【ファイルET78】2013.01.09 保存・復元工事が完成した東京駅新丸の内駅舎だよ(その3)ドームの中身も立派だねえ。(その2)からの続きです。(その1)から読まれる人はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53804685.html 今回は東京駅丸の内駅舎のドーム内を御紹介します。 私も、そっくり返って、天井を向いて一眼レフを構え、ぶれないように脇を締めると、背中と腕の筋肉がぷる ぷるして、腰が痛くなったねえ。 全の為なのでご容赦下さいね。 実はオリジナルの東京駅の写真はそれほど多く残っていなくて、今回のドーム部分の復元は多大な困難があっ たそうです。 それなのに、これだけのクオリティー! こんな仕事をした今の職人さんも、その元の仕事をした創建当時の職人さんも、とても立派ですね。改めてび っくりしました。 この鷲(わし)さんは、遠いから小さく見えますが、全幅長が2.1mもあるので、部分欠落しないように漆 喰(しっくい)ではなく、丈夫なFRP樹脂で作られてしっかりと固定されています。 足にはそれぞれ稲穂(いなほ)の束が文字通り“鷲づかみ”され、『富国強兵』が表現されています。富国が 稲穂で、強兵が鷲なのですね。 肉眼で見たときは、てっきりハトさんかと思ったねえ。 稲穂の束なんて分からないし、ノアの方舟の洪水後にハトが咥えて帰ってきたオリーブの葉っぱの話と間違う ねえ。 望遠レンズを覗いてびっくり仰天のワシさんでした。 この時代は、西洋列強による侵略の危機が眼前に迫り日本を取り巻く環境が緊迫して時代ですから、平和ボケ している現代とは国民の意識も全く異なっていたのです。 事実、大東亜戦争開戦時に、アジアでまともな独立国だったのはタイと日本だけで、他は西洋列強に侵略され ていたのです。平和の象徴ハトぽっぽなんて太平楽は許されなかったのです。 ↑ その上の中央部にある旭日(きょくじつ)の光の輻(や)ようなデザインのレリーフは、豊臣秀吉の馬藺後立付兜(ばりんうしろだてつきかぶと)を象(かたど)った意匠になっています。馬藺後立付兜とはこんな形のカブトです。(大阪城天守閣HP試着体験のページよりレプリカ)http://www.osakacastle.net/exhibition/try.html大阪城ではこの兜が試着できるんだって。重そうだねえ。これをつけたままお辞儀なんてしたら首の骨が折れ そう。 この兜の現物は、天正15(1587)年の九州攻めのおり、秀吉公が蒲生氏郷(がもううじさと)の家臣、 西村重就(にしむらしげなり)に与えたものです。 菖蒲(しょうぶ)の一種である馬藺(ばりん)の葉29枚を象(かたど)った後立を装飾としています。 それにしても、どうして東京駅に大阪のシンボルである太閤秀吉さんの兜が? これは十二支を題材にして、先ほどの8つの角にあるワシさんの下に設置された装飾のうちの一つのです。 十二支といっても、東京丸の内駅舎は8角形なので、その角にあるレリーフも8種の丑(うし)・寅(とら) ・辰(たつ)・巳(み)・未(ひつじ)・申(さる)・戌(いぬ)・亥(い)が飾られています。 これ以外の卯(う=東)・酉(とり=西)・午(うま=南)・子(ね=北)つまり東西南北を表す動物4種 は、丁度その方角に角が無いので、外されています。 ヨーロッパの近代建築を取り入れながら、和風のテイストはちゃんと盛り込まれているのです。 駅舎なのですから、当時の人はさぞかし驚嘆したことでしょう。 当時の東京駅は、南側のドーム棟が旅客の乗車専用口で、ここから乗車します。 になっていました。 また、三等については、距離別に窓口が分かれていたといいます。 待合室は一・二等と三等の二室に分かれていて、婦人専用の待合室もあって、ここには化粧室も備え付けられ ていました。 各種の売店や築地精養軒が経営する食堂、両替所なども揃っていました。 手荷物取扱い所が正面に広いスペースを占めていたのは、当時の長距離旅客は、今ならさしずめ海外旅行並み の大荷物を携えていたためで、ここで荷物をあずけ、降車駅で受け取るシステムになっていました。 逆に東京駅に到着した旅客は、北のドーム棟へまわって改札を出ます。 にもありました。蒸気機関車の煤で顔が汚れるから、ここでお化粧直ししたのかな? それにしても、手荷物預かり受け取りが出来て、乗車口降車口が分かれているなんて、まるで空港のロビーみ たいですね。 大正3(1914)年に開業した駅が、こんなに人間工学的の見地からシステマティックに設計されていたことに 驚きを禁じ得ません。 ということで次に続きますね。 次回はこちら。 |
