【ファイルET68】2012.07.22 神田明神は江戸の総鎮守(3)神田祭は『天下祭』だねえ。最初から見られる方はこちら。http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53382446.html 神田明神で執り行われる神田祭は江戸三大祭りの一つで、山車(だし)は将軍御上覧(しょうぐんごじょうらん)のために江戸城中に入ったので、『天下祭(てんかまつり)』と呼ばれました。 神田祭と山王祭の巡行ルート【『超雑学 読んだら話したくなる 江戸・東京の歴史と地理』安藤優一郎 株式会社 日本実業出版社より】 江戸城の表鬼門(東北)を守護する神田明神と、江戸城を挟んで反対方向の裏鬼門(西南)に位置する日枝神社(ひえじんじゃ)=日吉山王権現【ひよしさんのうごんげん:山王(さんのう)さん】の山王祭(さんのうまつり)も神田祭と共に将軍御上覧に供されるため、天下祭りと呼ばれています。 随分と長い距離を歩くのですね。 当時は町御輿(まちみこし)が中心の現在とは違い、山車(だし)や練(ね)り物が中心でした。 練り物とは、仮装行列や屋台などの行列のことですが、各町は山車と練り物の内容にとても力を入れていました。それこそ江戸っ子の意気を示す晴れ舞台だったのですね。 明治に入ると電線の普及等により山車の数は大幅に減少しました。現在は山車に代って町御輿が主流となっています。 また、『神田囃子(かんだばやし)』は現在無形文化財に指定されています。 それで、江戸東京博物館の展示で、当時を偲んでみましょう。説明は、博物館のものに、若干手を加えてあります。 神田明神山車(復元年代/江戸末期) 【「神田祭り」の山車〔だし:祭礼のとき、さまざまな飾物などをして曳(ひ)き出す車〕のひとつを、関東に現存する山車や絵画資料をもとに復元した。 江戸時代9月15日に挙行されていた神田神社の祭礼の日には、神輿(みこし)の前後に30数台の山車とさまざまな練物(ねりもの)が従い、江戸町人の盛んな意気を示し、江戸城にくりこんで、将軍の上欄(じょうらん)に供した。この山車は、江戸末期に古川長延によって改修された8番目須田町(すだちょう)のもので、人形は三国志に出てくる名将関羽(かんう:支那三国時代の蜀の武将)である。】 それにしても、横浜の中華街にも関羽を祀った関帝廟(かんていびょう)がありますが、関羽さんの信仰というのは江戸にも根付いていたのですね。 神田祭りのミニチュア再現展示。 【神田祭りの華やかで壮大な行列のありさまを、当時の絵画資料をもとに、代表的な山車(だし)や神輿(みこし)などを抜き出して復元した。 山車は、大伝馬町(おおでんまちょう)の鶏(にわとり)、旅籠町(はたごちょう)一丁目の翁(おきな)、佐久間町一丁目の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の3台、神輿は、二之宮1基とし、人形は、旦那衆(だんなしゅう)、山車曳手(ひきて)、神輿担ぎ手(かつぎて)、囃方(はやしかた)など、およそ300体を配置した。】 江戸時代から、神田祭は随分と賑やかなお祭りだったのですね。 明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として『准勅祭社』『東京府社』に定められました。 明治7年(1874)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました。その際には、将門公は本社の祭神から外されています。 明治天皇御臨幸の記念碑。 『平将門首塚の記事』で書きましたように、この行幸により、神田明神の御祭神である将門公の遷座を巡り一悶着あったのですね。 大正12年(1923)、未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいました。 しかしながら、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。 昭和10年代後半より、日本は大東亜戦争へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。 神田明神の境内も多くの建造物がほとんど烏有(うゆう)に帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。 戦後以降、結婚式場・明神会館など次々と境内の建造物が再建されていき、昭和51年に檜木造の隨神門が再建されるに及び、江戸時代に負けない神社の姿を取り戻しました。 さらに『平成の御造替事業』が行なわれ、社殿の修復・塗替えや資料館の創建など境内整備が進められました。平成17年、神札授与所・参拝者控え所・休憩所を兼ね備えた鳳凰殿、氏子英霊をお祀りする祖霊社が建立されるなど、さらに境内整備が進められています。 ということで、長くなりましたので、次回に続きますね。 |
