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「イメージ。イメージすることが大事です」ってよく聞くけど、ホントかも?

家族の肖像

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明日 旦那さんの誕生日なんですよ

かねてより一泊旅行程度の旅行用の革カバンがほしいと言っていたので
これで行こう!と思っておりました。

しかし革カバンってカッコイイけど・・・旅行用には重くないの?
私なんか、旅行するたびに「鞄はレスポに限るわ〜」って思うけどなぁ
丈夫で軽いナイロン!!これが旅先の移動ではいちばんよ!
しかし ナイロンのくせに高い・・・黒ナイロンのプラダ、大昔に流行ってましたが、
お姉さんたちが持っているのを見るたびに
ナイロンのくせになんだあの値段は?!と、思ったものです。

それはそうと昨日の晩、食事の後、
お皿洗いをしてくれている旦那さんに
「ほしいって言ってた旅行カバンはどんな色がいいの〜?クロ??茶色〜???
お誕生日だから一緒に買いに行かない?」
とダイレクトに言ってみたら
「そんな、プレゼントなんか要らないよ。5月の結婚記念日にもらったし」
とおっしゃる。

私は内心
「え〜言ってくれた方が助かるのになぁ・・・だって私は誕生日に欲しいものがあるしw
自分だけおねだりするのも・・・ねぇwww(本音炸裂)
サプライズで用意するのは選ぶのにひとりで悩まなきゃいけないから面倒っちぃなぁ・・・
それにもう時間がないしなぁ・・・ブツブツ」


まてよ・・・・


旦那さんが雨の日用に履いていく↑コレ
これがもうつぶれかかっていて、雨漏りするとか言ってたな・・・


コレだ!!!
靴だよ、靴!!!!

と言うことを思い出したのは今日の16時過ぎwww
わぁ〜〜〜〜!!!!ギリギリwww

とりあえずアマゾンの当日配達(プライム便)で乗り切る所存です!!!

候補は彼愛用のSPINGLE MOVEか、PATRICKのスニーカーです!!!!

今日も明日も帰りが旦那さん遅い!!!イケる!!!・・・・たぶんw

私の転機

私の大きな転機のきっかけになったものは

尊敬する上司の
「裁判官になっていなかったら、私はガウディのような建築家になりたかった」
という言葉だったと思います。



上司は、地方裁判所の長官を経て、
定年退官後に弁護士になった人でした。

私は28歳の誕生日を過ぎた頃、30歳を目前にしてなんとなく悩んでいました。

「このままでいいのかな、私」

当時、弁護士たちの下で補佐的業務を行っており、
職場環境も給与面においても私は恵まれていたと思います。
だけど、
「これでいいのか?」
という思いがいつも胸の中に在りました。

それは
現在の自分の在り方の否定ではなく、限られた時間の中で、
「今もっと、自分がすべきことがあるのではないか?」
との疑問でした。

そんな中ある日
上司に食事に誘っていただいた席で
「裁判官にならなかったら、ガウディのような建築家になりたかった」
との言葉を聴いたのです。

私はたまたま、その話を聴く数日前に、
バラガンやガウディといった建築家に関するドキュメントを観て、
スペインにおける
サグラダファミリアを始めとするガウディの建築の壮大さ、
さらに彼の建築構想のスケールの大きさに感動したのでした。

だから、
上司がなぜガウディに憧れたのかが手に取るようによく解かったし、
私は自分にもっと理想を持つこと、自分がどうなりたいのか、
どうしたいのか、何を叶えたいのか

「それらを『今』考えなければならない」と思ったのです。


なぜ『今』なのか

それは夢に向かって走れる時間には、
どうしてもタイムリミットがある、と考えたからです。

なぜなら私は、
こどもやだんなさんといった家族、そんな家族を支える人生もまた、
それもステキだと考えていたし、
子どもの成長を見守れる「母親」、旦那さんと二人三脚の「奥さん」
にもなりたいと思っていたからです。

