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先日、みあは、元ひめゆり学徒隊で、 現在、ひめゆり平和祈念資料館の運営委員・証言委員をなさっている 宮城さんの講演会に行ってきたのです。 「ひめゆり学徒隊」 沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部から動員された 生徒222人と引率教師18名の合計240名の学徒隊。 沖縄戦当時、沖縄には21の男女中等学校があり、 沖縄戦では、これらすべての男女中等学校から学徒が戦場に動員された。 女子学徒は、主に看護活動にあたり、 男子学徒は、上級生が実戦部隊の「鉄血勤皇隊」、下級生が「通信隊」に編成された。 宮城さんは、1945年3月23日、沖縄県立第一高等女学校在学中に 沖縄陸軍病院(南風原陸軍病院)に動員され、看護活動にあたりました。 4月1日、54万人の米軍が沖縄本島に上陸。 5月末、米軍が首里まで迫り、持久戦のため南部に撤退。 6月18日「解散命令」が陸軍病院で言いわたされ、砲弾が飛び交う中、 壕を出て行かなければなりませんでした。 そして、6月21日、喜屋武荒崎海岸で米軍に収容されました。 その後、1984年より、沖縄戦体験の証言活動を続けています。 宮城さんは、優しい眼差しで、そして、一言一言かみしめながら、語ってくださいました。 陸軍病院での食事は、一日おにぎり一個。しかしそれも次第に小さくなっていき、 ピンポン玉の大きさになっていった。 そんな中で不眠不休の看護活動、死体埋葬、水汲み、食料運搬・・・。 「解散命令」が言いわたされ、飛び交う砲弾、ガス弾、青酸カリ、 自分の手榴弾で次々と、先生、学友の命が散っていった。 6月21日、喜屋武荒崎海岸で米軍に銃をつきつけられた時、自分の手榴弾のピンを 引こうとしたが、米軍に取り上げられてしまい、宮城さんは収容された。 近くでは、すでに先生と学友が数名自決していた。 捕虜から解放された後も、夜中に銃声や先生、学友の悲鳴が聞こえる気がして、 眠れない日が続いた。 「私は母親に会えたのに、自分の母親にすら会えずに死んでいった皆に あわせる顔が無かったから」戦後40年近く、ひめゆりの塔や病院壕に訪れることも、 胸の内を語ることも出来なかったそうです。 (宮城さんは、2時間も立ちっぱなしで、たくさんのお話をしてくださいました。 もっともっと、どんな話だったか書きたいんだけど、ごめんなさい。 まだ、みあの頭や心の整理がつかず、言葉にできません。) みあの母も、当時6歳で沖縄戦を体験している。 みあの母がもう少し早く生まれていたら?って思うと、 「ひめゆりの少女」の姿と、みあの母が重なってしまい、 今までひめゆり関係のものは、あまり見れずにいた。 今回の講演は、9月に行われた「リレーフォーライフ」で知り合った方に 一緒に聞きに行こうよって、誘われたのね。はじめは迷ってたんだけど。 これも何かの縁なのかな?って思って、行くことにしたのです。 だって、ひめゆりの方達は80歳前後になってしまっている。 今、聞かなくちゃって思ったんだよ。 講演が終わって休憩になった。 宮城さんのまわりに人だかりができた。 みあも宮城さんと言葉を交わしたい。握手したいって思った。 宮城さんの手は、とっても温かかったみあは「母は当時6歳で、北部に避難していたんです」って話していたら、いつの間にか、涙声になっていた。 ホントは、ぎゅーーって抱きしめたかったんだけど・・・ 別れ際に「お元気で」って言うのが精一杯だった。 家に着いてから、母と話した。 母は、当時6歳だったので、一体何が起きているのか理解できていなかった。 夜中飛び交う砲弾を見て「花火のようで綺麗だった。」と思ったそうだ。 死体があっても、「死」というのがわからない。 母は、当時の事をあまり覚えていない。 「壕での生活は、どうだったの?」と聞いても返事は「全然覚えていない」 記憶が消えている。でもそれは、ある意味いいのかもしれない。 記憶があったら、母も眠れない日々が続いたことだろう。 宮城さんは、はっきりと「あの時」を記憶している。 想像できないくらいの、苦しさだ。 つらい記憶を語ってくれた。 先生が、学友がどのように生きて、どのように散っていったのか、語ってくれた。 ひめゆり平和祈念資料館のHP→ http://www.himeyuri.or.jp/top.html 映画のお知らせです 長編ドキュメンタリー映画「ひめゆり」 13年間にわたって記録した、ひめゆり学徒の生存者22人の証言は、 約100時間に及んだ。 映画の完成を待たずに3人の方が他界した。 ナレーションはなく、22人が時に淡々と、時に絞り出すように体験を語り、 カメラが寄り添う。 生き残った者の真実の叫び。 長編ドキュメンタリー映画「ひめゆり」HP→ http://www.himeyuri.info 12月26日(水)から30日(日)まで、下高井戸シネマで上映されます。 京王線・世田谷線 下高井戸駅(駅から徒歩3分) 東京都世田谷区松原3-27-26 京王下高井戸ビル2F 03−3328−1008 下高井戸シネマHP→ http://www.ne.jp/asahi/kmr/ski/shimotakaido_cinema.html 年末ですし、お忙しいとは思います。 