江戸・東京の部屋
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【ファイルET77】2012.12.18 保存・復元工事が完成した東京駅新丸の内駅舎だよ(その2)『ルネーサンス式』の堂々とした風格だねえ。(その1)からの続きです。(その1)から読まれる人はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53804685.html 以前にも書きましたが、東京駅はオランダのアムステルダム駅(Station Amsterdam Centraal)を模した設計であるという俗説があります。 これは、ヨーロッパ旅行中の山下清画伯が、アムステルダム駅を見たとき、『東京駅と似ているな』と感想を漏らしたら、同行していた恩師、八幡学園顧問医の式場隆三郎氏が『東京駅がここのまねをしたんだから当然だ』と答えたというエピソードがあるくらい、昔から広まっていた根強い都市伝説です。 しかしながら、これは誤りです。 アムステルダム駅の画像をご覧下さい。 こちらが東京駅(縮小の上再掲)。 赤レンガ造りは当時世界の先進国に一般的な近代的工法で、また駅の機能上、旅客の動線を考えるとこの中央から両翼に張り出した意匠になってくるので、この点で共通するのは何等不思議ではありません。 それを言うなら、当時の世界中の駅舎がアムステルダム駅の模倣になってしまいます。 辰野金吾博士は、渡欧の際にアムステルダム駅の実物を観たことはあるようですが、アムステルダム駅は天空に鋭角的な屋根と尖塔が突き刺さるように屹立し、直線の輪郭が際立つ男性的なゴシック様式。 一方東京駅はエレガントで女性的な曲線が美しいドームが特徴的で、辰野博士が『ルネーサンス式』と称した意匠。 『ルネーサンス式』とは言っても実際には、ビクトリアン様式やルネサンス様式、ある部分はバロック風の装飾といったように中近世ヨーロッパのいくつかの建築様式を自在に取り入れ折衷したものとなっています。 それで当時の建築家の間からは必ずしも良い評価は得られず、『辰野式ルネサンス様式』と揶揄(やゆ)されたりもしました。まあ、同業者の嫉妬もあったのでしょうが。 ということで、アムステルダム駅と東京駅では全く様式が違うのですね。 それで、辰野建築の粋を結集した東京駅の外観の細部をご案内しましょう。 北口の写真。 北ドーム部分です。 それで、戦後復旧時に作られた八角形の屋根は8割がスペイン製で、残る2割が宮城県登米市産でした。 宮城県雄勝町(現・石巻市雄勝町)で作られている雄勝硯(おがつすずり)は、とても有名ですからね。 今回の保存・復元工事に際して、この国産(宮城産)部分について、できるだけ保存する方針で進められ、その保存のためのリフレッシュ作業を請け負ったのが東北石巻(いしのまき)市の『熊谷産業』でした。 ところが、『熊谷産業』でスレート屋根瓦20万枚を洗浄して後は東京に送り返すばかりというときに、あの東日本大震災の大津波です。 一時は、被災スレート使用断念の声もささやかれたそうですが、津波で流出した瓦を従業員らが手作業で約4万5000枚を回収、泥が洗い流されJR東日本が状態を調べた結果、うち4万枚が使用可能と判断されました。 新材を用意した同じ石巻市の雄勝天然スレート(創業明治17年)も被災しました。ここの被災スレートも今回の新東京駅舎に使用されました。 スレート瓦は、全体では45万7000枚が必要で、残りはスペイン産や被災を免れた登米産などが使われたそうです。 『津波は東京駅の屋根まで来た〜修復中のスレート瓦が被災』という動画を見つけたのでご覧下さい。 ですから、このスレート屋根は、罹災地の一日も早い復興を祈念するシンボルでもあるのです。 