今なお往時の景観を残している。
             東京都
             Tokyo Metropolitan Government

 ※    ※    ※

 泰明小学校は、校舎の講堂と雨天体操場が上下二層構造となっている点も特徴のひとつで、隣接する数寄屋橋公園等と一体的に計画することによって、工夫の凝らされた建物配置を行い、都心小学校特有の狭小敷地でもあるにも関わらず、日当たりが良く明るい施設になっています。

 南端の玄関部分です。

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 3階の半円形の窓が特徴的ですね。左端には銀座名物の柳の木が植わっています。

 玄関の柱が、タケノコみたいだねえ。

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 右側に『泰明小学校』のプレートが、左側に『泰明幼稚園』のプレートが設置されていますね。

 玄関右にはアーチが。

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 ここにも石碑があります。

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 ※    ※    ※

 昭和五十三年六月二十五日
 泰明この日百年

 泰明小学校は明治十一年にこの地の公立小学校として創立されここに一世紀を経ました
 この間国運の消長時代の変革社会の推移制度の変遷の中で常に地域の初等基礎教育を担いました
 特に関東大震災第二次世界大戦時には再度灰燼に帰しながらも復興し内実を深め校風を維持 絶えず誇り高く歩み続けいまや有為な人材一万人あまりを地元日本の銀座をはじめ広く世に送っています
 また幼稚園は昭和二十八年に開設され泰明の一貫教育に貢献しています

        Taimei Elementary School Establishment 1878
        Taimei Kindergarten Establishment 1953

 ※    ※    ※

 涼しげな緑を纏ったいかにも日当たり良好そうな窓です。

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明治11(1878)年6月、東京府公立泰明小学として創立された歴史と伝統のある小学校です。

 創建当時は赤れんがの校舎だったそうです。

 明治40(1907)年、東京府東京市泰明尋常小学校と校名変更。

大正12年(1923)年に発生した関東大震災によって焼失した木造校舎に代わり、昭和4(1929)年に鉄筋コンクリート造3階建校舎として再建されます。震災の教訓から、震災復興事業の一環として通常の壁厚が15cm程度であるのに対し、22cmを有する堅牢なつくりに設計されました。


 大東亜戦争の戦局がおしつまった昭和19(1944)年4月、埼玉県大里郡・八基村(現深谷市)に学童185人の集団疎開が行われました。

 昭和20(1945)年1月の空襲により教師4人が殉職されます。
 同年5月24日の焼夷弾により校舎全焼。
 軍事施設でも何でも無い民間施設の小学校を爆撃するのは、明らかな戦争犯罪行為です。

 校舎は全焼しましたが、堅牢に作られていた校舎は見事に復興を遂げ、現在に至っているのだそうです。

泰明小学校は、一連のいわゆる震災復興小学校の中でも、特に中央区立常盤小学校と共に東京都選定歴史的建造物及び経済産業省近代化産業遺産に指定され、歴史的な建造物としても高く評価されています。


 平成21(2009)年度より中央区特認校制度の指定校に。

 校歌の作詞者は『花』や、『美しき天然』などを作詞した武島羽衣、作曲者は『故郷』、『朧月夜』などを作曲した岡野貞一です。

 泰明小学校出身の著名人は以下の通りです。
朝丘雪路、池田彌三郎、和泉雅子、加藤武、金子光晴、北村透谷、近衛文麿、島崎藤村、殿山泰司、中山千夏、福田徳三、信欣三、稲山嘉寛、河原崎国太郎、矢代静一、澤村田之助、村田あゆみ、はんつ遠藤、平賀譲

 多士済々の人材を輩出しているのですね。
   
 ちなみに、以前、洋食屋さんの「たいめいけん」の記事を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50473227.html

 「たいめいけん」初代茂出木心護さんが、泰明軒本店に奉公したのは、昭和元年のことで泰明軒本店の大旦那は畑安之助さんという人だったそうです。
 
 つまり、「たいめいけん」のルーツは泰明軒本店だったのですね。

 泰明軒の始まりは、明治18年に京橋通りに店を出した「西支御料理処」泰明軒で、当時は西洋料理だけでなく、支那料理も出していました。東京で最初にシューマイを売り出したのはこの店だという話もあるそうです。

それが銀座にある泰明小学校のそばにあったったので、その名前からから取り、これが泰明軒本店。


 「たいめいけん」初代茂出木心護さんは、昭和6年にのれん分けで独立し、新川の泰明軒支店を委され、戦後の昭和23年に、日本橋(現在の野村證券本社ビルのほど近く)へ移転。同時に名前を「たいめいけん」と改めたのだそうです。
 
