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奇跡は起きた!
私の実家は、小田急線・柿生駅から徒歩圏内の場所。
近隣は、住宅街でまずまずの高値で土地建物の売買が行われている。
そんな中、築50年以上の我が実家の空き家は、
高値のつかない袋地に建つ一軒家。
しかも、手ごわい隣人のオマケ付きときている。
近所の人々は、皆、
その手ごわい隣人に
「二束三文で買い取ってもらうしかない。」と思っていた。
私もそう思っていた。
段差のあるその袋地は、
父がこの地にマイホームを建てた時に話は遡る。
私が子供の頃は、そこは高台だった。
時の流れと開発の波で、
周辺の状況は昭和30年代後半とは、
まったく別のものとなっていった。
どうして亡き父がそんな地にマイホームを建てたのか。
今となっては、よく分からないことだが、
道のない土地を買ったことは、昔も今も動かない事実であった。
段差のある袋地。
手ごわい隣人。
高額な解体費用・・・
私はこのままでは孫の代まで迷惑をかけるかもしれないという、
目に見えない怪物に押しつぶされそうになったこともあった。
夫と定期的に草刈りのために実家に足を運び、
時には業者にその労働を頼むこともあった。
微々たる税金ではあるが、もちろん払っていた。
そんなこんなで5年の月日は、流れた。
今年の5月、
見知らぬ人からの突然の電話。
我が実家の後ろの空き地を買ったという人物からだった。
その土地も到底売れそうにない土地。
そこがネットで売りに出ていたことは知っていたが、
まさか売れるとは!
その電話の段階では、近隣へのご挨拶がてら、
私の考えを「ちょっと聞いてみよう」くらいの会話だった。
不動産会社?とちょっと思った。
夏に母が亡くなり、四十九日を迎える前、
9月の後半だった。
再び、5月に電話で話した人物から電話があった。
「空き家も傷んでくるし、税金も払わなければならない、草刈りの労力も・・・」
そんな話だった。
私も自分にとっては負の遺産であることを伝えた。
あまりにも話が的を得ていたので、
私はその人物に実家を見せる約束をした。
手ごわい隣人の件や他のご近所のこと・・・
もちろん家の内部のことを1時間程度、話し合った。
流れは「古家付きで土地を買いたい!」という方向へ・・・
「そんなにすぐに人を信じていいのか?」と
思われた方も多いかもしれないが、現代はネット時代。
事前にその人物を特定していた私だった。
顔を合わせた時には「やっぱりこの人だった!という感じだった。
その話し合いから2週間後、
最終的な結論が出されることになった。
私にとっては落ち着かない2週間だった。
絶望的だった実家の空き家・・・
またとないチャンスが巡ってきたかもしれない!
手ごわい隣人の件もあったので、
弁護士の元へも足を運んだ。
袋地の土地の価格というものは相場がない。
こちらから価格を提示するか、
相手が提示してきてそれに納得できるかで決まる。
私の気持ちとしては、ただで譲ってもいいくらい。
値段は、言えないくらいの安値。
しかし、条件が悪い袋地なので、それは想定内。
その他、事務手続きや手ごわい隣人対策・・・
こちらにとってはなかなかメリットのある契約だった。
急転直下!
こんな奇跡が起こるなんて思ってもみなかった。
信じられない!