要は、欲張りなのかもしれませんが、
恋愛も仕事も、結婚も家庭もあれもこれもと
全部いっぺんに叶えたいとはさすがに思わないし、
それは無理なので、

ひとつずつ段階を踏みながら、
「後悔のないように」と思いながら、ここまで歩いてきたように思います。


結婚しない・子どもを欲しくないと決めているならともかく
女性はどうしたって、結婚後の出産で、
一度、仕事に踏ん切りをつけなければならない。

そう思ったら、

私にはもうそれほど時間はなく、

私は自分の足で動いて、自分で立案し、提案する仕事がしたい。
「なにかを生み出す仕事がしたい」
と考えるようになっていました。

ある意味本物の「自立心」が芽生えた時だったのかもしれません。

そして
多くの心ある人たちの助けを借り、また不思議な縁に導かれるように、
現在の事務所へ就職が決まりました。

建築の知識も経験もゼロの私に、設計の道が開けるなんて周囲の人も
とても驚いていました。

「絶対、希望通りの進路を決める」
その一念、それだけで、すべてを塗り替えてしまったような。
あの時の転職にかける情熱は
我ながら、すごいエネルギーだったと思います。



さて現在は
「ガウディのような建築家」とは・・・

程遠いけれど(笑)

多くの人と関わりながら『無』から『有』を生み、
形になることで苦しみから脱して、その喜びを仲間と分かち合う。


そのような中で、
私が転職後の仕事に望んだこと

「創造する喜びを知ること」と、「人に喜んでもらえる仕事をすること」

を実感することが出来ています。


それに理系の面白さも実感しています。

色々な企業さんの技術を知り、現場を見る中で
「理系は社会に直結した分野なんだなぁ」
とつくづく感じます。
今までの「不可能」を「可能」に塗り替える技術が生まれてくる。
それが理系の現場。
あちこち見渡し、知れば知るほど興味深い話ばかりです。



私が憧れた上司についてですが

180cmぐらいあるガッシリとした体格のメガネをかけた先生で、
ダブルのスーツに、ポケットチーフを品良く胸に挿してらして、
いつも堂々としたたたずまいで、
お会いするこちらの背筋が気持ちよく伸びるような方でした。

イメージするのは児玉清さんでしょうか。

仕事中はいつも
「○○さん、お忙しいところ、ちょっとよろしいですか?」
と、誰に対しても優しく丁寧に話しかけられる先生でした。

物腰柔らかく本当に紳士で、憧れの上司であり、
おこがましい話ですが
心の中では、父のように慕っていました。もう大好きで、大好きで。

よく事務局のみんなを食事に誘って下さったのですが、
本当に嬉しくて、お話できるのがいつもとても楽しみで。

事務所のみんなにとっても、あたたかくてやさしい、
みんなを照らす太陽のような人でした。

そんな先生が亡くなったのは、昨年の11月末近く、
それは折りしも
先生のお誕生日の朝でした。


この進路変更の話をするとき、先生の言葉が思い出されます。

「裁判官にならなかったら、ガウディのような建築家になりたかった」

今も鮮やかに、いつも私の心にいる先生です。
先生と一緒にお仕事を出来た時間が、
私にとってはかけがえのない時間ですし、誇りでもあります。

つらいときでも、先生のことを思うと、
どんな時も
「負けずに頑張ろう」と思えるそんな存在です。


今年のお盆は、私は福岡の実家に帰らず愛知にいます。
先生の初盆なので、手を合わせに行こうと思っています。

先生の奥様とも、久しぶりにお話をしたいし、
やっぱり、いまも父のような先生が恋しくて、会いたいので。

実家の福岡には9月の連休に帰ろうと思っています。





これはある人へ書いた手紙の内容をここへ転記しました。

私が、法律事務所から設計事務所へ転職したことを話すと
「なぜ?」「きっかけは?」
とみなさんに必ず聞かれるので、
自分の中でも整理をしておきたいと以前から思っていたこともあり
今回文章になりました。
私の母方の曾祖母が亡くなる時、
いつも近くで生活している誰の名前でもなく、
私の名前を、うわごとのように呼んで息を引き取った。