 ということで銀座にある由緒ある小学校。泰明小学校でした。

 東日本大震災があったにもかかわらず、学校の耐震化は進んでいません。昔の人の方が偉かったような気がしてしょうがありません。

【ファイルET82】2013.04.10 JR有楽町駅中央口附近にあった南町奉行所跡(その2)

遺構はちゃんと地下にあったんだねえ。

 前回は奉行所跡の位置関係と、裁判の流れについてお話ししました。


まず、前回ご紹介した南町奉行の建物配置図を再掲します。


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グーグルマップに、この発掘調査現場を落としてみます。


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↑黄色い枠が南町奉行所の敷地範囲。青色の枠が発掘調査されたエリアです。


 右下隅の広い道が、もともと数寄屋橋が架かっていたお濠を埋め立てた外堀通りで、その上を首都高速八重洲線が覆っています。

 お濠の形がそっくりそのまま道路になっているところが、東京は徳川家康が作った江戸の町を継承している証拠ですね。


 それで、発掘調査のあった場所に行きました。

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上の写真に写っている道の右側がイトシアプラザで、右手前赤い看板のメガネスーパーの中が御奉行様が着座した『公事場(くじば)』があった場所で、さらにその奧に『砂利敷(お白州)』があったことになります。



 発掘調査の場所を北側から見ると、現在こうなっています。

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 写真右側の四角い建物(イトシアプラザ)に『公事場(くじば)』や『砂利敷(お白州)』があったメガネスーパーが入っていて、写真左側の壁がカーブを描いたマルイの『○I○I』マークがあるビル(有楽町イトシア)の右側JR有楽町駅寄りに『表門』や『囚人置所』があったんだねえ。

施設の説明や、お裁きの手順については、前回の記事を参考にしてくださいね。

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54038861.html


 それで、南町奉行関係のモニュメントは石組みとプレートだけではありません。

円形屋根の下のエスカレーターを降りた地下広場に発掘調査で出土した穴蔵が展示されているのです。


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 先程のグーグルマップでは、有楽町中央口の前に緑色の円で標記されているのが円形屋根で、屋根下のエスカレーターで地下に降りると、地図ではオレンジに標記された地下広場に着きます。

穴蔵展示です。


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地下広場の壁面に展示されている穴蔵の横にあった説明書きをそのまま写します。


  ※    ※    ※

 南町奉行所跡(みなみまちぶぎょうしょあと)から発見された穴蔵(あなぐら)

 この板枠は、ここの再開発に伴う遺跡発掘で発見された「穴蔵」を、壁に立てて展示したものです。この穴倉は、江戸時代中期の南町奉行所内に掘(ほ)られた地下室で、なかから伊勢神宮の神官が大岡忠相(おおおかただすけ)の家臣に宛てた木札が出土しました。

 また遺構(いこう)両脇の木製ベンチには江戸時代の水道管(木樋:もくひ)を、向かいの石のベンチには奉行所の石組材を再利用しました。

 穴蔵の構造は、厚い板材を舟釘(ふなくぎ)で留(と)め、隠し釘となるように端材(はざい)を埋め、板材の間には槇肌(まきはだ:木の皮)を詰めて防水処理をしています。また、壁板の一辺には水抜き穴があき、そこから竹菅が延(の)びて桶(おけ)に水が溜(た)まる構造となっています。
 
 ここがかつて町奉行 大岡越前守(えちぜんのかみ)がつとめた南町奉行所(東京都旧跡)であったことや、江戸時代の技術などを伝えるために設置しました。

 平成20年 3月
 千代田区教育委員会

  ※    ※    ※

発掘現場での穴蔵の写真。


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伊勢神宮の神官が大岡忠相(おおおかただすけ)の家臣に宛てた木札のパネル写真。


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パネル写真の説明にはこう書かれています。


 ※    ※    ※

 大岡越前守様御屋敷 二而

上段右から
 市川儀平太様 山本左右太様 小林勘蔵様
下段
 檜垣六神主 福井土佐 久志本権之亮

 複製(原資料:千代田区立四番町歴史民族資料館所蔵)

 ※    ※    ※

 TBS系の『大岡越前』では、大岡越前役を加藤剛(かとう ごう)さんが、父親の大岡忠高を片岡千惠藏(かたおかちえぞう)さんが、徳川吉宗将軍を山口崇(やまぐち たかし)さんが演じていましたが、一番格好良くて美味しい役が何といっても、先頃亡くなられた竹脇無我(たけわき むが)さんが演じていた大岡越前の友人で相談役の医師、榊原伊織(さかきばらいおり)でした。

