Minesanの無責任放言

右を向いても左を向いても真っ暗闇じゃござんせんか?!

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『愛国心』

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例によって図書館から借りてきた本で「愛国心」というのを読んだ。
田原総一郎、西部進、尚姜中の3人による鼎談という形の本で、これは分厚な割には読みやすかった。
このメンバーはいわずと知れた「朝まで生テレビ」の常連で、いわゆる仲間内の忌憚のない会話という形であるが、私から言わしめれば、こういう日本の知識人と言われる人々が何をいまさら愛国心かと言う感が強い。
これは昨今の傾向として小泉首相の靖国神社参詣に対して、中国や韓国からそれに対する批判が高まり、その批判に呼応して、日本人の内部からも先方に迎合する風潮が顕著になって来たので、その反動としてこういう話題が浮上してきたものと考える。
しかし、その奥底にはメデイァの側の儲け主義を垣間見ることが出来る。
要するに、話題を沸騰させて、その話題で日本中が興奮の渦に巻き込まれたとすれば、それはメデイアにとって大きなビジネス・チャンスになると言うことである。
ことの本質などどうでも良く、ただただ「儲かればいい!」という功利主義に踊らされているに過ぎないと思う。
この本などもまさに好奇心を満たすと言うよりも、こういう企画で本を作れば売れるに違いないという魂胆がみえみえである。
「愛国心」などと取り立てて括弧で括って問題提起するから右からも左からも口角泡を飛ばして議論になるわけで、愛国心など言うものは空気や水と同じで、人間は生まれ時点で、祖国の恩恵の中で生かされており、その恩恵に恩返しすると考えれば、取り立てて大騒ぎすべきものではないはずである。
ところが、この世に生れ落ちた人間、特に戦後生まれで、日教組の教育を受けた人間は、知恵がつくに従い不遜になって、自分は周囲の環境に支配されることなく自分自身の力この世に生きているのだと思い上がるから、ことさら愛国心と言うものを強調せざるを得なくなるのである。
その対極には、やはり自分の力で生きているのだ、という思い上がりがあるがゆえに、愛国心を軍国主義に結び付けて憚らない人間も出てくるわけである。
愛国心というと、我々の年かさのものは直ぐ戦時中の特攻隊員や滅私奉公という意味での勤労奉仕ということが脳裏を掠めるが、あの時代は確かに上からの強制の部分があったとは思う。
が、戦後の進歩的知識人の大部分は、その責任を軍部とか軍国主義というものに転嫁して口を拭っている。
私に言わしめれば、それを上から強制したのは我々の同胞の中間層、我々同胞のトップではないが上層の一部の人間、つまり学校の先生であったり、官吏であったり、メデイァであったり、町内会の役員という立場の人々であったと思う。
戦後の知識人は、あの戦中に我々の同胞が玉砕するとき、「天皇陛下万歳!」と叫んで死んでいったことから、それを天皇や軍部による強制だとしているが、これは少々安直な思考だと思う。
そう言って散華していった本当の理由は、周囲に同胞がいたからそういう行為になったわけで、これがルース・ベネジェクト女史の言うところの「恥の文化」だと思う。
戦中の特攻隊員、玉砕した同胞の大部分は、天皇陛下のために死んだわけではないと思う。
やはり、祖国の親兄弟、銃後を守っている母親、兄弟姉妹、友達、近所の人々に幸あれと思って、滅私奉公の一助として散華していったものと考える。
これが愛国心だと思う。
これが公に殉ずるということだと思う。
決して天皇のために死んだのではないと思う。
本人もそんなつもりではなかった筈だが、生き残った周囲や親族・肉親は、そう思い込むことで自分自身を納得させていたのではないかと思う。
しかし、こういう状況というのは何も我々日本人だけにあるのではなく、地球上のあらゆる場所であらゆる民族に可能性としてはあるわけで、誰でもこういう状況に置かれれば、死への咆哮、死の恐怖に打ち勝とうとする絶叫、自分の運命に対する恨みの叫びというのはあると思う。
我々の場合は、たまたま「天皇陛下万歳!」という叫びであったが、その後に及んでなおそう言わなければならなかった真の理由を我々生き残ったものが究明しなければならなかった。
戦後生き残った日本の知識人でそれをしたものがいただろうか。
旧敵国の女性がした以上のことを、日本の知識人の中でしたものがいただろうか。
特攻隊員や玉砕した同胞が、何故死に直面して「天皇陛下万歳!」と叫んだのか、叫ばされたのか、日本の知識人でそこを究明しようとした人がいたであろうか。
表層面だけ捉えて、我が同胞の真摯な愛国心、郷土愛、同胞愛を軍部や天皇の所為に転嫁して、新しい占領政策に媚び、率先して迎合したではないか。
田原総一郎は自分で言っているが、幼少のときは軍国少年で、成人に達したら戦後の日本の政府には疑問を持ち反政府、反体制、左翼に肩入れして、ソ連が崩壊したら中道に戻るなどということは、常に時流に迎合し、時代の波の乗っかっているだけで、まさしく世渡り上手、究極の風見鶏、日和見ではないのか。
西部進でも似たり寄ったりであるが、田原よりもその振幅の幅が大きいと言うだけの違いである。
人が生きんとすれば、これはこれで致し方ないが、戦前の日本社会もこれと同じであったわけだ。
田原総一郎や西部進が時流に上手に乗り、その時流を上手に泳いでいるのと同じように、国民全部が団塊として田原や西部と同じように時流に乗ろうとし、泳ごうとしていたが、その発想が「隣がやるから俺もやる」式の他人任せというか付和雷同的というか、主体性に欠けていたわけである。
戦後の日本では、そういう我々の精神の根本・本質を解き明かそうとした知識人がいなかったが、アメリカのルース・ベネジェクト女史はそれをして「菊と刀」を著したわけである。

