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「風に己をまかせて」 井上洋治さんは、 ガラテヤ書の五章十六節をこのように訳しておられた。 「風に己を委せきってお生きなさい」 なんとすばらしい言葉だろう。 私も風に己をまかせきって生きていきたい。 それは、イエス様の生き方であり、 釈尊の生き方であり、 法然上人や一遍上人の生き方でもあったろう。 私が、という思いは、 いつも表面にすぎない。 背後にはいつも、 大悲の風が吹き渡り、 働きかけている。 南無アッバでも、 南無阿弥陀仏でも、 その心はきっと同じ。 私も風にまかせきり、 いつか風になりたい。
親鸞の帖外和讃に、大願海のうちには、煩惱のなみこそなかりけれ、弘誓のふねにのりぬれば、大悲の風にまかせたり、とあります。南無阿弥陀仏。
2006/4/30(日) 午後 7:25 [ bjd*g4*0 ]
最後のとこの、「私も風にまかせきり、いつか風になりたい」そこがすごくいいと思いました。今はまだ向かっていきたいって思っちゃってます。もっと風に己をまかせるものいいかも知れませんね。
2006/5/1(月) 午前 8:47 [ - ]
<白道さん いい詩ですね〜^^親鸞上人も、この和讃・詩から察すると、本当に風に己をまかせきった達人だったんでしょうね^^補足ありがとうございました^^どうも僕はまだぜんぜん十分に親鸞聖人を理解できていなくて、家の宗派が浄土真宗だったこともあって、うまく距離をもってとらえられないというか、親鸞聖人も実像はちがうのかもしれないのですが、重苦しいイメージを持ちがちだったんですよね。でも、この和讃からは、本当にさわやかで風のような親鸞聖人の実像が伝わってくるような気がします^^ありがとうございました^^
2006/5/1(月) 午前 10:17 [ miamasavin ]
<atikoさん ありがとうございます〜^^そうですね〜、僕もぜんぜん風にまかせるどころか、しょっちゅう向かったり、うまく帆もはれず舵も操縦できずということばかりですけど、風にうまくまかせていけたら、人生の航海も達人の境地になれるのかもしれませんね^^でも、帆も舵も両方大事ですよね〜。
2006/5/1(月) 午前 10:20 [ miamasavin ]
教団側からのイメージとしての親鸞と、著作からの親鸞は違います。 教団は法要を派手にやりますが、親鸞は死んだら川に流して魚のえさにしてくれと言い、教団は非常に差別的ですが、親鸞は弟子はひとりもいない、みな如来の弟子と言います。実像は、本当に慕われるべき人柄です。南無阿弥陀仏
2006/5/3(水) 午前 11:53 [ bjd*g4*0 ]
そうですね〜、親鸞聖人は、一度本願寺教団を離れて、再構成すべきかもしれませんね。既成のイメージや権威ではない、自分自身の親鸞聖人を、著書から直接汲み取ってすこしずつつくりなおしていきたいです^^
2006/5/5(金) 午後 10:34 [ miamasavin ]
親鸞聖人は、み教えに出遇ったよろこびを『御本典(教行信証)』に「大悲の願船に乗じて 光明の広海に浮かびぬれば 至徳の風静かに 衆禍の波転ず」<意味>本願の大いなる慈悲の船に乗り、念仏の衆生を摂め取る光明の大海に浮ぶと、この上ない功徳の風が静かに吹き、すべてのわざわいの波は転じて治まる。南無阿弥陀仏
2006/5/6(土) 午後 7:17 [ bjd*g4*0 ]
光明の大海、すごくいいイメージですね^^親鸞聖人はよく「転」ということばを使いますよね。すごくダイナミズムがあって、好きなことばです。こういう親鸞聖人の生き生きしたダイナミズムを、どの程度親鸞聖人没後の本願寺教団は伝えてこれたのか疑問ですよね。法然上人・親鸞聖人の教えは、本当は非常に躍動感とダイナミズムと速度があると思うのですが、どうも現代においてはあまり教団が伝え切れてない気がします。
2006/5/6(土) 午後 7:39 [ miamasavin ]
それはそうですね。いろいろなおまけや不純物が、いいといってもわるいといっても混入せざるをえないから。そしておまけや不純物のほうが大きな顔をしている現状があります。そこにおいて聖典をもとによくよく聞いていきましょう。法然の肉声、親鸞の肉声を。南無阿弥陀仏
2006/5/6(土) 午後 8:44 [ bjd*g4*0 ]
そうですね、法然上人の肉声、親鸞聖人の肉声、著作を通してお二人が今も生きたいのちであることをよくよく聞いていきたいです^^
2006/5/7(日) 午後 7:40 [ miamasavin ]