今でも夢ではないかと思ったりする年の瀬である。
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☆アイ ラブ ママ☆
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詳細
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2018年8月29日(水)・・・
母の力は尽きた。
午前10時13分、病院からの電話を受けた。
仕事を整理して、病院に着いたのが11時25分。
すぐに主治医とともに病室へ・・・
<11時29分、死亡確認>
「10時20分頃から、心配停止状態になりました。」とのことだった。
看護師の方々は、皆、礼儀正しく、親切な対応だった。
最期の居場所を求める老人が多い病院らしく、
遺族への配慮のある行動、
そしてすべてがスピーディーでもあった。
今朝、「○○さ〜ん!おはようございます。」と呼びかけると、
うなづいていたそうだ。
「お母さんは、心臓が強かったですねぇ。」
「がんばりました。」
看護師によるエンゼルケアが済み、
母の病室に戻った私は、葬儀社が来るまでの間、
母と小1時間を過ごした。
この日の前日、酸素吸入のマスクをしていたせいか、
痩せた頬がそこまで目立たなかった。
しかし、お化粧が施されたその死に顔は、
まつ毛の長い<ガイコツ>そのものだった。
そんなことを言っては、母には悪いのだが・・・
それはそうだ。約2ヶ月間、
口からも点滴からも栄養を摂っていないわけだから。
母の顔を眺めながら、
父に気を使い、家族のために家事に従事し、
昭和の普通の専業主婦だった母を
「趣味もなくて、面白いのかな?」
「本当に幸せなんだろうか?」と思っていた私だが、
その考えは、間違いだということに気づくのに、
そう時間はかからなかった。
生きている人たちは、
生活できていることを普通のことだと思っている。
しかし、その普通なことは、なかなか大変なことである。
多くの人はそんなことをあらためて考えたことはない。
この2ヶ月、母が餓死状態になる最期の時まで付き合った。
人間って、あっけなく亡くなる場合もあるが、
力の限り生きると、結構、強い。
生命力ってすごいのである。
息苦しいこともあったであろう。
心細くなったこともあったであろう。
口幅ったい言い方をすれば、
人間の命の尊さを母は身を持って私に教えてくれた。
まさに生き様を見せつけたのだ。
くだらない人生なんてないんだ。
<生きる>ことそれ自体が、価値があり、大変なことなのだ。
身支度を整えて、葬儀社の車に乗せられた母・・・
医師・看護師・ソーシャルワーカーの方々と私で、
その車を見送った。
それまで、心の端っこに追いやっていた寂しさが、
その時は、さすがに頭をもたげてきた。
涙が少しだけこぼれた・・・
母、91歳。老衰。
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救急車で運ばれて、1ヶ月と1週間入院していた病院から、
療養型の病院に転院した母。
新しい病院のソーシャルワーカーの面談を受け、
その翌日にすぐ転院を決めた。
ちょうど受け入れ体制もできているとのことだったので、即決。
それに救急で入った病院は、もはや母の居場所ではないと思ったのも、
私が転院をすぐに決めた理由でもあった。
母は、低レベルな全身状態でありながらも
安定していた。
転院先は、ざっと見たところ、
母と同じような容態の老人ばかりで、
ベッドは埋まっているようだった。
この1ヶ月、
水分と塩分だけの点滴で、
母は命尽きるまで生きていく・・・
そんな時間だった。
転院先の医師によれば、
「人によるので、統計でしか言えませんが・・・」
やはり、命は1ヶ月、2ヶ月だという結論。
「お母様は、これから眠っていることが多くなると思います。」
医師の言葉は素人でも容易に想像がつくものだった。
以前にも書いたかもしれないが、
客観的には、「天寿を全うできた。」ということになるのであろう。
しかし、助ける方法もなく、一つの命を見殺しにしているような、
なんとも心に引っかかりのある状態で過ごしたこの1ヶ月は、
このような立場を経験した者でなければ理解できないものかもしれない。
それは悲しいという気持ちとも違う。
モヤモヤした気持ちであり、言葉では言い表せないようなものである。
さらに、私の中の怠け癖が頭をもたげたようで、
できれば何もしたくない・・・
気づけば、ため息ばかりを付く自分がいる。
朽ちていく・・・残酷な言い方なのかもしれない。
人間が、ゆっくりと朽ちていく姿を逃げずに見守ることは、
母が一人の人間の一生の終わり方を身をもって、
私に教えているのかもしれない。
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7月中旬、医師から2つに1つの選択を迫られた。
「胃ろう」か「水分と塩分の点滴」・・・
どちらにしても残りあとわずかとなった母の命。
それでもほんの少しでも・・・
私は「胃ろう」を選んだ。
しかし、7月下旬、母の状態は変わった。
誤えん性肺炎がまた母の体を襲い、
選択肢は最期のひとつとなった。
本当なら、最後の望みをかけて7月30日に
「胃ろう」造設のはずだったが、
2回目の誤えん性肺炎で体力が低下した母には、
もはやその選択肢はなくなった。
今回の母も、かなり苦しそうだった。
完全看護の病院でありながら、
「付き添いのベッド、ご用意しましょうか?」と・・・
ナースステーションの前の病室で、
血圧や脈、酸素量を測る器具が廊下向きに置かれていた。
私をはじめ、家族は皆、その時が近いと覚悟した。
その後4〜5日はそんな状態だった母だが、
ある日、病院を訪れた時には、
容態は落ち着き、
こちらから話しかけることにうなづく・・・
ベッドの柵を持ち、起き上がろうとするまでになっていた。
現在では、もうろうとした意識状態ではあるが、
酸素の吸入はなく、自力の呼吸で生きている母。
医療的には、特に施すこともなく、
病状が悪くなれば、その苦しみを段階に合わせて、緩和することしかない。
弱りながらの小康状態。
次の居場所はどこになるのか?