皆さんも東京駅の屋根を見るときは、東北に思いをいたしてくださいね。 それにしても、インドから輸入した綿を積んできた帰りの空船にスレートを積んでインドに輸出し、東北のスレート産業が発達したなんて、知らなかったねえ。 ドーム部分の窓です。 このように独自に改良し折衷した工夫が観られることが辰野ロマネスク様式と呼ばれる所以(ゆえん)でもあるのですね。 白い石の部分と煤けた灰色の部分の部分とまだらに入り交じっていますが、これは復元した部分と元の材料を保存したもので、今回の保存・復元工事のコンセプトが端的に表れていて、興味深いことですね。 東京駅丸の内駅舎は中央部分が皇室・貴賓専用の乗降口になっていて、皇居の正面と対峙しています。 天皇陛下がご利用される大理石の車寄せ部分は、色がくすんでいるところを見ると、戦後のものがそのまま保存されたということなのでしょう。 創建時には、技術の粋を結集した格調高い貴賓室が設置されました。東京駅を象徴する帝室(皇室)専用施設です。 開業当時の写真です。中央皇室・貴賓専用の乗降口を入ったホールの上部の壁面は黒田清輝(くろだ せいき)が指揮し弟子の和田英作(わだ えいさく)が描いた壁画で覆われ、ステンドグラスから射す陽光で輝いていました。 これは、天皇・皇后以外の皇族や賓客の待合所だそうです。 貴賓室の最奧にあった松の間です。ここに陛下の玉座(ぎょくざ)が設置されました。 便殿といえば、以前、防衛省の市ヶ谷ツアーの記事で、便殿の間を御紹介しましたね。 当時の名工が、もてるだけの技術を投入したことが分かるような見事な造りですね。これら貴賓室は、昭和20年(1945年)の戦災で惜しくも焼失しました。 今回の復元工事にあたって、この貴賓室の復元がどうなったか気になるところです。 現在も皇室をはじめ、国賓、公賓のみが立ち入ることができる貴賓室はあるようですが詳細は分かりません。 貴賓室ですから保安上非公開なのはしかたがありませんが、調べてみると、貴賓室については戦後の改修当時から変更がないと言うことなので、どうやらこのような創建当時の立派な貴賓室は、今は存在しないようです。 この際、創建時東京駅の象徴的な帝室施設であった貴賓室も復元して、平成の名工に思う存分腕をふるわせれば良かったのに。 中央部の屋根の飾りです。 南ドーム部分です。 ということで、次に続きますね。 |
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この記事をUPしたときは、戦災で焼失した後に再建された、創建当初のドーム屋根三階建てではない八角形 屋根二階建てに改造された建物が両翼に配された駅舎でした。 それが、5年かけて創業の当初のオリジナルデザインのドーム屋根3階建て駅舎として蘇えりました。 新しく保存・復元された東京駅をご紹介します。 パノラマ写真です。 写真をクリックしたら、拡大表示されます。 写真です。 パノラマ写真は、パノラマ専用のカメラで撮らなければならなかったのに、パソコンは凄いねえ。 東京駅は日本を代表するキング・オブ・ステーションなのです。東京駅発の列車はすべて下り列車だし。 大阪駅は、新幹線は新大阪にホームがあるし、横浜駅も新横浜駅があります。 名古屋駅は巨大な通過駅の感が否めないからねえ。『のぞみ』の東海道新幹線導入当初、名古屋駅を通過す る『名古屋飛ばし』が話題になったくらいだし。 それでもって、日本の鉄道網は世界一だから東京駅が世界一の駅と言っても過言ではありません。 ところが、この東京駅、計画当初はただの通過駅のはずだったのです。 元々、日本の鉄道営業の歴史は明治5年9月12日(天保暦、翌年から採用されたグレゴリオ暦では1872年10月 14日)に新橋−横浜間で営業運行されたことをはじまりとします。 鉄道の開業当初、外国に渡航するときは、新橋から横浜まで汽車で行って、横浜の波止場から外国航路の船 に乗って外国に行っちゃったんだねえ。 だから、鉄道唱歌も『汽笛一声新橋を〜♪』って、新橋から始まるのですね。 JR東が作成した下の地図【1895年(明治28)当時の鉄道網】を見てください。