奉行所の石組材を再利用した石のベンチです。


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 競馬新聞を一心不乱に読みふけっているおじさんたちが座っていて、撮るのに苦労しました。

水道管(木樋:もくひ)を再利用した木のベンチ

 
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 地下広場はこんな感じです。

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 実は、写真正面にクリスピー・クリーム・ドーナツの有楽町イトシア店があって、そこが大ブームで行列が出来ていたころ、この前を通ったことがあったのですか、その時はそんな展示があるなんて、全く気がつきませんでした。
 
 ということで、有楽町から銀座をお散歩される際には、話のタネにお立ち寄りくださいね。

 次に続きます。

【ファイルET81】2013.03.15 JR有楽町駅中央口附近にあった南町奉行所跡(その1)

大岡越前守忠相様のお裁きの場所だねえ。

 前回は北町奉行所跡のことを記事にしました。


 ならば、当然南町奉行所跡は何処だという話になります。

 前回の記事で、北町奉行所跡は、最初行ったときは見つからなかったと書きましたが、実は同じ日に南町奉行所跡の碑も探しに行ったのですが、同様に見けることができませんでした。

 有楽町駅前も再開発ですっかり様変わりしているのですね。

 それでいくら探し回ってもそれらしき物がありません。

 北町奉行跡同様、こちらも調べなおして、再訪して見つけたのがここ。

南町奉行所跡モニュメントです。


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 うへえ!ただの有楽町中央口側駅前広場から地下街に入るための、エスカレーター円形屋根裏のベンチだと思っていたよ。

ここの前に大岡越前守の銅像でも建てたら、渋谷のハチ公みたいに待ち合わせスポットの名所になるのにねえ。


 それに前回はこんなことやっていて、関係者、支持者や有権者でごった返していたのも見つからなかったのです。

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 再開発の際に発掘調査して見つかった下水溝の石組みを一部再現していて、右端に銅板の史跡プレートが設置されています。

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 歴史を経た立派な石組みですね。

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 史跡プレートには解説・資料が記載されています。それに沿って、ご説明しましょう。

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 まず、史跡プレートの文面を、手を加えずそのまま書き写すと。

 ※    ※    ※

 東京都指定旧跡

 南町奉行所跡

 江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。

 南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。
 
 再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。

 所在地 千代田区有楽町二丁目

 旧跡指定 大正7年4月    平成19年(2007)10月  千代田区

 ※    ※    ※

 大岡越前さんは、享保2(1717)年から南町奉行に任じられて、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)公が進めた享保の改革(きょうほうのかいかく)の時に町奉行だったので、テレビドラマの『大岡越前』でも吉宗将軍が良く出ていましたね。

 それで、平成17(2005)年の南町奉行所跡地発掘調査の写真です。

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 右奥に曲線のフォルムが特徴的な東京フォーラムが写っているので位置関係が分かります。

 さらに、史跡プレートには、江戸切り絵図も示されていました。

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 お濠に架かった数寄屋橋御門(すきやばしごもん)を渡ったところに『南町御奉行御役屋敷 遠山左衛門尉』と書かれていますね。

遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと:遠山金四郎)さんは、北町奉行を務めた後、1845年から 1852年の間、南町奉行にも任じられています。


大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)さんがこの地に奉行として務めていたのは1717年から 1736年ですから、金さんの100年以上前です。


 江戸切り絵図と比較する形で有楽町駅前再開発工事着工前の航空写真に落とされた南町奉行所跡地の調査地点の位置をご覧下さい。

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 外堀が埋め立てられてそのまんま外堀通りになっているので、位置関係がよく分かりますね。

 プレートには、南町奉行所の平面図と調査地点も記されています。

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 つまり、裏門や、中間部屋、勝手用人長屋のあったあたりは、現在JR有楽町駅構内敷地になっているのです。


南町奉行所は大岡越前さんの設計だったと伝えられていて、火事で焼けて何回か増改築があったようですが、基本的な設計変更は無かったようです。


 それで南町奉行所跡地の東側が発掘調査の対象になったのですが、その部分を拡大しますね。

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図面の右側中央やや下に『表門』があります。


 この『表門』には左右に小さな門があって、右(図面では上)は勝手に通じる小門ですが、左(図面では下)の小門は『囚人置所』に通じていて、ここから囚人(未決囚)が出入りします。