江戸・東京の部屋
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随身門から入って、御神殿をお詣りします。 御神燈です。 石灯籠。 龍神様の手水舎で両手と口を清めます。 随神門を入った正面が御神殿(国登録有形文化財)です。 立派なお屋根だねえ。 幕の模様です。 場所柄、海外の人も含め善男善女が参詣されています。 狛犬さんも立派だねえ。 巫女さんがいらっしゃいました。 天女さんみたいだねえ。 神田明神(現在の正式名称は神田神社)は、東京の中心−神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場=108町会の総氏神様です。「明神さま」の名で親しまれています。 以前、平将門公の記事で神田明神のあらましを記事にしましたが、社伝によると、神田明神は天平2(730)年に出雲氏族で大己貴命(おおむなちのみこと)の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。 その後、天慶の乱(てんぎょうのらん)で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2(1309)年神田明神に奉祀いたしました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。 慶長(1600)5年、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、神田明神では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。 その霊験により、旧暦の9月15日、徳川家康公は神田祭の日に見事に勝利し、天下統一を果たしました。 これ以降、徳川将軍家より神田祭は縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。 江戸幕府が開かれると、神田明神は幕府の尊崇する神社となり、元和2(1616)年に江戸城の表鬼門【おもてきもん:艮=牛寅(うしとら)=東北の方位】守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。 江戸城と神田明神の位置関係(再掲)。 神田明神が江戸城の東北に位置しますね。 以後、江戸時代を通じて『江戸総鎮守(えどそうちんじゅ)』として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤(あつ)い崇敬(すうけい)を受けました。 江戸名所図会(えどめいしょずえ)の神田明神。 ということで、次に続きますね。 |
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平将門公(たいらのまさかどこう)の記事を書いたからには、今回は平将門公をお祀りしている神田明神(かんだみょうじん)です。 青い大鳥居の神田明神です。 思わず、見上げてしまいます。 鳥居の裾には波の模様が施されています。 正面の随身門(ずいしんもん)です。 関東大震災で焼失したままだったのですが、昭和50(1975)年に昭和天皇御即位50年の記念として再建されました。総檜・入母屋造です。 立派な門だねえ。 『神田神社』の額です。 神田明神の現在の正式名称は『神田神社(かんだじんじゃ)』なのです。横に『宮司 大鳥居吾朗謹書』と書かれています。 『神田神社』は江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に、勅使(ちょくし)として江戸に下向した折に幕府より将門の事績について聞かされた大納言烏丸光広(だいなごんからすまみつひろ)の「将門は朝敵に非ず」との奏上(そうじょう)により、国家鎮護の社として勅免の沙汰が下り、『神田大明神』の勅額を賜ったのですが、 明治初期の神仏分離により『権現』『八幡大菩薩』などの称とともに『明神』の公用が禁止されたため、『神田神社』に改められました。 まあ、明治政府としては、打倒した幕府の創始者徳川家康が『東照大権現(とうしょうだいごんげん)』として神格化されていたわけですから、こういう称号は廃止したかったのでしょうね。 でも、江戸っ子にしてみれば、『神田明神』は『神田明神』なのです。 随神門は朱雀(すざく)・白虎(びゃっこ)・青龍(せいりゅう)・玄武(げんぶ)の四神が外回りを固めています。邪悪なものを神の社に近づけないように守護する門ですからね。 朱雀さん。 玄武さん。 お馬さんと獅子があしらわれています。 