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「真の宗教とはか細い道 ―生の否定でも単なる世俗主義でもなく」
この世に生きることの肯定が、
できなければ、
そんな宗教は偽りだと思う。
しかるに、
世の中の大半の宗教は、
肯定よりはむしろその逆の、
生の否定ばかりしてきたのではなかろうか。
世の中の宗教というものの大半は、
迷信に満ち、
恐怖をあおり、
道徳的抑圧でがんじがらめにして、
人間が生を謳歌するのを妨げてきた。
中世という時代は、
洋の東西を問わず、
そのような生の否定の宗教が人々を抑圧し、
大手を振っていた時代だった。
生を深め、
生を輝かすものでなければ、
宗教などというものは存在の価値はあるまい。
真の宗教とは、
生の肯定である。
しかし同時に、
宗教というものは、
生の救済でもなくてはならない。
宗教とは人間の生死に関るものであり、
この世だけの視点からのこの世の肯定ではない。
単にこの世の視点からだけの、
救済論のない生の肯定などというものは、
底の浅いもので、
生死にかかわる人生の苦難にあっという間に粉砕されるものだろう。
この世だけのものでは人間は救われない。
別に、この世のだけのものとは別の次元いというのは、
何もあの世とは限らない。
永劫ということであり、
刹那とはまた別の次元のことだ。
永遠にかかわり、
そのかかわりにおいて生の意味を知ること。
それが救済であり、
宗教ということだと思う。
近代とは、
中世における生を否定する宗教の批判から始まったが、
永劫や永遠という魂の次元を忘れ、
刹那の次元のみの世俗主義に陥り、
救済や生きる意味を見失った時代だったと思う。
近代の世俗主義とも異なり、
中世の生の否定の宗教とも異なる、
そんなか細い道が、
真の宗教ではなかろうか。
しかるに、
真の宗教とは、
あまりにも少ないと思う。
大半は、生の否定の宗教か、
宗教を見失い忘れた単なる世俗主義に過ぎない。
どの宗教の中にも、
真の宗教のか細い道を辿った人がいたかもしれないが、
私が知るかぎりではあまり多くない。
その稀有な例が、
法然上人だったと私は思う。
「生まれつきのまま」の生を肯定し、
ただ念仏を称えるだけで永劫と相即するという、
その宗教の深みは、
弁栄上人などを除いてあまり継承されてこなかったし、
法然上人の宗教が、
道徳的抑圧や迷信からの解放であり、
最も簡単で速やかな宗教的救済であることすら、
未だに十分には評価されていない。
しかし、
もし生の否定も単なる世俗主義も避けようとするのであれば、
そのどちらにも救いを見出せないことを直視するのであれば、
もう一度、
このか細い真の宗教の道を、
二十一世紀には見直すべきだと思う。
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