表門から真っ直ぐ正面に進むと玄関にあたる『式台(敷台)』がありますが、表門から式台までは十五間ほどの青板の敷石になっていて、その両側に那智黒(なちぐろ)の砂利石(じゃりいし)が敷き詰められていたそうです。


式台(玄関)の左側(図面下側中央)に『砂利敷』とありますが、これが俗に言う『お白州(しらす)』です。


 『砂利敷』が『お白洲』と呼ばれたのは、敷かれた砂利が白かったからで、もともとは土間がそのまま用いられていたのですが、後に白い砂利敷になりました。

 大岡越前さんが設計したと言われている南町奉行所ではすでに『お白州(砂利敷)』になっていたのですね。

 白い砂利を敷いたのは、白い色が裁判の公平さと神聖さを象徴する色だということに由来するそうです。『裁判で黒白(こくびゃく)を付ける』とも言うからねえ。

『砂利敷(お白洲)』の奧(図面左下)にあるのが『公事場』です。


『公事場』は、町奉行をはじめとする役人が座る座敷で、テレビドラマでは、遠山の金さんが、例の右の片肌脱ぎで『この、金さんの桜吹雪がすべてお見通しよ!』って、ここで啖呵を切ります。


庶民の原告・被告は『砂利敷(お白洲)』の上に敷かれた莚(むしろ)に座りました。


それで、浪人を除く武士や神官・僧侶・御用達町人などの身分を持った人々は『砂利敷』には座らず、2段に分かれた座敷の縁側に座りました。


 武士・神官・僧侶は上縁(2段のうちの上側の縁側)に座ることから上者、それ以外は下縁(2段のうちの下側の縁側)に座ったために下者と呼ばれました。

 一方、役人のうち与力は奉行より少し下がった場所に着座しましたが、同心は座敷・縁側に上がることは許されず、砂利敷の砂利の上に控えていました。

 それにしても、テレビドラマのお白州は屋外で、お裁きの時はいつも晴れているのはどうして?野球のように雨天順延になるのかな?と不思議に思っていたのですが、

史実として奉行所のお白洲には屋根が架けられるか、屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いていたことが明らかになっていて、テレビドラマにあるような青天井のお白洲はフィクションとしての演出なんだって。


江戸時代の裁判には、『出入筋(でいりすじ)』と『吟味筋(ぎんみすじ)』とがあります。


 『出入筋(でいりすじ)』というのは、今の民事訴訟のように原告と被告で争う裁判で、双方を呼び出して紛争の経緯を調べて、落としどころを探って和解・訴訟取り下げを勧め、なるべく判決まで持ちこまないようにするのは、今の民事訴訟と似ています。

『吟味筋(ぎんみすじ)』というのが、今でいう刑事訴訟です。


 江戸時代の司法は役割分担が成されていて、捕り物の主役は『廻り方同心(どうしん)』ですが、取り調べの主役は『吟味与力(ぎんみよりき)』で、

テレビドラマのようにお奉行様はあんなに頻繁にしゃしゃり出てきません。


町奉行所の吟味筋(刑事事件)の場合、容疑者は町の自身番屋のなかでもとくに大きい大番屋(調番屋)で同心による取り調べを受けてから、奉行所のお白州でお奉行様の尋問を受けました。


 その後、軽微な罪で宿預(今でいう在宅起訴)になった場合を除いて、容疑者は奉行所の借牢に入れられます。

入牢証文が出ると小伝馬町の牢屋に移され、そこで吟味与力によって『吟味詰つまりの口書(ぎんみつまりのくちがき=供述調書)』が作成され、爪印を容疑者に押させます。当時は容疑者の自白が最重要視されましたから、厳しい牢問(ろうもん)が行われることもあります。


容疑者を責めさいなみ、自白に追い込むことを責問(せきもん)と言います。責問(せきもん)には、笞打(むちうち)、石抱(いしだき)、海老責(えびぜめ)がありました。


責問でも自白を得ることが出来なかった場合のみ、『拷問(ごうもん)』にかけられます。


 拷問というのは『釣責(つりぜめ)め』の一種類だけで、責問は拷問ではありません。

唯一の拷問手段である『釣責め』は両手を後手に縛り、その縛った縄で体を宙に吊るすのです。これは耐え難い激痛を伴い、死に至ることもあるため、老中の許可が無くては行えません。老中に拷問許可を請うのは、『拷問しないと自白を取れない無能な奉行』という烙印を押されることを意味しますので、滅多に行われませんでした。