ですが、時間を割いてでも見るべき映画です。 今回見に行けない方は、今後も各地で上映予定ですので、是非、御覧になってください。 避けてはいけないのです。 「あの時」何があったのかを。 22人の真実の叫びを聞いてください。 ひとりでも多くの方に見て欲しい。 お子様がいらっしゃる方は、一緒に見て欲しい。 今は意味がわからなくてもいいのです。だけど、幼くても何かは感じるはずだから。 みあは小学4年生くらいに「広島、長崎の原爆」の映画を見た。 衝撃を受けた。人が溶けてなくなってしまった。頭が混乱した。 白黒の映像がいつまでも頭に残った。 「対馬丸」の映画を見た。漫画「はだしのゲン」を読んだ。 自分と同じ年頃の子がたくさん死んでいった。それがとても悲しかった。 みあは小学生の時に見てよかったって思う。 意味がわからなかった事は、聞いた、調べた。 そして、小学生なりに考えたから。 みあは今回、宮城さんのお話を聞いて、ちゃんと知らなくちゃいけないって思った。 もっと、聞かなくちゃいけないって思った。 「あの時」を、「あの時」にいた方達から、ちゃんと聞かなくちゃいけないって思ったんです。 だから、見に行きます。 最後まで読んでいただき、どうもありがとうございます。 12/30(日)追記 今日、長編ドキュメンタリー映画「ひめゆり」見てきました。 22人の真実の叫びがありました。 あなたの「目」で「耳」で確かめてください。
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母の知ってる昔の沖縄
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6月23日は、沖縄慰霊の日です糸満市の平和祈念公園にて「沖縄全戦没者追悼式」が行われるとともに各地で慰霊祭が行われます。式典中の正午には黙祷が捧げられます。 平和の礎は、沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、 世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられた すべての人々の氏名を刻んだ記念碑です。 沖縄戦で、日本軍第32軍司令官・牛島満中将と同参謀・長勇中将が 糸満の摩文仁で自決した日が昭和20年6月23日の未明とされています。 沖縄県(当時琉球政府)はこの日を、日本軍の組織的戦闘が 終結した節目ととらえ、昭和40年に沖縄慰霊の日と定めました。 6月23日に日本軍の組織的戦闘が終結したとはいえ沖縄ではそれ以降も戦闘は続き 琉球列島守備軍が嘉手納の米第10軍司令部で正式に降伏文書に調印したのは 9月7日のことです。 山の形が変わるまで「鉄の暴風」が3ヶ月以上も吹き荒れた沖縄戦。 米軍が上陸し、戦場となり、20数万人の人々が悲惨な最期を遂げています。 「沖縄関係資料」より抜粋 数ヶ月前に、みあのブログに中学3年生の少女からコメントがありました。 「沖縄の資料調べで来ました。私は、修学旅行でもうすぐ沖縄に行きます。 みあさんの書い記事を読んで、とても命の大切さを考えさせられました。 私は修学旅行のしおりの実行委員なので、しおりで皆に命の大切さを 伝えれたら良いなと思います。」 そして、修学旅行でガマに行った感想 「ガマは、めっちゃ暗くて怖かった。ガマの事をガイドさんに色々話してもらいました。 光が見えて、外の空気をいっぱい吸えるって、本当にすごい、幸せなことだと思いました。」 中学3年生の少女が命の大切さを考えてくれて、みあはすごく嬉しかったです。 以前、みあが書いた記事「みあの母の沖縄戦」を再度載せたいと思います。 沖縄慰霊の日に「命の大切さ」を今一度考えたいです。 みあの母は、1939年(昭和14年)に那覇の小禄に生まれた その後、6歳の時に終戦をむかえ 28歳まで、アメリカの占領下の沖縄にいた 母から聞いた「沖縄」を綴ります みあは、幼い頃から、母から沖縄の戦争の話を聞いていた その話を、みあ自身忘れたくない 1944年(昭和19年)頃、船で九州に疎開をする話があった みあの母は、当時5歳。兄が7歳。母(みあからだと、おばあ)とおばあがいた だが出航の日、あいにく嵐が来て、船が出なかった そして、皆で沖縄北部のやんばるに避難することになった 那覇の小禄から、何日も何日もかけてやんばるまで歩いたのだ 昼は、攻撃されるので、夜中歩いて行ったのだ そして、やんばるに着いてからも、ひとつの壕にとどまらず、壕から壕へ移動した 木の実などもたべて、空腹をしのいだ みあの母は「夜中に飛び交う砲弾が花火のように思えた、綺麗だった」と言っている だが「その他の事は、あまり覚えていない」と言う それが本当に覚えていないのか、言いたくないのかはわからない 「あちこちに死体があったと思う。だけど当時は幼かったからよくわからなかった。 それがどういうことなのか、わかったのはもっと大きくなってからだよ。」 