六角形の模様は、左から、白虎、玄武、蝶、花、青龍、朱雀のパターンで並んでいます。 随神門の外側正面には隨神像を配し、右は豊磐間戸神、左は櫛磐間戸神を安置しています。 右の豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)さん。 左の櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)さん。 隨神像はガラス張りの中に安置されているので、写り込みがあって見にくいのですが、ご容赦ください。 これらの像は熊本城域内の樹齢500年の楠で、加藤清正公お手植えと伝えられているものを使用しているそうです。 長崎平和祈念像制作者として有名な北村西望(きたむら・せいぼう)氏の監修によるもので、一木造。松下幸之助氏が奉納しました。 本社祭神一之宮の大国主尊【おおくにぬしのみこと=大黒様(だいこくさま)】と因幡の白兔(いなばのしろうさぎ)さんの彫刻も配されています。 大黒様と鼠(ねずみ)さん。 大黒様が『根の堅洲国(ねのかたすくに)』で『須勢理毘売命(すせりびめのみこと)』と結婚しようとした時に、ひめの父親の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が大黒様に試練を与え、ついには野に火を放って焼き殺そうとしました。 その時に鼠さんが「内はほらほら外(と)はすぶすぶ」と言って洞穴があることを教え、大黒様がそこをとんと踏んだところ、ぽっかり穴が開いて落ち込み、その上を火が焼け過ぎて助かったのです。 鼠さんは大黒様の命を助けて偉いねえ。 獅子も門の角を守護しています。 随神門の内側はこんな感じです。 随神門の内側には、神馬一対を配しています。 これらは、氏子総代・遠藤達藏氏により奉献されました。 ということで、次回に続きますね。 |
【ファイルET65】2012.06.10 平将門の首塚は魔都東京一のパワースポット(下)今なお存在し続ける将門さんの祟り。(上)から読まれる方はこちら。http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53268939.html ということで、前回は中世に将門さんの祟(たた)りが恐れられたという話を御紹介しました。 今回はそれ以降、現在に至るまで、将門さんの祟りだと言われている事象を御紹介しましょう。 朝日新聞 昭和45年(1970)7月19日 東京版の記事 『たたりと近代ビル 手つかずの一等地』と『伝説探訪 東京妖怪地図 荒俣宏監修 田中聡著』を中心に参照し、まとめると。 江戸時代、首塚は酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)の屋敷内にありました。 その屋敷では伊達騒動の結果、伊達安芸(あき)、原田甲斐(はらだかい)が殺されたといいます。 前回お話ししたように、明治維新で、江戸城が皇居(宮城)となって天皇陛下が江戸城に入ると、再度朝敵だとみなされた神田明神の将門さんは、祭神から格下げされ、首塚は明治5年に首洗い池とも呼ばれる蓮(はす)の浮かぶ御手洗(みたらし)池とともに大蔵省の中庭に薄暗く残されました。 しかしながら、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災で、大蔵省の庁舎は失われ、首塚も破損しました、 そこで首塚を発掘調査したところ、塚の下から長方形の石室が現れましたが、その墓の主ははっきりしませんでした。 調査後、石室は壊され、御手洗池も埋められてその上に大蔵省の仮庁舎が建てられました。 ところが、間もなく大蔵官僚の中に病人が続出します。そして、一年ほどの間に早見整爾(はやみせいじ)大蔵大臣をはじめとして十四人があいついで命を落としていったのでした。 『これは将門公の塚を粗略にした祟り』ということで塚の上の庁舎を取りこわし、大蔵省内の不安を取除くことになりました。 大蔵省の悲劇はそれだけでは終わりません。 昭和15年6月20日。突然、落雷が発生し大蔵省本庁舎が炎上します。 省内に再び『慰霊祭をおろそかにしていた罰なのでは』という声があがり、庁舎は直ちに移転し、大蔵省は将門公没後千年とあわせ一千年祭を挙行した上に、河田烈大蔵大臣がみずから筆をとり古跡保存碑を建立しました。 平将門の首塚の碑(再掲) また、大東亜戦争敗戦後の昭和二十年暮れ。進駐してきたマッカーサーの連合軍総司令部(GHQ)が、コンクリートと雑草で荒れる塚周辺をモータープールにしようと着工。首塚は徹底的に破壊されました。 ところが、その工事中に整地作業をしていたブルドーザーが突然、横転。日本人運転手と作業員の二人がブルドーザーの下敷きになり一名が即死し一名が大けがをします。 