 こうやって作られた『吟味詰つまりの口書(ぎんみつまりのくちがき=供述調書)』を元に、奉行所で裁判が行われます。

容疑者は『砂利敷(お白洲)』【身分の高い物は座敷の縁側】にひき据えられ、『公事場』に座った町奉行により一通りの取り調べを受けます。


その後、吟味与力により『吟味所【図面では砂利敷(お白州)の右上】』で怒鳴りつけるような厳しい取り調べがあった後結審します。


遠島(えんとう)以上の重刑の場合は、老中に書類一式提出して同意を得なければなりません。さらに老中の同意の上で将軍の裁決があって初めて刑が確定します。ですが、将軍は「そのうち見ておく」といってなかなか押印しなかったそうです。


 なんか、今の日本の法務大臣みたい。いくら凶悪犯とはいえ、自分の判断で人が死ぬわけだから、後生でどんな祟りがあるかわからないし、夢見が悪いからねえ。

遠島より軽い『追放』以下の判決の言い渡しはその場でお奉行様が行うのですが、遠島(えんとう)以上の重刑の場合は上記の手続きを踏んだ上で、伝馬町の牢屋敷で与力が判決を言い渡します。


ですから、映画やテレビドラマのように、奉行所でお奉行様がお白州にひきすえられた容疑者をこまごまと取り調べて、その場で『市中引き回しの上、獄門を申しつける!』と極刑を言い渡すことは絶対にありません。


【ファイルET80】2013.02.22 東京駅八重洲北口側にある都旧跡 北町奉行所跡

こんな分かりにくい場所にあるなんて酷いねえ。

 東京駅の大丸ビルが改築され、北町奉行所跡の碑が一旦撤去されて、移築されました。

 それでもって、その場所を確認に行ったのですが、さっぱり見当たりません。

 確かこのあたりのはずなんだけれどねえ。

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 結局この日はとうとう見つけられず、それから、いろいろ調べて補修再建された丸の内駅舎見学の折に再チャレンジ。

 丸の内駅舎見学の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53804685.html

 とても分かりにくい場所にあるということが分かったので、細かくご案内しますね。

まず、JR東京駅八重洲北口改札を出ます。


イメージ 2



そのまま直進します。


イメージ 3



すると突き当たりに大丸があります。


イメージ 4



大丸の左端に小さな通用口があります。


 あとから気づいたのですが、お相撲さんが二人写っていたよお!

 お相撲さん、いきなりカメラを向けられて、失礼な人だなあって思ったに違いないねえ。

 怒りの張り手をかまされなくて良かったねえ。

 それでもって、お相撲さんはいつもここに立っているわけではないので、目印にしないほうが良いと思うよ。気を付けてね。

通用口はこんな感じ。


イメージ 5



通用口の脇の壁の下、パイロンの向こうに『都旧跡 北町奉行所跡 石碑』がありました。


 それにしても大東京駅の出入り口とは思えないような、小さな勝手口というか裏口です。

 近くで写しました。

イメージ 6



 うへえ、こんな所にあったら気がつくわけがないよお!

 この通用口なら、この前来たとき何回も出入りしていたのに気がつかなかったよお!

 お姉さんが写っていますが、この通用口、こんなに狭いのに結構人通りが多いのです。だから、まず立ち止まるという発想が端から出てきません。

 しゃがまなければ、碑文を読めないし、写真も取れません。でも通行の邪魔になるので、人が通るたびに、立ち上がって、頭を下げます。

 なんで、超有名な全国区の史跡を見るのに、こんなにぺこぺこ謝らなきゃなんないのさあ!ひょっとして、ここで碑文を読んでいる人に通行人がぶつからないように、パイロンを置いたのかな?

 そう考えると、余計に腹がたって来るねえ。

 だって、誰だって知っている遠山の金さんがお裁きをした史跡なのですよ。もうちょっと考えてほしいものだねえ。

 これを移設したときの東京都知事石原慎太郎さんは、作家で文化人なのに、なにやってたのさ。

 それで、苦労して撮った写真を見たらば、自分が写りこんでしまっていたので、斜め上から撮影しました。

イメージ 7



 そうこうしているうちに、お姉さん二人連れの片方の人が、『ここは、有名な奉行所跡の碑なんだよ』って指差して自慢しながら通りました。

 うへえ、存在を知っていることが、トリビアの泉級の自慢の史跡なんてなんなのさ!?

 本当に、予めこういう状態で設置されているって知らないと、見つけることは不可能です。

 攻略本がないと探し当てられないドラクエの隠しアイテムじゃあるまいし!