終戦のビラで、戦争が終わったと知った だけど、それが本当なのか、嘘なのか、最初は皆、疑ったという 人づてに「終戦は本当で、アメリカ軍の捕虜になっても大丈夫だ」と、母達のまわりでは広まった 当時は、捕虜になったら何をされるか、わからないと言われていたので投降せず、自決を選んだ人も多い そんな中、母達は投降した 母達は、避難していたやんばるから、アメリカ軍にトラックに乗せられ宜野座に連れて来られた その後、6年くらい宜野座で暮らし、那覇の小禄に戻った 家は、跡形もなかった ただ、石垣の跡が残っていた 後ろの家のところには、砲弾で大きな穴があいていた みあの母は、自分の父親に写真でしか会ったことがない 母が生まれる前に、フィリピンに働きに行ったのだった なぜ、フィリピンに行ったのか詳しいことは、母は教えてもらっていない 数年間は、働いていたけど、やがて兵隊に召集された そして、フィリピンでマラリアにかかって病死したと、戦後になって知った 生まれた娘を、その手で一度も抱くこともなく・・・・・ 病床で、なにを想っただろう? フィリピンで、なにを想ったのだろう? 母は、父親の手のあたたかさも、背中の大きさも知らない・・・・・ 戦後は、戦争の話や、父親の話はしてはいけないという雰囲気で 母は、父親の写真を一度しか見たことがないという どんな感じなんだろう? 自分の父親が戦死したって? 自分の父親に会ったことがないって? 戦争は、家族を、親戚を、友を・・・・・ 多くの人が大切な人を失ったんだね・・・・・ みあは、母に「よく生きてたね」と言ったことがある 母からの話だけでなく自分でも調べてみた つくづく戦争が恐ろしいものだと思った もし、疎開するために船に乗って、その船が沈没していたら? もし、北部ではなく、南部に避難していたら? もし・・・・・ 今、みあは、きっといないんだよね 母が生き抜いてくれたから、みあは今いるんだよね だけど毎年、自殺者は多く・・・・・ 挙句には、親が子を、子が親を・・・友を・・・ あの戦争で、多くの方々の尊い命が犠牲になり、今の日本がある なぜ、今も世界で、戦いがあるのだろう? なぜ、今も悲しんでる人がいるのだろう? ひとりひとりが考えなければいけない 多くの戦争関連のHPがありますが 糸満市にある「ひめゆり学徒隊」の「ひめゆり平和祈念資料館」のHPと 那覇市にある「学童疎開船対馬丸」の「対馬丸記念館」のHPを御紹介します 沖縄戦当時、沖縄には21の男女中等学校がありました 沖縄戦では、これらすべての男女中等学校から学徒が戦場に動員されました 女子学徒隊は「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」「なごらん学徒隊」「瑞泉学徒隊」「積徳学徒隊」 「梯梧学徒隊」「八重農女子学徒隊」「八重山高女学徒隊」「宮古高女学徒隊」 主に陸軍病院等で看護活動にあたりました 「ひめゆり学徒隊」の「ひめゆり平和祈念資料館」のHP http://www.himeyuri.or.jp/top.html 1944年(昭和19年)8月22日那覇港から疎開者を乗せた「対馬丸」は 鹿児島県・悪石島付近で米海軍潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け沈没しました 「学童疎開船対馬丸」の「対馬丸記念館」のHP http://www.tsushimamaru.or.jp/ 対馬丸の子どもたちからのメッセージ「今を生きている君へ」 生存されてる方の証言(お話)もあります お子様向けのキッズ用ページ http://www.tsushimamaru.or.jp/kids みあの母は6歳の時に終戦をむかえ28歳まで、アメリカの占領下の沖縄にいました。 今年で本土に来て40年になりますが、母は一度も沖縄に帰っていません。 「貧しかった、苦しかった、皆一生懸命に働いた」と、母は沖縄にいた頃のことを 話す時よく言います。 沖縄に旅行に誘っても「いい思い出はない、別に旅行したいとは思わない」と・・・ みあの父は本土に引っ越して来て、一度も沖縄に帰らなかった だけれど、新聞やニュースで沖縄の映像などを見ると目を細めて見ていた 父や母は、故郷をどんな思いで離れ、どんな思いで生きたのだろう? この惨禍を後生の人々に伝え、二度と同じ過ちを繰り返してはいけないのです 過去にあったこの事実を風化させてはならないのです みあは、沖縄だけとは言いません 広島、長崎の原爆など、戦争は国内外どこもかも焼け野原にしたのですから 多くの方達の尊い命を奪い、そして多くの方達の心に深い傷跡を残したのですから その深い傷を負う人達を、増やしてはならない 最後まで読んでいただき、どうもありがとうございます。 追記
コメントをいただいた方、読んでくれた方、本当にどうもありがとうございます。 皆様の思いを知れて、とてもうれしいです。ありがとうございます。 |
そして、この5月15日にめでたくブログ1周年を迎えることが出来ました!!! 1番目、2番目の記事は「沖縄返還」の記事でした ブログを始めた大きな理由は 「母から聞いた沖縄」をみあ自身忘れたくなくて、書き留めておきたかったからです 忘れっぽいみあだけど、決して忘れてはいけない事だから・・・ ブログを通して、いろんな方達と出会い 考えさせられる記事、初めて知る出来事の記事、ほのぼのとする記事・・・ 多くのことを教えていただきました!!どうも、ありがとうございます。 これからものぉ〜〜んびりと、やっていきたいと思います!!