【写真クリックで拡大】 これではとても不便なので、新橋と上野間を高架軌道でつなごうという計画はずっとありました。 それが、明治39(1906)年の鉄道作業局による『私鉄国有化断行』によって、その計画はがぜん現実味を 帯びてきたのです。 その結果、紆余曲折を経た後、新橋−上野間をつなぎ、その中間に『通過駅』として、『中央停車場』の設 置が立案されました。 この場合の『中央』は、単なる『新橋』と『上野』の真ん中にあるという意味しかありません。日本の中央 は愚か、東京の中央という意味も無かったのです。 それが、当時鉄道院の初代総長に就任した、その大言壮語ゆえに“大風呂敷”という渾名(あだな)で有名 な後藤新平(ごとう しんぺい)氏が、「日露戦争に勝利し世界に名の知られるようになった日本であるから その威信をかけた中央停車駅を」と、予算をなんと当初の42万円から7倍の280万円に大増額して設計者 の辰野金吾(たつの きんご)博士を督励します。 それでもって、辰野博士は、何回も設計変更させられて、設計の完成だけで8年もかかって大変だったよう です。 立派な東京駅造りに尽力した後藤新平翁。 中央駅』の名があがったそうです。 『東京駅』の呼称についても、他の上野駅も新橋駅も東京にあるのに、どうしてここが東京駅なんだ?って 批判もあったようです。結局、中川正佐鉄道次官が断固主張して、開業直前の12月5日の鉄道院告示により 『東京駅』と命名されました。 そうしたいきさつを経て、東京駅は目出度く大正3(1914)年12月18日開業します。 総工費は東京駅本屋(ほんおく)だけで282万2,005円30銭。 創建当初の東京駅。 まだ丸の内が閑散とし『狐狸の棲み家』と呼ばれた二束三文の原野で、三菱が時の蔵相松方正義から高額で 押しつけられてからそう遠くない頃です【岩崎彌太郎の弟で三菱二代当主岩崎彌之助(いわさきやのすけ)の 子女が、松方正義の子息と結婚していた】。 ここは空き家同然だった江戸期の藩邸が明治五年の大火で焼失し、その後練兵場や兵営が設置されたのです が、それも世界情勢の緊迫にともなう軍拡で移転し、政府から何の役にも立たない土地を押し付けられた岩崎 彌之助は『竹を植えて虎でも飼うさ』とやせ我慢の台詞を吐いたそうです。 それが今や日本の首都東京の表玄関。丸の内OLというのはキャリアウーマンの憧れの的です。 オリジナル東京駅の設計者、辰野金吾博士。 大林芳五郎(おおばやし よしごろう)社長の写真。 の建設業界では青天の霹靂だったようです。前評判では、清水組か大倉土木組のいずれかが落札するだろうと いうことで、衆目が一致していたのですから。 そして、実際にこの当時世界でも類を見ない巨大建築を請け負ったのは、関西の大工さんです。 というのは、江戸というのは火事が多くて。その度に復興建築を行うに当たって拙速(せっそく)を良しと した施工をしていたのですね。 ですから、東の大工さんは西の大工さんに比べて仕事が早い代わりに粗かったようです。 そのため、辰野博士は、日本銀行本店の新築工事の際、あまりの杜撰な工事に激怒し、請負業者を工事途中 で解雇し、後の施工を自分が直轄で行ったという武勇伝が残っているくらいです。 東の大工さんが西の大工さんに較べて仕事があっさりしているという話は、六代目 三遊亭圓生(さんゆう ていえんしょう)さん演じる西の大工名人、左甚五郎(ひだりじんごろう)を主人公にした『三井の大黒』 という落語の録音にも出てきます。 大林組は、それ以前に日露戦争で捕らえた俘虜のための浜寺俘虜収容所を僅か21日間というあり得ない 工期で立派に仕上げたという実績があって、それを観た辰野金吾博士は激賞し、大林芳五郎さんと関西の大 工さんの仕事をとても評価していました。 当時の日本は世界の一等国として認められるため、国際的な評価をとても気にしていて、捕虜を野宿させ ようものなら列強から何といわれるか分かったものではないので、そうならないように収容所を急いで建て たのです。 それで、東京駅建設にあたっての大林組の関西大工さんの早くて丁寧な仕事ぶりについて、設計者の辰野 博士は、とても満足していたということです。 