 それでもって、碑文にはこう刻まれています。

※   ※   ※

 都旧跡 北町奉行所跡

 所在 東京都千代田区丸の内一丁目一番地国鉄所有地内
 指定 大正7年4月

 江戸町奉行(えどまちぶぎょう)は徳川幕府の職制の一つで寺社奉行、勘定奉行とともに三奉行と呼ばれていた。

 江戸町奉行は老中の支配に属し配下の本所奉行、道役、小伝馬町牢屋、寄場奉行、町年寄を統括した。その職掌(しょくしょう)は江戸府内の行政司法警察の一切にわたっていた。

 定員は2名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務したが時に応じて増減された。原則として旗本が任命され、役料は三千石、芙蓉間詰(ふようのまづめ)で勘定奉行の上座、輩下に与力同心などがいた。

 「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと:遠山金四郎)は天保十一年(一八四〇)三月から三年の間、北町奉行の職にあった。

                                    昭和四十三年十月一日

                                    東京都教育委員会


※   ※   ※

(カッコ内ふりがなは眼とろん星人による)

 碑文にも書いてある、遠山左衛門尉景元、即ち遠山の金さんは、とても有名ですが、北町奉行には3年しか在任していなかったのですね。

 それから、碑文中の『いれずみ奉行』というのは間違いです。

 『いれずみ』は『入れ墨』と書き、罪人の刑罰として入れるものです。

 巷間、遠山の金さんがしていたと言われているのは『刺青(しせい)』または『彫り物』です。といっても、例の右の片肌脱ぎで『この、金さんの桜吹雪がすべてお見通しよ』という名台詞は後年の創作のようですが・・・。

 青年期に侠客【きょうかく:弱きを助けて強きをくじく義侠・任侠を建て前として世渡りする人。町奴(まちやっこ)・博徒(ばくと)など。男伊達(おとこだて)】とつるんで遊び歩き、若気の至りで彫り物をしたものの後年後悔して隠していたという説もありますが、本当のところはどうかよく分かりません。

 その彫り物にしても、『右腕のみ』、『左腕に花模様』、「『桜の花びら1枚だけ』、『背中に女の生首』、『全身くまなく』と様々な説があるそうです。

 いろいろと虚実取り混ぜた金さん像が巷間流布していますが、名奉行だったのは事実で、天保12年8月18日の『公事上聴(歴代の徳川将軍が一代に一度は行った、三奉行の実際の裁判上覧)』において、時の将軍徳川家慶がその名裁きを激賞し、奉行の模範だと讃えたという史実があるそうです。

 また、庶民に絶大な人気があった名奉行だったのも事実のようです。

 遠山の金さんは、北町奉行だった天保12年11月、老中水野忠邦(みずのただくに)が芝居小屋を廃止しようとした際、これに反対して浅草猿若町(さるわかちょう・さるわかまち)への小屋移転だけに留めました。

 一介の町奉行が老中に逆らうなんて、江戸の身分制度下ではかなりの気骨と勇気の要ることですが、これには、将軍徳川家慶が金さんをとても評価していたというお墨付きもあってのことだったようです。

 なんたって、江戸庶民の娯楽を守ったわけですから、人気が出たのは当然ですよね。

 とりわけ金さんに守ってもらった芝居小屋は大感激。

 感謝の意味も込めて、『遠山の金さん』ものの芝居を上演しました。

 当然ながら、『遠山の金さん』が正義の味方で、悪役・敵役は、老中水野忠邦に芝居小屋の廃止を進言した目付の『鳥居耀蔵(とりい ようぞう)』という構図です。

 天保の改革における鳥居耀蔵の市中取締りは非常に厳しくて、おとり捜査を常套手段とし、出世のためなら簡単に寝返る世渡り上手で、権謀術数で出世したという一番嫌われるタイプだったため、当時の人々からは『蝮(マムシ)の耀蔵』、あるいは『妖怪【通称の耀蔵(“よう”ぞう)と官位である甲斐守(“かい”のかみ)による】』という仇名で呼ばれ、それ以前から評判が悪く、江戸の庶民から忌み嫌われていたようです。


 それにしても、こんな無茶苦茶な場所に石碑を移設したり、名奉行の遠山の金さんを『入れ墨者の罪人呼ばわり』したり、これに関わった東京都教育委員会職員は、なんか日本の歴史に恨みでもあるのでしょうか?

 日本の歴史を侮辱中傷したい半島系の息がかかった東京都の労組関係者なのでしょうか?

