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「歎異抄を三度目読み直して」
歎異抄をひさびさに読み返して、
そのすばらしさと、
そのままついていくのに躊躇を感じる気持ちと、
両方の板ばさみになった。
この前、二度目に読み直していた時も同じ気持ちだった。
でも、今回は、
歎異されている自分というものが、
すこしわかった気がする。
こんな奇妙な、
不思議な本はないと思う。
私は、
大きく三回いままで歎異抄を読んだ。
もちろん、その間にも読んだことはあるけど、
特に感想が違うという点で今までに三回。
ずいぶん昔、
はじめて歎異抄を読んだ時には、
すこしも感心しなかった。
つまらない本だと思った。
単なる甘えではないかと思い、
その頃は聖道門の方によほど心ひかれていた。
だいぶ遠回りし、
浄土門に帰してから、
歎異抄を二度目読み直した。
とても感動したし、
救いを感じた。
しかし、そのままついていくのに、
ためらいを感じた。
特に十三章が、
いつもつまずく。
人間の善と悪は、
結局過去世からの宿業で決まっているということ。
自分がなす善は過去世の善根のおかげ、
自分のなす悪も過去世の悪業のなせる業。
いずれにしろ阿弥陀仏は救ってくださる。
限りない安心と救いを感じるような気がするのと同時に、
それでは人間の自由や自律ということはどうなるのかと、
これでいいのかと、
思う気持ちを拭い去れない。
三回目、いま読み直した時も、
やはりそこがつまずきの石だった。
だが、今回は、
そうした不信の自分を、
歎異していらっしゃる阿弥陀仏のまなざしが、
親鸞聖人のまなざしが、
すこしだけ感じられるようになった。
昔はまったくと言っていいほど、
本願を知らず、本願にそむき、
疑いと不信と自力の我執の地獄の中にいた。
いまだってそれを完全に抜け切れたわけではないが、
ひとえに阿弥陀仏の催しによって、
念仏を称える身とはなった。
今も自力の心を捨てきれたわけではないが、
それでもおさしつかえなく、
救いの中にいるのだろう。
生涯のうち、
四回、五回と、
時を重ねる中で歎異抄を読み直していけば、
念仏を称えていけば、
いつかダイヤモンドの信心が得られるようになるのだろう。
まだ救いの広々としたありがたさに、
ありがたさと同時に、
恐れを感じざるをえない。
人間の自律と本願の救いとの間に、
明晰な答えを見つけることができない。
けれども、たぶんそれらは矛盾するものではないし、
いつか腑に落ちる時もあるのだろう。
そう、思えるようになった。
まだ腑に落ちきらない自分を、
歎異し、暖かく見守る阿弥陀仏のまなざしが、
歎異抄にはある。
そのことが見つかった。
そんなことを、
三度目読み直して、
つらつら思った。
人間の自律や自由と、
本願の救済と、
この難題を突きつけるだけでも、
歎異抄という本は、
未だに読み考え続けられるべき、
とてつもない本だろう。
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金の計算しかできない人は、金の計算もできないように、歎異抄しか読まない人は、歎異抄も読めないのです。教行信証を読んでこそ、歎異抄もわかるようになるでしょう。切れ味鋭い言葉も、どうしてそういうことがいえるのかは、何度読んでもわからないし、わかるはずもない。同じ方向からのみ見続けても、裏はわからない。また、芸術作品をずっと見続けても、製作工程を見なければ、理解が深まらないようなものです。教行信証を読むべきです。南無阿弥陀仏
2006/7/9(日) 午前 11:54 [ bjd*g4*0 ]
そうですね。歎異抄で持った問題意識を持って、教行信証を読むと、そうでない時とはまた違った切り口や味わいがありそうですね^^ この夏にでももう一度教行信証もじっくり読んでみようと思います^^ ただ、最近思っていたのですが、法然上人は微弱ながら自由意思を認めているのに対し、どうも親鸞聖人には自由意志の余地がないように今のところ私には思われます。読みが足りないのかもしれませんが、白道さんはその点はどう思われますか?