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中国の情報操作

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(写真は大紀元時報より)
今、中国ではインターネットの検索サイトに中国の官憲が関与して、情報操作をしているらしい。
中国に進出しているヤフーやゴーグルその他2社のアメリカのIT企業が、中国側の圧力に屈して中国当局の都合の悪い情報はカットしているらしい。
又、個人情報の提供を迫られて、その圧力に屈して情報を漏らしたために、あらぬ嫌疑を掛けられた人が大勢いるらしいが、アメリカのIT企業のほうも、中国の圧力には企業サイドとしては既に限界に来ていると弱音を吐いている。
無理もない話しで、中国では民間企業と国営企業の相違という概念がないわけだから、いわばその時その場でどういう風にも対処の仕方が変わってくるわけで、それが中国人の潜在的な生き方なわけである。
いわゆる西洋文化圏で言うところの企業倫理とか、近代的な契約の概念とか、知的所有権とか、人権というものが存在していないのだから、そこではこういう軋轢も当然起こるべくしておきているわけである。
これは非常に由々しき問題だと思う。
昔のように人と物の流通が、船で行われているときならば、文化の伝播もそれなりに時間的なラグ・タイムがあったが、今日のように航空機による大量の人間と物の移動が可能になると、そんな悠長なことは言っておれないのではないかと思う。
アメリカに代表される近代国家と、今のイラク、イラン、ないしはアフリカの国々、そして中国、アラブ諸国というのは価値観が全く根底から合わないと思う。
人の命というのはアメリカや日本では金に代えられないものであるが、こういう国々では、人の命といったところで犬や猫の命と大して変わらないと思う。
この様に価値観の違うものが、「あいつが持っているから俺も同じものが持ちたい」という欲求を満たすとなると、我々の側としてはまことに厄介なことになる。
このニュースがテレビで放映されたとき、中国の当局側の発言も同時に放映されたが、その時の言い分は、「中国で商売する以上、中国のやり方でやってもらうのが当然だ」というものであった。
一見尤もなことであるが、そこには華夷秩序がモロに露呈しており、「情報を国家が勝手に捜査してはならない」という価値観が抜け落ちており、近代化、民主化の理念は微塵もなく、自分からグローバル・スタンダードに合わせなければという謙虚な態度もなく、そういう価値観の相違に先方は全く気がついていないのである。
これは有史以来の中国人の生き様であったわけで、21世紀になろうとも中国人の考え方は一切変わるものではないということを表していると思う。
いみじくも人間の知的レベルの相違を見事に見せ付けた事例なわけで、一言で表現すれば文明人と野蛮人という構図になる。
野蛮人もインターネットという文明の利器を文明人とおなじように使っているつもりであるが、根が野蛮人なものだから、国家が情報操作してはいけない、という文明人の倫理が通用していないということである。
こういう露骨な言辞を現代の文化人は極めて使わないようにしているが、それは良い子ぶっているだけのことで、こういう奇麗事で物事の真実を覆い隠してしまうので、世に悪事がのさばるのである。