 本当に油断も隙もあったものじゃないねえ。


 南町奉行所跡の記事はこちら。

【ファイルET79】2013.02.03 保存・復元工事が完成した東京駅新丸の内駅舎だよ(その4)

当時から、安全安心のために目に見えないところで誠実な努力がはらわれていたんだねえ。

(その3)からの続きです。
 前回の(その3)はこちら。
 東京駅新丸の内駅舎(その1)から読まれる人はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53804685.html

 年末の東京駅はライトアップもされて、もの凄い人出でしたね。

 混雑している上にお金を取られるスカイツリーでも人気なのに、無料でこれだけ凄い建物を見ることが出来るのですから大人気なのは当然です。

このように東京駅舎は美しい様式美と華麗な装飾が観る人に感銘を与えるのですが、実は本当に凄いのは、その安全性なのです。


 東京駅及びその周辺は、『八重洲』という地名でも分かるように、もともと日比谷入り江の洲浜だった場所なので、とても軟弱な地盤で、基礎工事がとても重要だったのです。

 ですから、創建当時の人達はどうしたかというと、まず実験をした上で、基礎の工法を決定したのです。

?H1>高架工事に際しての実験の様子。

イメージ 1



 レールを積み重ねて荷重による地盤の影響を調べています。

?H1>同基礎工事の模様。

イメージ 2



 そうして、こういった工法が取られました。【『東京駅はこうして誕生した』林 章著:ウエッジ選書P172より】

  ※    ※    ※

 大林組の施工は、基礎コンクリートの最終打設工事から始まっている。敷地全体の地表は前工程によりすでに総掘りされていて、松材の食いがびっしり打ち込まれていた地下3.6メートルへ、すでに厚さ1.2メートルの基礎コンクリートが打たれていた。ベタ基礎と呼ばれる格別頑強なものである。
 
 この上に格子状に平鋼と丸鋼を組み敷いて配筋し、もう一度コンクリートを打って床盤の基礎とするのだ。現在の鉄筋とは異なる方式であるが、いずれにしても鉄筋コンクリートであることにかわりない。ここで当時最新の建設機械が採用されている。このコンクリート打設に、初期の蒸気動力によるコンクリート・ミキサーや工事用エレベータなどが投入されており、生コンクリートを打設場所へ運ぶためのレールが各所の床に敷いてあった。これらの利用は、本格工事としてはわが国最初の事例である。さらにその上面へ、人びとが歩くための床コンクリートが打たれていく。砂利や石炭滓(かす)が混入されたものである。頑丈の上に頑丈を重ねる基礎部の施工ぶりである。

 できあがった基礎の上に赤レンガの壁体が、平均厚さ60センチに手積みで積み上げられていった。躯体レンガの積み方は「オランダ積み」と呼ばれるものである。構造躯体であるレンガは、先行していた鉄骨をガイドラインとしながら、これを包むように一つ一つ積み上げていく。外壁部には、2メートル間隔に鉄骨の柱が配置されている。鉄骨筋違いの部分にもレンガを切り欠いて加工し、鉄骨に密着させて積む。地下部分は三枚、地上部分は二枚半を、一段ごとに交互にずらして、躯体外壁として積み上げていき、さらに入出口などの外壁表面には特別仕上げの化粧レンガを貼り付けていく。こちらは「ドイツ積み」と呼ばれる積み方であった。・・・・・・