関西の人は吉本と粉モンしか知らない無知不勉強な某市長に踊らされずに、こういうことを、もっと誇っ て良いと思いますよ。 今回保存・復原された東京駅は『東京駅丸の内駅舎保存・復原工事共同企業体 (鹿島・清水・鉄建 建設共同企業体)』が施工しています。創建した大林組は落札できなかったんだねえ。 でもね、それだけの技術を持った建設会社が複数ある日本というのは、世界的に見て、凄いことなの ですよ。 東京駅丸の内駅舎保存・復元工事については、鹿島建設がHPを掲載していますので、詳細はこちらを ご覧下さい。 http://www.kajima.co.jp/tech/tokyo_station/index-j.html 平成24年(2012)年6月10日に、復原された駅舎の一部(1階部分)が再開業し、同年10月1日に予定通 り全面再開業に至りました。 戦後2階建てになった駅舎を5年かけて創建当時の3階建てへと復原。新しく取り替えられたレンガにも、 あえて時代を経たような風合いを施し、歴史を感じさせる趣を出しています。 保存・復元工事と言っても、ただの保存・復元ではありません。 地下部分も大幅に改築し、新たに免震装置も組み込まれました。 駅舎を保存しながらの地下工事には、350個のジャッキで駅舎を支えながら作業が行われたそうです。 見えないところで、いろいろな工夫がこらされているのですね。 かつての名工たちの力で作られた東京駅が、最新のテクノロジーを用い、平成の名工によって生まれ変 わったのです。 昭和初期の東京駅。 す。上の写真と良く見比べて下さい。【写真クリックで拡大】 マ写真というのは羊頭狗肉で、実はこういった原理だったのですね。 それにしても、本当に忠実に再現できたものです。びっくりだねえ。 ということで、東京駅丸の内駅舎沿革と概要を御紹介しただけで、長くなりました。 次に続きますね。 |
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それで、屋根の上にいた、金の鳥さん。 金鳥の夏 日本の夏だねえ。蚊取り線香を焚きたくなるねえ。 とても急な坂です。だから、一旦下に降りて下から見上げる写真を撮る気には、とてもじゃないけれどなりません。 この坂を下りたあたりに銭形平次さんが住んでいたんだねえ。 ビルだらけで平次親分の頃とは様変わりですが、狭い路地が下町の雰囲気を醸し出しています。 この坂を一気に駆け上がれるのが江戸の男なのですね。 こうやって、写真を撮っているときも、背広を着たお兄さんが、一気に駆け上がってきたよ。江戸っ子は凄いねえ。 男坂の案内板にはこう書かれています。 ※ ※ ※ 明神男坂(みょうじんおとこざか) この坂を明神男坂といいます。明神石坂(いしざか)とも呼ばれます。 『神田文化史』には「天保の初年当時神田の町火消(まちびけし)『い』『よ』『は』『萬』の四組が石坂を明神へ献納した」と男坂の由来が記されています。 この坂の脇にあった大銀杏(おおいちょう)は、安房上総辺(あわかずさあたり)から江戸へやってくる漁船の目標になったという話や、坂からの眺めが良いため毎年一月と七月の二六日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。 ※ ※ ※ 昔は海からここが、また、ここから海がよく見えたんですね。 今、ここでお月見はできないこともないけれど、ちょっと雰囲気が違うねえ。 それでもって、ここは観月だけではなく、初日の出、雪見、納涼の場としても江戸っ子の人気スポットだったんだよ。 それで、ここは江戸の名所だったので歌川広重(安藤広重)さんが安政3(1856)年2月から同5(1858)年10月にかけて制作した連作『名所江戸百景』でもモチーフにしています。 【神田明神曙之景(かんだみょうじんあけぼののけい)(春10景)】 この絵は、正月元旦の早朝に若水汲みの儀式を終えた神官・巫子(みこ)・下男が、東の空が明けていくのを眺めている様を描いていると言われているそうです。 今は、ビルが邪魔で、初日の出を拝むことができません。 神田明神様は信仰の対象として崇敬されていたばかりではなく、江戸を代表する風流な場所だったんだねえ。 ※ ※ ※ 明神男坂大公孫樹(おおいちょう) この公孫樹は、向かい側の男坂解説にもあるとおり江戸の昔よりこの地に育ちました由緒のある樹木です。 大正時代、関東大震災により社殿をはじめ神社の諸施設がことごとく炎上し崩壊したなか、その焼け跡に唯一残されたのがこの公孫樹でした。 震災で焼け残った公孫樹からひこばえが生え育ち、その後、昭和20年の東京大空襲による油脂焼夷弾が東京一帯を襲いましたが、昭和9年建立の鉄筋コンクリート造・総漆塗の社殿は当時としては日本初の耐火耐震構造をもつ神社建築であったため消失を免れました(国登録文化財・文化庁)。 その一方、ひこばえは被災の憂き目にあったにもかかわらず立派な樹木となり親木を支えることとなりました。 この度、親木のほうは枯木につき倒木危険防止のため上部を伐採し保存することといたしました。 江戸時代、月見の名所に植えられた公孫樹は、大正・昭和の災害にも遭遇しながらも子孫を残し、この地の歴史を伝えてきた大切なご神木と言えます、 災難除け・厄除け・縁結びのご神徳を持ち長い間この地を見守ってきたご神木として、今後とも後世にお伝えいたします。 ひこばえの生育が後世までも受け継がれてゆくことを心より願うものであります。 山本周五郎の『樅の木は残った(もみのきはのこった)』じゃなくて、『大公孫樹は残った』だねえ。この木はずっと江戸っ子を見守ってきたのですね。 鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏もこのあいだ台風で倒れたのですが、こうやって、銀杏の木は倒れてもひこばえによって継承されていくのですね。 それで、広重さんは、天保5(1834)年から天保10(1839)年にかけて製作した『東都名所』では、ここ男坂の情景を描いています。 【神田明神東阪】 広重さんは、男坂のことを『東阪』と呼んでいたのですね。 坂の字が『阪』になっているねえ。 ゴッホやモネなど西欧の画壇に衝撃を与え、新たな潮流を生み出した世界的絵師、広重さんがこれほどまでに気に入っていたなんて、余程良い眺めだったのですね。 画面右のまっすぐ立った木が明神男坂大公孫樹なのかな? この木がまだそれほど大きくないということは、 男坂が献納されたのが、天保の初年ですが、天保年間は西暦1830年から始まっていて、この絵が制作されたのが、天保5(1834)年から天保10(1839)年にかけてですから、男坂が献納されたときに『大公孫樹』も一緒に植えられたのかな? 赤提灯に書かれている屋号は『さの屋』かな?江戸を代表する絶景スポットだから茶店があったのかな? 神田明神の正面鳥居脇の参道には、今も甘酒屋さんの老舗『天野屋』さんがあるからねえ。 いずれにせよ、この坂をただの急な石段だと思ったら大間違いなのですね。 由緒正しい石段なのでした。おみそれしました。 ということで、江戸っ子の信仰厚い神田明神でした。 まだまだ由緒あるお社(やしろ)、旧跡はあるのですが、神田明神についてのお話は、ひとまずここで終わります。ご拝読ありがとうございました。 |
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ということで、今回は銭形親分の顕彰碑です。 舟木一夫さんが歌った お〜と〜こだったぁら〜 ひとつにか〜け〜る〜♪ か〜け〜てもつれた 謎をと〜く〜♪ 誰がよんだか 誰がよんだか♪ 『ぜにがたへ〜いいじ〜♪の碑』が『寛永通宝(かんえいつうほう)の銭(ぜに:銅銭)』に建っています。神田明神のHPの説明にはこうあります。 ※ ※ ※ 銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。 平次の住居は、明神下の元の台所町ということになっている。 此の碑は、昭和四十五年十二月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁りの明神下を見下ろす地に建立された。 石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。 ※ ※ ※ 銭形平次は、作家、野村胡堂(のむら こどう)さんの代表作『銭形平次捕物控(ぜにがたへいじとりものひかえ)』の主人公で、架空の人物です。 野村胡堂さんは音楽評論家としても有名で、『あらえびす』の筆名で、レコード評論等も執筆しています。 平次親分が住んでいた神田明神下御台所町(かんだみょうじんしたおだいどころまち)は、今の行政区画でいうと外神田(そとかんだ)2丁目です。 『もう少し詳しくいえば鰻(うなぎ)の神田川の近所、後ろは共同井戸があって、ドブ板は少し腐って、路地には白犬(しろ)が寝そべっている(銭形平次捕物控:嶋中書店文庫第1巻解説より)』 外神田じゃなくて、御台所町の方がカッコ良いねえ。 御台所町は、江戸の町が生まれた当初は、幸龍(こうりゅう)寺や万隆(ばんりゅう)寺などが軒を連ねる寺社地でしたが、明暦三(1657)年一月十八日に発生した『明暦の大火(めいれきのたいか:振袖火事)』により打ち出された『延焼を防ぐため、大きな寺社をなるべく市中の外側に移転させる』という幕府の方針により、寺社が移転立退き、城内の御台所御賄方(おだいどころおまかないかた)の武家屋敷として再建されて出来た町です。 さらに寛文(かんぶん)十二(1672)年、この場所に住んでいた武士たちの希望もあって町内に『町屋(まちや:商人と職人の住まい)』も形成されて以降、御台所町は町人の町として発展をとげることになりました。 文政(ぶんせい)七(1824)年の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』には、町内に足袋屋(たびや)や呉服屋(ごふくや)、小間物屋(こまものや)があったことが記されています。 時代が下って明治二年 (1869)には、神田明神下御賄手代屋敷(かんだみょうじんしたおまかないてだいやしき)を合併し、神田御台所町(かんだおだいどころまち)と呼ばれるようになりました。だから、御台所町は江戸っ子の町だったんだねえ。 それで『銭形平次捕物控』では、テレビほど頻繁に『寛永通宝』の銭は投げません。もったいないからねえ。 平次親分の必殺技の『銭は投げ』は、やっと嶋中書店文庫第1巻のP169に出てきます。 ※ ※ ※ 三度、切ってかかる前に、隠居とみせかけた平次の腰はシャンと伸びました。懐に入った右手を抜くと、得意の投げ銭がサッと夜風を剪(き)って曲者の面上へ―――。 「あっ」 曲者は一等の背で辛(から)くも面をかこいました。ジーンと刃金を叩く銭の音。 その刃(やいば)を返して、襲撃に移る前、平次の手からは、第二、第三の、第四の銭が、糸を繰り出すように曲者の面へ、肘へ、喉笛へと見舞います。 ※ ※ ※ 境内にある銭形平次親分の観光パネルです。 おそ松くんに出てくるイヤミのシェーのポーズだねえ。 『銭形平次捕物控』は岡本 綺堂(おかもと きどう)著の『半七捕物帳(はんしちとりものちょう)』の影響の下、書かれました(第1巻解説より)。 ※ ※ ※ 亡くなった菅忠雄君が、新聞社の応接間に私を訪ねて「雑誌を創(はじ)めることになったが、その初号から、岡本綺堂さんの半七のようなものを書いてくれないか」と持ち込んだのは、昭和六年のことである。「綺堂先生のようには出来ないが、私は私なりにやってみよう」と簡単に引き受けてしまったが、それから実に二十三年、銭形平次の捕り物を今でも書き続けている。・・・・・ ※ ※ ※ それで、創刊されたのが、文藝春秋社の『オール讀物(オールよみもの)』です。 『オール讀物』は月刊娯楽文芸雑誌の老舗で、昭和42(1967)年からは、池波正太郎さんの『鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)』が連載されています。 初代編集長は永井龍男さん。銭形平次の執筆を依頼した『菅忠雄(すが ただお)君』というのは、文藝春秋社の編集者で作家です。 菅忠雄さんは、は菅虎雄(すが とらお)さんの二男です。 お父さんの菅虎雄さんはドイツ語学者で、五高教授だった明治29年(1896)4月に親友の夏目漱石(そうせき)さんを五高に招いています。明治34年には一高教授に就任しました。 能書家で漱石さんの墓碑銘を書いたのも菅虎雄父さんです。 菅虎雄父さんの教え子には芥川龍之介、菊池寛らがいます。 