古くからの言い伝えを知る近くの材木商、遠藤政蔵さんが司令部に出頭し「あの塚は日本の昔の大酋長(だいしゅうちょう)の墓。ぜひ、つぶさず残してほしい」と陳情した結果、さすがのGHQもこれを了承し、塚は残されました。 アメリカもインディアンの聖地や遺跡を多く破壊した歴史がありますから、いろいろと祟りにあって懲りていたのでしょうね。 しかし、もうその時には石塔婆の行方さえ知れぬ有様でした。 行方不明の石塔婆はその後三つに折れた姿で見つかり、今は茨城県の神田山(かどやま)延命院の胴塚の脇に復元されて立っているそうです。 昭和36年。モータープール撤収後の跡地であった首塚の東側土地が日本長期信用銀行と三井生命保険相互に払いさげられビル建設が着工されます。 このとき長銀(日本長期信用銀行)の建った場所は塚の旧参道の上でした。 昭和38年ごろ、塚に面した各階の部屋の行員がつぎつぎに発病します。 長銀は「たたりなんて、ちょっと本気になれないが」と半信半疑ながらも、塚の管理者神田明神の神官を呼び盛大な慰霊祭を挙行しました。 その後、長銀の塚に面した部屋で仕事をする行員の机などは「塚にシリを向けては……」という配慮から、窓側を向くか、横向きにされたと言われます。 さらに昭和39年、塚の西北部の土地を入手した三井物産が、昭和44(1969)年ごろから新社屋建設を計画します。 地下鉄大手町駅との連絡地下道建設工事や、社屋横に作る労働省方面への通路建設などから塚の土地も入手できれば好都合と考えたのです。 そこで、管理する神田明神、同塚保存会に意向を打診したところ「建物ならともかく塚を動かしたら古跡の意味がなくなる。また、昔からこういう怨霊伝説もある」との返事が返ってきます。 地主の東京都も「払下げてもかまわないが」といいながらも、尻込みしたため既に新社屋建設室までつくっていた三井物産も、諦めざるをえませんでした。 当時の新社屋建設室 城田一雄参事は「塚の土地はなくてもかまわないんです。科学の時代に、たたりなんて本気にはしませんが、そんな話を聞くとどうしてもという気にならないのはたしか」と言ったそうです。 当時、一平方メートルあたり約65万円。287平方メートルある塚周辺の土地を手放せば都には1億8000万円見当の金が得られると言われていました。 当時の東京都磯村光男財務局長は「土地利用から見たら払下げるべきでしょうねえ。ま、保存会側や買手など八方まるくおさまりゃ、売ってもいい。祟りはあたしが受けてもいいですがねえ。ハ ハ ハ」と言っていたそうです。 更に、『伝説探訪 東京妖怪地図 荒俣宏監修 田中聡著』によると、昭和48年のビル工事のときも、祟りがささやかれたということです。 首塚の向かいと横とで二つのビルの工事が行われたましが、横手のビルは首塚供養を篤(あつ)く行ってから着工しました。 ところが、向かいのビルでは無関心で粗末な扱いをしたため、祟りはたちまち前のビルにくだり、首塚側の地下室で工事中の2名が死亡、同じ場所でケガ人も続出。しかも死者二人は同じ苗字で、ケガ人にも頭文字の共通する人が多かったといいます。 ただ、上記の主な情報源が、平将門さんを祀り上げることで天皇の権威を否定し、皇室を廃絶したくてしょうがない『朝日新聞』というのが、少々ひっかかるのですが・・・。 このように現在もなお、将門の首塚は数多くの時代の波を乗り越え、高層ビルの建ち並ぶ、一等地丸の内のオフィス街のど真ん中で東京を守護しています。 現在の将門さんの首塚の周囲の様子(再掲)。 Google マップではこうなっています。 西:三井物産ビル 北:三井物産別館 北東:三井生命ビル 東:大手町パルビル(旧長銀ビル) 東にあった長銀(日本長期信用銀行)は既に今はありません。 平成10(1998)年10月23日、形式的には長銀自身の破綻申請は即日その認定がなされ、日本政府により特別公的管理銀行として一時国有化されました。 また、三井物産のIJPC(イランジャパン石油株式会社)が昭和54(1979)年2月に起こったホメイニ氏のイラン革命で頓挫したのも新社屋を将門さんの首塚の上に建てようとした祟りだと言われたりしました。 つまり、将門さんの祟りは現在にも生きているのです。 ということで、将門さんのように例えかつては逆賊であったとされていた人でも戦で亡くなった人の霊を疎略に扱うと、その祟りは何倍にもなって返ってくるのです。 現在、日本には反日左翼を中心として靖國神社の替わりに国家の慰霊施設を作れというようなとんでもないことを言う人がいますが、逆賊でも無いどころか『靖国で会おう』と誓って国のために命を捧げた人達にこんな侮辱を与えるならば、その祟りはちょっと想像も付きません。 こういう人達は日本の文化や歴史を舐めているとしか思えないのですが。 ということで、平将門さんの首塚のお話でした。 本当に『祟り』って怖いですね。 次回は平将門公をお祀りしている神田明神です。 |