日頃、寝たきりで言葉も思うようにならなくなっていた曾祖母の
面倒を見ていた本家の叔母が、驚いてそう言っていた。
それはまだ私が小学生に上がる前の話。

私の実家は本家からは遠く、お正月とお盆くらいにしか帰ってはいなかった。
曾祖母と、何か思い当たるような記憶・・・解らなかった。

なぜ私なのか・・・

それが私が幼い頃から、けして頭を離れない、そして、けして解けないミステリー。

どうしてなの?大おばあちゃま?小さな私は何度も何度も考えた。
だけど、いつまでたっても私には解らなかった。


だけどある日。


キレイな月がポッカリと浮かぶのを助手席から眺めながら、
ハンドルを握る所長と何となくこの話をしていた。
仕事の打合せの帰りだった。

ひっそりとした夕暮れ時で、
まだ7時過ぎだというのに、名古屋から郊外へ向かう高速道路は静かに流れていた。

そんなある時、母の実家の話、大おばあさんの話、おじいさんの話、母の話・・・
すっかり暗くなった空に浮かぶ月を東に見ながら、
私の中に「ストン・・・」と落ちてくるものがあった。

「あぁ・・・あの頃の・・・生まれた頃の私は、おじいさんに似ていて、
 その私を抱いてくれていたのは、大おばあさんだったに違いない。」

私を出産した直後の母は
産後の経過が悪く母の実家で随分と臥せっていて、
私の面倒を見ることも出来なかったと聞いている。




私は祖父を知らない。
正確には血のつながった祖父というのか・・・

父方の祖父も、母方の祖父も、もう亡くなっていない。
母方の祖父、「時夫さん」は戦争でなくなった。
戦地はパプアニューギニア。
祖父の死を知らせる電報。
そして帰ってきた骨壷。
骨壷の中には遠い国の緑の葉っぱが一枚、入っていただけだったそうだ。

その後当時の世襲制を受けて、うちの祖母と一緒になったのが
時夫さんの兄弟の末っ子。
そうやって家系を繋いで行ったのだ昔は。

うちの母は、時夫さんが戦地に赴いている時、まだ祖母のお腹の中にいた。
父は時夫さん。
だけど父の顔も面影もあたたかさも知らないと母は言う。

そんなおじいさんのことを思い出したのは、
実家に帰ったお正月。
去年出てきたという時夫さんの写真が仏壇にあったから。

自分の父の顔も、面影も、あたたかさも知らないという母。
だけれども、
女系家族の母の姉妹の誰よりも、
おじいさんは母にハッキリと似ていた。
まるで生き写しのように。

うちの母の実家は、当時の「村」の寄り合い場所になる様な家で、
母屋と離れの屋敷の前には40〜50人程集まれそうな広場がある。

コレは最近聞いたことだが、
この屋敷の前の広場で、戦前から「神楽舞」をやっていたんだとか。
いわゆる神社の神殿でやるものではなく「里神楽」というヤツ。

母の実家で行われていたのは『壱岐神楽』。
1987年1月8日に重要無形民俗文化財に指定されたものだった。
残念ながら、今は・・・というか時夫さんが居なくなった戦争を機に
母の実家では行われなくなってしまったが、
他の村にはまだ残っているそうだ。

これまた今年の正月に始めて知って驚いたことだ。

当時その家の家長だった時夫さん。
頭がよく学校の成績も優秀で村のヒトの信頼も厚かった。
だけどかなり厳しいヒトだったみたい。
文机の上の書籍が少し動いても、キツク怒るヒトだったそうだから(笑)。