アーメン。 なお、井上神父の「風」は、風任せの風、自由な風…ではありません。 プネウマでして、 聖霊、息、風・・・です。 父と子と聖霊!の三位一体の<神さま>そのものです。 だから、「おみ風さま」と最大級でお呼びしています。
2014/4/29(火) 午前 0:01 [ ohb*_k*ouka* ]
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親鸞の帖外和讃に、大願海のうちには、煩惱のなみこそなかりけれ、弘誓のふねにのりぬれば、大悲の風にまかせたり、とあります。南無阿弥陀仏。
2006/4/30(日) 午後 7:25 [ bjd*g4*0 ]
最後のとこの、「私も風にまかせきり、いつか風になりたい」そこがすごくいいと思いました。今はまだ向かっていきたいって思っちゃってます。もっと風に己をまかせるものいいかも知れませんね。
2006/5/1(月) 午前 8:47 [ - ]
<白道さん いい詩ですね〜^^親鸞上人も、この和讃・詩から察すると、本当に風に己をまかせきった達人だったんでしょうね^^補足ありがとうございました^^どうも僕はまだぜんぜん十分に親鸞聖人を理解できていなくて、家の宗派が浄土真宗だったこともあって、うまく距離をもってとらえられないというか、親鸞聖人も実像はちがうのかもしれないのですが、重苦しいイメージを持ちがちだったんですよね。でも、この和讃からは、本当にさわやかで風のような親鸞聖人の実像が伝わってくるような気がします^^ありがとうございました^^
2006/5/1(月) 午前 10:17 [ miamasavin ]
<atikoさん ありがとうございます〜^^そうですね〜、僕もぜんぜん風にまかせるどころか、しょっちゅう向かったり、うまく帆もはれず舵も操縦できずということばかりですけど、風にうまくまかせていけたら、人生の航海も達人の境地になれるのかもしれませんね^^でも、帆も舵も両方大事ですよね〜。
2006/5/1(月) 午前 10:20 [ miamasavin ]
教団側からのイメージとしての親鸞と、著作からの親鸞は違います。 教団は法要を派手にやりますが、親鸞は死んだら川に流して魚のえさにしてくれと言い、教団は非常に差別的ですが、親鸞は弟子はひとりもいない、みな如来の弟子と言います。実像は、本当に慕われるべき人柄です。南無阿弥陀仏
2006/5/3(水) 午前 11:53 [ bjd*g4*0 ]
そうですね〜、親鸞聖人は、一度本願寺教団を離れて、再構成すべきかもしれませんね。既成のイメージや権威ではない、自分自身の親鸞聖人を、著書から直接汲み取ってすこしずつつくりなおしていきたいです^^
2006/5/5(金) 午後 10:34 [ miamasavin ]
親鸞聖人は、み教えに出遇ったよろこびを『御本典(教行信証)』に「大悲の願船に乗じて 光明の広海に浮かびぬれば 至徳の風静かに 衆禍の波転ず」<意味>本願の大いなる慈悲の船に乗り、念仏の衆生を摂め取る光明の大海に浮ぶと、この上ない功徳の風が静かに吹き、すべてのわざわいの波は転じて治まる。南無阿弥陀仏
2006/5/6(土) 午後 7:17 [ bjd*g4*0 ]
光明の大海、すごくいいイメージですね^^親鸞聖人はよく「転」ということばを使いますよね。すごくダイナミズムがあって、好きなことばです。こういう親鸞聖人の生き生きしたダイナミズムを、どの程度親鸞聖人没後の本願寺教団は伝えてこれたのか疑問ですよね。法然上人・親鸞聖人の教えは、本当は非常に躍動感とダイナミズムと速度があると思うのですが、どうも現代においてはあまり教団が伝え切れてない気がします。
2006/5/6(土) 午後 7:39 [ miamasavin ]
それはそうですね。いろいろなおまけや不純物が、いいといってもわるいといっても混入せざるをえないから。そしておまけや不純物のほうが大きな顔をしている現状があります。そこにおいて聖典をもとによくよく聞いていきましょう。法然の肉声、親鸞の肉声を。南無阿弥陀仏
2006/5/6(土) 午後 8:44 [ bjd*g4*0 ]
そうですね、法然上人の肉声、親鸞聖人の肉声、著作を通してお二人が今も生きたいのちであることをよくよく聞いていきたいです^^
2006/5/7(日) 午後 7:40 [ miamasavin ]
アーメン。
なお、井上神父の「風」は、風任せの風、自由な風…ではありません。
プネウマでして、
聖霊、息、風・・・です。
父と子と聖霊!の三位一体の<神さま>そのものです。
だから、「おみ風さま」と最大級でお呼びしています。
2014/4/29(火) 午前 0:01 [ ohb*_k*ouka* ]