母は広島の被爆者である。
最近、時節柄テレビドラマなどで、広島弁を聞く機会が増えた。
気づけば、そんな広島弁が聞ける番組を選んで観ているようにも思う。
結婚するまで広島から離れたことがない母。
どんな青春時代だったのだろうか?
もっと詳しく聞いておけばよかった・・・
もうろうとした意識の中で母は今、
何を想っているのだろうか?
夢を見るのであろうか?
タイムリミットは刻々と近づいている。
家族は私に「そんなこと言うもんじゃない。」と言う。
しかし、私はその最期を冷静に受け止めようと覚悟を決めている。
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2018年7月19日(木)
母の病状について医師から説明を受けた。
難しい選択を私に迫るものだった。
肺炎はほぼ回復し、呼吸も酸素マスクなしとなっている母。
ただ大きな問題は、食事を拒絶または、ほんの少しだけしか口にしないこと・・・
生命を維持するための食事・・・
人間の本能である食事ができないのは生命維持のために致命的なことである。
そこで、医師から私に示されたことは、
①水分と塩分だけの点滴
②鼻から管を入れての栄養補給
③大きな血管に管を入れての栄養補給
④胃ろう
母は高齢で認知症(介護度2)を患っているため、
②と③は、リスクが大きい。
選択肢は2つに1つとなった。
水分・塩分だけの点滴だと余命1ヶ月と告げられた。
人生の幕引きを私がすることになるのだ。
胃ろうは、生命の維持はもちろん、
人によってはデイサービスにも行ける場合もある。
母の場合、胃ろうでデイサービスに行けるようになれるとは思わないが、
せめて、話くらいできるようになってもらいたい。
しかし、食欲のなくなった老婆に対して、
無理に栄養補給することはやはり延命処置ということになるであろう。
海外では、胃ろうは「老人虐待」と言われているらしい。
しかし、3週間前までチーズトーストを食べ、
私が作ったチャーハンと野菜スープを「美味しいね。」と言って食べていた母。
その母が余命1ヶ月なんて、私は到底受け入れられなかった。
年相応の衰えはあるものの、死を覚悟する決定的な病気はない。
老衰・寿命・・・
母の死に対して、私がこんな選択をする日が来るなんて。
もちろん漠然とは、考えていた。まさにその時が今なのだ。
結局、私は胃ろうを選んだ。
今を逃すと胃ろうも出来なくなるということだった。
せめてガイコツのようになった母の頬が、
少し、ほんの少しでもふっくらするまで、元気になってもらいたい。
最後の娘のわがままかもしれない。
「早くおじいちゃんの所へ行きたいよぉ〜!」と言いながらも
「誰でもそれは本心じゃないからね。」と付け加えていた母。
母の命が風前の灯に近づいてきた現在、私は何をしていても、
決めたはずの現実のことを「本当に正しかったのか?」と、
自問自答している。
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