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「戦争とテレビ」

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例によって図書館から借りてきた本で「戦争とテレビ」という本を読んだ。
ハードカバーの本で、内容も実に堅い本で読み通すのに根気と忍耐力を要した。
学者の書いた本で、あまりにも細部まで掘り起こし、吟味し、資料に基づき、克明に記されているので、それを目で追うだけでも相当に根気がいった。
苦労して全編読み通しても、大きな感動を得るというものではなかった。
というのも、テレビとかマス・メデイァに対する悪口雑言というのは私は既に何度も行っているので、いまさらこの本を読んで開眼するというものでもない。
日ごろ私が考えていたことに学問的裏づけを備えたという程度のもので、ただ文字とおりメデイァ論の専門家であるだけに、事例がふんだんに織り込まれており、その点が素人の作文とは大いに違っている。
この著者はアメリカの朝鮮問題の専門家ということで、後半においてイギリスの放送局と一緒に北朝鮮を取材するくだりの苦労話はそれなりに興味を引くものであった。

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バレンタイン・デー

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今日はバレンタイン・デーだ。
インターネットのニュースによると女性の70%ぐらいがこの日のチョコレートなどわずらわしいと感じているというようなことが記されていた。
私などは大人の遊びだと思って、そうたいして気にもしていなかったが、もらうと後で又お返しを考えねばならないので、そういう意味でわずらわしく思っていたことは事実である。
ところが今日出勤すると小さなのが一つあった。
100%完全なる義理チョコであるが、くれるというもの突き返すのも大人気ないので、そのまま受け取っておいた。
家に帰ったらPCの前にもう一つ供えてあった。
これも義理チョコと見なすべきか、それとも海老で鯛を釣る魂胆なのかどうか考えあぐねている。