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沖縄市の戦後文化資料展示室「ヒストリート」1945年9月7日沖縄戦の降伏調印の日 (琉球列島守備軍が嘉手納の米第10軍司令部で正式に降伏文書に調印した日)を 沖縄市(旧コザ市)では、「市民平和の日」と定めています。 終戦から60年という節目の年である2005年の市民平和の日に 沖縄市の戦後史や当時の文化など、コザの歩みが一目でわかる施設「ヒストリート」 が市内パークアベニューそばパルミラ通りにオープンしました。 係の方に説明もして頂けるので、当時の生活の様子などがリアルにイメージ できますよ。 なお「ヒストリート」とは、ヒストリー(歴史)とストリート(通り)を 掛け合わせた造語です。 入り口に有刺鉄線付きのフェンスの実寸大模型。 戦後建設されたというカマボコ型の兵舎。 戦闘機の残骸で作ったなべや、やかんなどのジュラルミン製品。 日本軍の迫撃砲、訓練用のバズーカ砲。 戦後の年表、写真パネル、生活雑貨品、 生活文化資料では親子ラジオ、ミシン、ジュークボックス(動くのでリクエストできる)など Aサインバーを再現したバー・カウンターもありますAサインとは AサインのAは「APPROVED(許可)」の頭文字で 米軍人、軍属が店を利用しても良いという許可証の事です。 1953年から米軍人、軍属に対する飲食提供に関する衛生規定が始まり 検査は細かく「Aサイン」に認定されることは厳しいものだったようです。 カウンターには、当時のコーラやビールのビン、 米軍兵士たちが残していったサイン入りのドル札などが並んでいます。 なお、飲み物などの注文はできませんよぉ。 「Aサイン」の画像はこちら→ http://page.freett.com/gpzagogo/asiginbar.html 開室時間 11:00〜19:00まで 入場無料 休室日 月曜、祝祭日、慰霊の日、年末年始 住所 沖縄県沖縄市中央1丁目17−17(コザ・パルミラ通り) 問合せ先 098−929−2922 国道330号線からパークアベニューに入って最初の左側のレンガ色の小道がパルミラ通り です。 (駐車場は沖縄市中央公共駐車場をご利用ください。展示室は駐車場より徒歩7分) 2006年3月(オープンから約半年後)には来場者1万人を達成しました。 オープン以来、市民の方々からの支持を受けて 戦後資料の寄贈が相次ぎ、内容充実が図られています。 今回みあは「B円」を調べていて、この戦後文化資料展示室「ヒストリート」を知りました。
とても興味深い展示室ですよね。 コザに行かれた際には、是非寄ってみてはいかがでしょうか。 |
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みあの母は、1939年(昭和14年)に那覇の小禄に生まれた その後、6歳の時に終戦をむかえ 28歳まで、アメリカの占領下の沖縄にいた 母から聞いた「沖縄」を綴ります 「B円」とは B円(ビーえん)は、1945年から1958年9月まで アメリカ軍占領下の沖縄で通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票。 正式名はB型軍票(Type“B”Military Yen)。 1948年(昭和23)7月、日本円が禁じられ その後、1958年(昭和33)9月までの10年間にわたり 沖縄で唯一の正式通貨として使用された。 その後、ドル通貨制へ切り替えが行われ、B円は廃止された。 A円もあるが、アメリカ軍基地間のみで使用され、外部への流出は禁止されており 一般人は所持さえ禁止されていた。 みあの母も当たり前だけど、B円を使って生活していた。
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