往還一如 生と死

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「長い間興味の持てなかった“後生の一大事”について」


私は、家族の死を経験するまでは、
まったく死後の世界に興味はなかった。

家族との死別の悲しみを経た後でさえ、
長い間、蓮如上人がいう「後生の一大事」ということに、
なじめず、興味が持てなかった。

蓮如上人は、“後生の一大事”の解決ばかり言う。
しかし、それは生を軽んじ、死へ逃避することではないか。

死がこわい人なら、まだその「後生の一大事」とやらに興味も持とう。
しかし、生きることそのものがつらく、
よっぽど自殺した方がましと思っている人にはなんの関係もない。
なんとか生きるためのよすがと意欲こそが欲しい私にとって、
後生の一大事などは死が怖いと言っている余裕のある人々のたわごと。

そう長い間思っていた。

だから、己の罪業の深さと能力の無さの自覚から、
真言密教よりも浄土教に心ひかれるようになってからも、
蓮如上人や親鸞聖人より、
法然上人や弁栄上人に興味を持った。

それは、法然上人や弁栄上人の中には、
真言密教と相通じるような、生きている間に救われる道があって、
光明摂化や冥衆護持や願望成就や三昧発得など、
現世での利益と救済が説かれていたからだった。

しかし、法然上人の書きのこした本の中には、
確かに弁栄上人が説くような光明摂化などの現世の救済も説かれているけれど、
後生の一大事も非常に重要なテーマだった。

そして、蓮如上人が説く「後生の一大事」ということが、
いかに大事か、やっとすこしだけ私にもわかるようになっていった。

生きている間のことだけを中心として、
自分を中心としていた私が、
実はみ仏に願われ、
またすでに浄土に往った人々から願われていること。
そのまなざしを感じること。
それこそが、実は生きている側の人間にとっても根本的に大事であること。

死んだあとを無いこととして、
死者のまなざしを忘れ、
み仏の願いとまなざしを忘れる。
つまり、後生を殺して、
生だけに視野を限っていたら、
実は生もやせ細り、
無明の闇に閉ざされるのではないか。

後生を殺したら、
いま現実にある生も殺してしまうのではないか。

そう思い始めるようになった。

そうして、
浄土に往生する往相回向と、
浄土に往った人々が再びこの世に仏となって還ってくる還相回向の、
二つの回向を法然上人や親鸞聖人があんなにも一生懸命に説いて、
浄土という、死後の世界からの働きかけやまなざしを説き続けたことの意味が、
やっと少しだけありがたく味わわれるようになってきた。

いま生きているこの人生も、
とても大事で、
これも念仏によって光明摂化され救われる。
けれども、後生もまたとても大事なことで、
この浄土からのまなざし、
無数の仏さまたちからの働きかけとまなざしを感じることができてこそ、
本当の念仏もあり、
生きているこの人生の充実もあるのだと、
念仏に導かれて、思えるようになった。

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あたしは前世というものの上に生きていると感じつつ後世というものの中にぽっかり自分を置いて考えることを忘れていました。自己中です。 先人は前世でもあり後世でもあり生かされているんだなぁと気づきました。

2006/5/28(日) 午後 8:10 [ bra**yjett* ]

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コメントありがとうございました^^ 僕も、前世についてはいろいろ本を読んだり、ふしぎな夢を見たり、けっこう信じたり考えたりしていたのですが、後世についてはぜんぜん考えず、つい最近まで無視しがちでした。でも、本当はbrankyjetttさんがおっしゃるように、先人は前世でもあり後生でもあり、その中で生きている人も生かされているんですよね。後生の一大事というと、なんだか古めかしい表現ですけど、内容は現代にこそ必要な考え方かもしれないですよね^^

2006/5/28(日) 午後 9:43 [ miamasavin ]


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