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例によって図書館から借りてきた本で、「ブッシュのアメリカ」という本を読んだ。
つい最近まで本屋の店頭に平積みされていたように記憶するが、読んでいてどうも私と波長が合わないなあと思ったら、やはり例によってアカイアカイ朝日の記者の書いた本であった。
政治を批判するということは実に安易なことだ。
私のようなアホでも政治に関する批判ならば比較的安易に文章が書ける。
昔から床屋談義とも言われているように、為政者の批判ならば誰でも何処でも安易に言える。
為政者を批判することは実にたやすいことだが、為政者の提灯持ちというのは、これで案外難しいのではなかろうか。
日本の場合は、明らかにこういう傾向は先の戦争で敗北した結果だと思う。
敗戦の前までは為政者に迎合することが安易な生き方であったが、戦後はそれが逆転して、批判するほうが安易な生き方となった。
メデイアと言うのは何時もいつも安易な生き方を選択している。
ブッシュや小泉さんの提灯持ちというのは政権政党員でもない限り白々しくて様にならないのではないかと思う。
無批判に追従すれば、戦前戦中の大政翼賛会になってしまうし、為政者の言うこと行うことに全面的に賛成という気持ちを、提灯持ちではない風に装いながら、整合性のある論理で表現するということは非常に難しいのではないかと思う。
昨年の小泉首相の郵政解散の結果としての自民党の勝利というのも、そういうことのようだ。
為政者というのは結果がすべてだと思う。
ブッシュ大統領が選出されたとき、彼の能力が疑われてアメリカでは非常に不人気であったが、一旦、9・11事件がおきるとアメリカ国民はその評判の芳しくない大統領の下に結束してしまった。
そして日がたつにつれて又だんだんと批判の声が高まってきて、元の木阿弥に戻りつつあるというのが今の状況だと思う。
ただ私が思うに、こういう事態に際して、それに評論を加えようとする特定の日本人が、インテリという自負の元、独善に陥っているように思えてならない。
その独善の特にはなはだしいのが、アカイアカイ朝日新聞の傘下の集団だと思う。
特に、彼らの集団は愛国心という言葉を生理的に嫌悪しているようで、それが組織全体に普遍的に広がっているので、朝日新聞傘下の論調は何処をどういう風に切っても、それが金太郎飴のように出てくる。
主権国家の国民ならば、この地球上の如何なる国家の国民も、祖国に対する愛国心というのはあるのが当然であるが、彼らにはそれが気に入らないようだ。
地球上の生きる人間は、人間の形をしている限り、皆が友達で、仲良くしなければ、というのは基本的な真理ではあるが、人間に欲望というものがないならばそれも可能であろう。
が、生きた人間には愛情というものがあり、その愛情の優先順位は自分に近いものほど高く、その次には自分の祖国ということになり、その次の次ぐらいに世界の人々という風に、同心円状に広がっていくのが普通ではないかと思う。
こういう朝日新聞の記者のような人達は、日本ならば小泉首相、アメリカならばブッシュ大統領が、それぞれに自分の祖国のために最善だと思うことを実施すると、それは「全世界にとってははなはだ迷惑なこと」だから反対だ、というスタンスを取る。
自分の祖国と祖国以外の小宇宙を秤に掛けて、為政者は祖国の国益を最優先に物事を考えるが、知識人と言うのはその逆で、これは独善による独りよがりな奇麗事であり、同時に無責任なことだと思う。
自分は狼少年として世間に嘘ばかりを言いふらしておいて、その責任をとる気が全くないにもかかわらず、自分たちの為政者が、祖国の国益を最優先にことを進めると、それは「世のため人のためにならないからやめておけ」というわけである。
洋の東西を問わず、為政者が国民の声をまともに聞いていたら、政治というものは一歩も前に進まないと思う。
為政者の行おうとすることにもプラス・マイナスがあることは当然で、政策を推し進めることによってマイナスの面よりも、プラスの面が大きいと判断すれば、為政者としては敢然と行うべきであると私は考える。
ところが世の評論家というのは、このマイナス面ばかりを探し出して、世論を煽り立てる傾向がある。
プラス面には頬被りしておいて、マイナスの部分を探し出し、探り出し、その部分が失政だと世論を煽り立てるのである。
ブッシュの政策の非を説くことは安易なことで、誰でも何処でも安直に出来る。
しかし、9・11事件の黒幕としてのオサマ・ビン・ラデイアン、ないしはイラク戦争前のイラクのサダム・フセイン大統領に誰がどう説得できたのであろう。
オサマ・ビン・ラデイアンに「部下にテロを止めさせるよう」に頼み、サダム・フセイン大統領に大量破壊兵器の公開を迫るように説得する道を先方が閉ざした以上、残されたのはマス・メデイアによる説得だと思うが、彼らがそれに応じたであろうか。
ブッシュ大統領を批判し、こき下ろし、叩くことはマスコミとしてはもっとも安易でかつ安直なことであるが、オサマ・ビン・ラデイアンや、サダム・フセイン大統領を説得するのは一体誰の仕事なのであろう。
日本の進歩的な知識人、特に朝日新聞に代表されるような知識人は、武力の行使を嫌うあまり、二言目には話し合いということを強調するが、こういう人達とは誰がどういう風に話し合うのか。
テーブルを用意すれば、先方はそのテーブルについてくれたであろうか。
それは歴史が示しているではないか。
彼らが話し合いに応じたであろうか。
こういう相手を説得することこそメデイアの使命ではないのか。
他人の言うことを聞こうともしない相手には誰がどう説得したらいいのであろう。
この本はそれに答えを出しているわけではない。あくまで傍観者としての感想に過ぎない。

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