その縁で、菅虎雄父さんに頼まれた芥川龍之介さんが、息子さんの菅忠雄さんの家庭教師をしました。 菅忠雄さんは上智大学を中退後、虎雄父さんを通じて久米正雄さん、菊池寛さんを知り、文藝春秋社に入社して野村胡堂さんの執筆依頼等、『オール読物』の創刊に関わり、後に編集長もつとめ、『文芸春秋』の編集長にもなりました。 また菅忠雄さんは、大正13年川端康成さんらと『文芸時代』を創刊し、同人として執筆もしています。うへえ!生きた日本の文学史だねえ。 夏目漱石さんの親友だという人の息子さんで、芥川龍之介さん、久米正雄さん、菊池寛さん、川端康成さんとも旧知の編集者に頼まれた仕事なら、野村胡堂さんも引き受けないわけにいかないねえ。 それで、『銭形平次』のさきがけとなった、この『半七捕物帳』こそ、『捕物帳(とりものちょう)』ものの元祖にして本家です。 この本はとっても面白いねえ。 もちろん、これもフィクションなのですが、幕末期の江戸の風俗描写は細かく正確なので、歴史資料としても珍重されています。 例えば、『半七捕物帳』に書いてある『捕物帳』の説明では、 ※ ※ ※ 「捕物帳というのは与力や同心が岡っ引きらの報告を聞いて、更にこれを町奉行所に報告すると、御用部屋に当座帳のようなものがあって、書役(しょやく)が取りあえずこれに書き留めて置くんです。その帳面を捕物帳といっていました」 ※ ※ ※ さらに岡っ引きの制度については、こう続きます。 ※ ※ ※ 「それから私どものことを世間では御用聞きとか岡っ引きとか手先とか勝手にいろいろの名を付けているようですが、御用聞きというのは一種の敬語で、他からこっちをあがめて云う時か、又はこっちが他を嚇(おど)かすときに用いることばで、表向きの呼び名は小者(こもの)というんです。 小者じゃ幅が利かないから、御用聞きとか目明(めあか)しというんですが、世間では一般に岡っ引きといっていました。 で、与力には同心が四、五人の手先が付いている、同心の下には岡っ引きが二、三人付いている。その岡っ引きの下には又四、五人の手先が付いているという順序で、岡っ引きも少し好い顔になると、一人で七、八人乃至(ないし)十人ぐらいの手先を使っていました。 町奉行から小者即ち岡っ引きに渡してくれる給料は一ヶ月に一分二朱というのが上の部で、悪いのになると一分ぐらいでした。 いくら諸式の廉(やす)い時代でも一ヶ月に一分や一部二朱じゃあやりきれません。おまけに五人も十人も手先を抱えていて、その手先の給料はどこからも一文だって出るんじゃありませんから、親分の岡っ引きが何とか面倒を見てやらなけりゃあならない。 つまり初めから十露盤(そろばん)が取れないような無理な仕組みに出来あがっているんですから、自然そこにいろいろの弊害が起こって来て、岡っ引きとか手先とかいうと、とにかく世間から蝮(まむし)扱いにされるようなことになってしまったんです。 しかし大抵の岡っ引きは何か別に商売をやっていました。女房の名前で湯屋をやったり小料理をやったりしていましたよ」 ※ ※ ※ とても具体的で細かい描写が、読者を江戸の世界に誘(いざな)ってくれます。 だから、江戸情緒に浸りたいなら、『銭形平次捕物控』とともに『半七捕物帳』もお勧めだねえ。 それで、半七親分も平次親分同様、家は神田で、三河町(みかわちょう)にお住まいだったのです。というより、平次親分の下敷きが半七親分だから、当然ですね。 三河町は、徳川家康が入府したさいに帯同した三河の下級武士がこの地に移り住んだことにちなんで名付けられた由緒のある町名です。 江戸でもっとも古い町の一つで、1丁目から4丁目まであり、明治時代には東京市神田区三河町となったのですが、昭和10(1935)年に1丁目が鎌倉町(かまくらちょう)と、2〜4丁目が神田司町(かんだつかさまち)と合併したことによりこの由緒ある町名は消失しました。 平次親分が住んでいた御台所町(おだいどころまち)も、半七親分が住んでいた三河町(みかわちょう)も今はもうありません。私は昔ながらの町名を変更するのは反対だねえ。 ということで、銭形平次の碑について、あれこれ思いつくことを書きました。次に続きますね。 |