大おばあちゃまは、戦地でなくなった息子の時夫さんの面影を、
幼子だった私にみていたにちがいない。

だって、
私、生まれてくる時こそ、
逆子で、未熟児で、帝王切開でこの世に出て来たけど、
出て来たあとは・・・ミルクでブクブクに肥って、
生後数ヵ月後には玉のような男の子・・・のようだったから(笑)。

そんなひ孫の私を抱きながら、大おばあちゃまは笑ってたのね。
「まるで、時夫にそっくりだ」って。


私は、私の記憶が及ばない 
あるいは、
私が知らないどこかでも、
誰かが私を愛してくれていたから、
ここまで来れたんだと、実感するこのごろ。


しぬまえにおじいさんのいったこと  — 谷川 俊太郎 —

わたしは かじりかけのりんごをのこして
しんでゆく
いいのこすことは なにもない
よいことは つづくだろうし
わるいことは なくならぬだろうから
わたしには くちずさむうたがあったから
さびかかった かなづちもあったから
いうことなしだ

わたしの いちばんすきなひとに
つたえておくれ
わたしは むかしあなたをすきになって
いまも すきだと
あのよで つむことのできる
いちばんきれいな はなを
あなたに ささげると
父は絵描きになりたかった。
だけど
唐津の先の海に浮かぶ、小さな島「神集島」で育った父に、
当時の時代や、父の家の事情がそれを許さなかった。


父が絵描きになりたいと思うきっかけをくれた人。
それは
中学校の頃の美術の先生。
父13歳頃、先生が24,5歳の頃の出会いだったらしい。
先生が父に
「絵描きになりなさい」っと言ってくれたのだそう。

今でも父は、絵描きになりたかった頃の話を、私に楽しそうに話す。
そして時々
「あの時、絵描きになっていたら・・・」
なんて
遠くを見て自嘲気味に笑うことも。
絵描きを諦めた後も、何の縁があったのか
島のお寺に、父が描いた絵をおさめたこともあったらしい。

そんな幼い日の、ほのかな希望を抱いていた日々から幾星霜。
父は好きなものが転じて、
美術品・古美術品を扱うようになっていた。

実家には父が買い付けた柱時計が
確かまだ、
壁にいくつか下がっている。

私が小さな頃には
「チク・タク・・チク・タク・・」
と小気味いいリズムを取っていた。
当時共働きで、誰もいない家に帰ってきた私の耳に入るのは、
夕焼け色した この柱時計の少しさびしい音だった。



驚いたことに父は、
その美術の先生と中学生以来、数十年もの間
ずっと、ずっと年賀状のやり取りを続けていた。

それを知ったのは今年のお正月。
実家にて、年賀状書きを両親としていたとき。

何十年も、何十年も幼い日のあの頃を忘れずに、
誰かと父は繋がっていたのだ。

寡黙であまりおしゃべりが得意じゃない
だけど、
だれよりも情に厚く優しい父が、私はまた大好きになった。
そして
とても、とても嬉しくなった。

今年の先生への年賀状には、
私と母も加わって、先生への寄せ書きのような年賀状になった。

「娘の○○です。
 先生と父が何十年もこうやって、お年賀のやり取りをしていると知り、
とても嬉しく思いました。どうか御身体専一にお過ごし下さい。」

先生は今、東京の世田谷にお住まいだとか。
身体を悪くした父には、東京はもう、無理かもしれない。
だから、今年、
私が先生に会いに行ってみようと思っている。


イメージ 1

独立美術協会 第75回 独立展 高崎文夫 出品作 アンコール・トムのバイヨン150号

先生からの年賀状には、この絵が印刷されていた。
そして、表書きには、齢を感じさせるけれども
しっかりと、でも優しい先生の手書きの文字で、
うちの住所と父の名前が丁寧に書かれていた。
イメージ 2

ほんとうに有り難いことだと思う。

こんなことより、嬉しいことが何があるだろう?って思う。
私のことじゃないのに、私のことのように嬉しい。
血の繋がりって不思議なもの。

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