※    ※    ※

当時としては最新の技術で建物の安全について細心の配慮が成されていたことが分かります。


今回の保存・復元工事の時に出土した、創業から90年以上地中で駅舎を支えてきた松の杭は、ほぼ傷みが無かったそうです。当時から凄い技術だったのですね。


そういう努力により、東京駅舎はあの関東大震災時にもびくともせず、無傷で残りました。


 震災時の惨状を観ると、いかに東京駅丸の内駅舎が巨大地震に対して強靱にできていたかわかります。

?H1>関東大震災時で罹災した東京駅ホームの惨状。

イメージ 3



?H1>関東大震災時で罹災した上野駅はこんな被害を受けました。

イメージ 4



 黒こげになった、入換え作業用のB20型小型タンク式蒸気機関車が被害のすさまじさを表しています。

?H1>これだけの規模の地震にも、丸の内駅舎は無傷で耐えたのです。

そのお陰で、無事だった東京駅丸の内駅舎は罹災者の避難所になり、多くの人を救いました。


 見えない部分で真に重要な仕事を誠実に行う、その姿勢に本当に頭が下がります。

?H1>ところが、これだけの災害を耐えた東京駅丸の内駅舎も、大東亜戦争時の残虐非道な非戦闘員の大量虐殺を目的とした米軍の精密爆撃で焼け落ちてしまいました。

イメージ 5



 ドーム部分が無くなっていますね。日本の戦後復興にあたって、交通網の復旧は急務でしたから、その際にはドームの復元までには至りませんでした。

それが、今回の保存・復元工事でより安全になって甦ったのです。


?H1>このように、日本の建築は、ものづくり日本の土台を支えてきたのです。

 日本が地震、台風、戦災、火災といった困難に見舞われて来る度に、甦ってきた影には、こういった人々の地道で尊い努力があってこそです。
 

工事の質がどれほど大切かというと、下の写真をご覧下さい。


イメージ 6


 
 2011年3月21日早朝、支那の広東省珠海市南屏鎮広昌村で、建設中のマンションの倒壊事故が起きました。

 養殖池を埋め立てた後に建てたにも関わらず、わずか1メートルしか基礎を打ち込まないという手抜き工事の違法建築だったのですが、なんの負荷もかかっていないにも関わらず、自重によって完成を待たずに倒壊したのです。

 建設費用は共産党幹部が中抜きしたのでしょうね。かの国において、こんな事例はほんの氷山の一角で枚挙に暇がないのです。

 耐震強度偽装問題を起こした姉歯のビルでさえ、こんなことはありえません。

日本にTPPなんかが導入したら、こういう連中が入札してその破格の安さで落札する可能性は大きいのです。


マスメディアは日本のゼネコンのことを談合だなんだって目の敵にしますが、それで日本の建設会社が手抜き工事をして無茶苦茶なことになっているのならともかく、日本の土木技術は世界一です。それはただゼネコンだけではなく下請や日雇いの建設作業員の質の高さにも負っているのです。


 先の東日本大震災においても、道路の奇跡的な復旧速度に世界中が驚嘆したのは記憶に新しいところです。

 その時でさえ、工事が激減したのでブルドーザー等の重機が海外に売り飛ばされていて絶対量が不足し、大変だったということです。

TPPで、こういう産業を潰して、安かろう悪かろうの海外ゼネコンや外資を入れようとしている政治家、財界人、日経を始めとするインチキマスメディアはなにを考えているのでしょう?


 海外のゼネコンが大災害の時、すぐにかけつけて不眠不休の復旧作業なんてやってくれると思っているのでしょうか?

 インチキマスメディアは、それまで、TPP参加を散々煽っておきながら、それがとんでもない愚策だということが国民に分かってくると、報道量を激減させ、影でこっそり参加を既成事実にしようと画策しています。これを売国と言わず何と言うのでしょう?

?H1>マスメディアは、何かとゼネコンを諸悪の根源のように報じますが、じゃあ、こういった工事を外国の質の低いゼネコンや外国人労働者に任せられるのでしょうか?

 労働の質以前に、支那、朝鮮半島の犯罪発生率は日本のそれとは比較にならないほど高く、今でさえ在日外国人犯罪や不法入国の多さ、凶悪さは問題になっているのに、マスコミは警察白書を見れば普通に載っているこういった情報を隠蔽し、日本国民の知る権利を妨害しています。

 そうして、小泉某とか、橋下某とか、自由競争が正義だって単細胞がいて、それを気持ち悪いぐらいにもてはやすマスコミや学者がいて・・・。

 スカイツリーにせよ、落札額が極端に低くてその安全性を懸念する声もあがっているのです。

 橋下某なんて、人気取りのために保守になりすましていながら、その裏で外国人の地方参政権導入や人権擁護法案を推進しています。この人本当に日本人なのでしょうか?

 この人達に言わせれば、ぶっ壊したら何かが生まれるそうです。これって、覆面にヘルメット被ってゲバ棒を振り回していた全共闘暴力学生の連中が言っていたことですけどね・・・。

 中高年オヤジがいい歳こいて反抗期って何?

?H1>一度、壊した物、失った物は二度と帰ってきません。

 覆水盆に返らず。英語ならIt's no use crying over spilt milk.【こぼれたミルクのことをなげいてもしょうがない】です。

 世界的に、破壊の跡に創造があるなんて思うのはバカだっていうことわざがあるのに。

 柿右衛門の壺は三歳児の子供にも破壊することが出来ますが、それをもう一度作ることがどれだけ大変か、この連中は、そんな簡単なことも分からないのでしょうか?

 国宝級のツボを次々と破壊して嬉嬉としている小泉某とか、橋下某とか、それを褒め称えるマスメディアや、それに乗っかって支持する人達は、三歳児にも劣る知能なんですよね。

 東京駅を観たとき、一度考えてみてはいがかでしょう。

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