【ファイルET64】2012.05.25 平将門の首塚は魔都東京一のパワースポット(中)将門さんは江戸の守護神になったんだねえ。(上)からの続きです。(上)の記事はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53268939.html まず平将門(たいらのまさかど)さんの首塚の写真(再掲)から。 将門さんの肖像画。 馬上で戦う獅子奮迅(ししふんじん)の活躍の将門さん。 鬼の形相だねえ。 京都で晒(さら)された将門さんの首 首だけになっても、いたって元気もりもり、意気軒昂(いきけんこう)です。 こんな首が江戸まで飛んでくるなんて、恐ろしいねえ。 武芸に優れているばかりでなく、その壮絶な死によって、不遇をかこつ東国の人達の英雄となった将門さんは、その壮絶で悲劇的な死とも相まって、その関東を中心に時代を超えた伝説として後世の人々に語り継がれることになります。 そりゃそうでしょう。首と胴体が生き別れになっても戦意を喪失しない不死身なのですから。 その影響の大きさから、平将門の乱をもって、武士が発生したと評価する人もいるそうです。 嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これは将門さんの祟(たた)りだという噂が巷間に広がりました。 それで祟りを鎮めるために、時宗(じしゅう)の遊行僧(ゆぎょうそう)の他阿真教上人(たあしんきょうしょうにん)によって将門さんは神として祀られ、延慶2年(1309年)には神田明神に合祀されることとなりました。 その後、神田明神は戦国時代に江戸城を築城した太田道灌や北条氏綱(ほうじょううじつな)等の東国武将が武運祈願を行うところとなり、ついには関ヶ原の戦いに際して徳川家康が戦勝祈祷を行うなど、関東武士の大きな崇敬を集めることになります。 将門さんは関東武士のヒーローだったんだねえ。 つまり将門さんは江戸を守護する神様に祀りあげられたのですね。 この圧倒的な信仰を背景に、朝敵とされていたはずの将門さんは、江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に、勅使(ちょくし)として江戸に下向した折に幕府より将門の事績について聞かされた大納言烏丸光広(だいなごんからすまみつひろ)が「将門は朝敵に非ず」との奏上(そうじょう)をしたため名誉回復を果たしました。 そういう将門さんを祀る神田明神は、幕府の守護のため江戸城の鬼門(東北)にあたる現在地に遷座(せんざ)されました。 そして、この首塚も江戸城の鬼門に建っていますね。 江戸城と神田明神、首塚の位置関係。 ところが明治維新後は、政府により将門さんが朝廷に反逆した朝敵であることが再び蒸し返され、逆賊として扱われます。 にっくき江戸徳川家が守護神として崇敬する人物ですからね。 そして明治7年(1874年)に明治天皇が行幸するにあたって、『陛下が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこと』とされて、教部省の指示によって平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社(おおあらい いそさき じんじゃ)から勧請(かんじょう)されました。 その時、江戸っ子、特に神田明神の氏子(うじこ)さんたちの怒ったこと! 神田明神は神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108町会の総氏神(そううじがみ)で、余所者の田舎者が集まった明治政府が勝手に江戸っ子の誇りの将門さんを祭神から外すなんて、それこそ神を恐れぬ不届きなことです。 その抗議は拡大し、宮司を辞めさせるなどの騒ぎに発展し、困り果てた神社は、将門さんの神霊を境内摂社に別宮の『将門神社』として遷座しました。 ところが将門さんは大東亜戦争敗戦後に皇室を否定し、廃絶しようとする左翼勢力によって『朝廷に刃向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄』と祀り上げられ、再評価されることが多くなりました。 そして、昭和51(1976)年には将門を主人公とした反日・反皇室放送局のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映されるに及んで、将門の祭神復帰への機運が高まり、ついに昭和59(1984)年になって、将門さんは本社祭神に復帰し、神田明神に合祀されることになったのです。 反日・反皇室放送局のNHKは、現在も反日が国是の朝鮮人を喜ばすために『韓流ブーム』を捏造(ねつぞう)し、大河ドラマ『平清盛』で清盛のことを執拗に『王家の犬』と呼ばせ、『皇室』を誹謗中傷するという売国行為を行っています。 