2006/7/9(日) 午後 5:28 [ miamasavin ]
自由意志の余地がないとはどういうことですか?信前は、煩悩軍に占拠されたるこころであるが、信一念時、信後はお慈悲軍に占拠されたるわがこころである。やまもやま、みちもむかしにかわらねど、かわりはてたるわがこころかな。(山伏弁円⇒明法房証信)信前が自由の不自由なら、信一念、信後は不自由の自由と喜ぶのですが。南無阿弥陀仏
2006/7/9(日) 午後 5:47 [ bjd*g4*0 ]
法然みずからは機法一体、願行具足の名号法をよろこぶばかりで、親鸞もそうでしょうが、さまざまなひとにも通用するように説くのが法然で、親鸞は厳密にそのなかでの真実の中の真実を明らかにしていると思います。南無阿弥陀仏
2006/7/9(日) 午後 5:51 [ bjd*g4*0 ]
歎異抄のことばや考え方は、教行信証にその根拠があります。なぜ、そのような見方、考え方、世界観、救済観が成立するのか?それを教行信証はあきらかに伝えてくれます。ただその場合、重要なポイントを考えつつ読み、本当に自分のものになる場合にのみ開かれていく世界です。南無阿弥陀仏。
2006/7/9(日) 午後 5:56 [ bjd*g4*0 ]
つまり、こういうことです。法然上人は、善をしばしば勧めており、人間が自らの意思で善を積むことができると、ある程度は、たとえ限定的だとしても認めていると思われます。それに対して、親鸞聖人の場合は、善悪が宿業で決定されているように思われます。宿業・業縁が、法然上人の場合は、規定・限定といった程度なのに対して、親鸞聖人の場合は決定的であるように思われます。いかが思われますか?
2006/7/9(日) 午後 8:12 [ miamasavin ]
親鸞聖人は、人間が自らの意思で善を積むことができると認めておられますが、それは本源として如来の慈悲があり、また、如来の願行に比しては無に等しいということであると思います。また、善と悪には、性質上大きな違いがあります。悪は自性ですが、善はおかげさまなのです。歎異抄領 解という白井さんが書かれたいい本が大蔵出版から出ていますのでお勧めします。また、私のブログの南無阿弥陀仏福祉3をご覧ください。南無阿弥陀仏。
2006/7/16(日) 午後 0:51 [ bjd*g4*0 ]
この問題は、法然聖人が、おもてむきは悪人なおもて往生をとぐ、いわんや善人をや、であり、口伝としては善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、としたというところと深い関連があります。南無阿弥陀仏
2006/7/16(日) 午後 6:00 [ bjd*g4*0 ]
故、白井成允(しらい・じょういん)(しらい しげのぶ)については、 http://zuikouji.parfe.jp/parfe02/ehonn/sirai01/sirai01.htm を参照してください。南無阿弥陀仏
2006/7/16(日) 午後 6:28 [ bjd*g4*0 ]
ありがとうございます。白井成允さんの本はとても面白そうですね。探してみます。キリスト教から浄土教へというエピソードも、とても興味深いです。ひょっとしたら、山本空外と同時期に広島大学にいたのかもしれませんね^^ 白道さんの教えてくださったとおりなら、親鸞聖人の善悪への考え方は、まったく法然上人と同じだと思われます。不審がだいぶ解けました。自分でも本を読んで考えてみたいと思います。「一仏は一切仏へ、ひいては一切人、一切衆生へ」、善は念仏のおかげというのは、まったく同感です^^
2006/7/18(火) 午後 0:17 [ miamasavin ]
信前において、異類、同類の善根→阿弥陀仏のおかげ。
信後において、異類、同類の善根→阿弥陀仏のおかげ。
南無阿弥陀仏
2010/7/24(土) 午後 4:24 [ bjd*g4*0 ]
南無阿弥陀仏
2010/8/10(火) 午後 5:40 [ miamasavin ]