聖徳太子以来、日本の天皇家は『皇室』あって、決して『王家』ではありません。 日本がその支配(柵封:さくほう)から脱した支那の価値観では、秦の始皇帝以来、『皇帝』こそが世界の中心として全世界を統治し、朝鮮の李王朝のような『王家』は辺境の野蛮人の酋長だったのです。 だから、日本の皇室が『王家』ではなく『皇室』であることが死ぬほど悔しい朝鮮の人達は、日本の天皇陛下のことを『日王』と蔑み、日本を誹謗中傷しているのです。 こんな連中のために進んで売国をするNHKスタッフは即刻故郷の朝鮮半島へ帰るべきです。 他方、売国NHKは、史実を全く無視した、荒唐無稽な『ナンチャッテ韓流歴史ドラマ』をタレ流し放映するに当たって、吹き替えで李王朝王宮のことを『朝廷』と呼ばせています。 『朝廷』とは『天子』の下、官僚組織をともなった政府および政権のことや、『天子』が政治執務を行う場所や建物の事を指します。 朝鮮半島は『王』はいても『天子』なんていません。 つまりNHKは、勝手に日本の『天皇=天子』を『王』と格下げし、朝鮮の『王』を『天子』に格上げしているのです。 この不敬売国『平清盛』は視聴率低迷が続いていて、このままでは“大河史上最低”の人気なんだって。ざまあだねえ。 そもそも日本を貶めることがアイデンティティーの、こんな異常国家と国交を結んでいるというのは異常なのですけれどね。 朝鮮半島や支那共産党の手先となって自虐史観で日本人を洗脳しようとしているのが、NHKや朝日新聞を中心としたメディアなのです。 江戸っ子の働きかけもあったとはいえ、こういう経緯で将門さんの名誉回復がなされたというのは、私としてはちょっと複雑なのですけれど、江戸東京の守護神として平将門さんが祀られているこの首塚や神田明神は、強力なパワースポットとして訪れる値打ちは大だと思います。 首塚の周辺にはカエルさんが置かれています。 可愛いねえ。 これは、将門さんの三女 『五月姫』が父の復讐を果すため祈願し、妖術を得て『滝夜叉』と改名し蝦蟇(ガマガエル)となったという伝承によるものだとか、将門の首が京から飛んで帰ったことから、必ず「帰る(カエル)」にひっかけたものとか言われているそうです。 蝦蟇といえば、児雷也(じらいや)という古い映画で、どろんどろんと蝦蟇が登場するシーンも出てきますし、四六のガマの油もよく利くそうですから、霊力のあるカエルさんなのかもしれませんね。 なお『神田明神の氏子(うじこ)は成田山(なりたさん)にお詣りするな』 と言われているそうです。 それは、朝廷が叛乱を起し『新皇』を名乗った平将門さんを討伐するため、僧・寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に、現在の成田山【なりたさん:真言宗智山派大本山成田山新勝寺】へ派遣し、乱の鎮圧のため不動護摩の儀式(火渡り荒修行)を行わせ、将門さんを調伏(ちょうぶく:まじないによって人をのろい殺すこと)したからなのです。 また、将門さんを討伐した藤原秀郷=俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)の子孫である佐野家では、下人までも神田明神に参詣してはならないのは言うまでもなく、社前を通ることさえ禁じているそうです。 通るとたちまち災いに遭うからです。 神田祭りの日などはさらに大事(おおごと)で、路上で神輿(みこし)に行き会うといけないので登城することさえ辞し、小川町にあった屋敷前を祭礼の列が通るときには固く両門を閉じ、人の出入りを禁じました。 見物に出ようものなら必ずケガをするというのです。 佐野家にはこういう話が伝わっているそうです【「伝説探訪 東京妖怪地図 荒俣宏監修 田中聡著」P34より】。 ※ ※ ※ あるときこの家筋の佐野五右衛門という人が神田織部という旗本の屋敷で酒のもてなしを受けた後、一緒に赤城明神の社地内にある茶屋へ遊びに行くことになった。 五右衛門が羽織がなくては格好がつかないので貸してほしいと頼むと、それはもっともと、つなぎ馬の紋のついた綿入羽織を貸してくれた。 つなぎ馬といえば、将門の紋所。じつは神田氏は将門の末裔(まつえい)だったのである。 茶屋の楼に上がってしばらくは遊女と戯(たわむれ)れていたが、突然五右衛門が全身発熱して滝のような汗をかき真青になって気絶した。医者だ駕籠(かご)だと大騒ぎして、五右衛門の屋敷まで送りとどけた。 翌朝織部が心配して訪ねると、五右衛門はケロリとしている。前後不覚になるほど辛かったのが、羽織を脱いだらすぐに治ってしまったという。神田明神の祟りを受けたのである。 ※ ※ ※ 凄いねえ。 将門さんの祟りは恐ろしいねえ。 ということで、(下)に続きますね。 |








