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「還相の働きを感じとれる人間になりたい」
還相の働きを感じとれる人間になりたい。
還相の働きを。
還相の働きを感じとることができないならば、
どれだけ経典を読み、
仏教を勉強したとしても、
何もわかっていないのと同じだ。
法然上人は、
浄土に往くことを往相、
浄土から人を救うために働きかけることを還相と言った。
南無阿弥陀仏と称えさえすれば、
誰でも浄土に往生して仏になる。
そして、浄土で仏になった人は、
今度はこの地上の人を助け救う働きかけをするようになる。
死を無だととらえる見方とは、
まったく別の生死へのまなざしがここにはある。
現代人は、多く死を無視して生きて、
死後の世界を迷信だとしている。
ましてや還相などということは、
遠い鎌倉時代の仏教の迷信として忘れ去ってしまっている。
しかし、本当は、
私たちの生は、
無数の亡くなった人たちの願いや思いの上に成り立っているのではないか。
たとえば、
私が称える念仏ということも、
法然上人をはじめとして、
無数の過去の念仏者やご先祖様やその他の人々がいたからこそ、
今念仏を称えているのだと思う。
それらの人たちの言葉や思いや願いがなければ、
どうして私が念仏を称える身にさせていただくことができただろうか。
今の日本の平和や豊かさだって、
多くの人たちの願いや思いや働きかけあってのもの。
還相の働きを感じることは、
この生をより豊かにする。
はっきり、この生の根っこを理解させてくれる。
この生の意味と力の出所をつかむ力になる。
だから、往相は、この今生きている往相の生は、
必ず還相とひとつになって、
はじめて浄土に生まれるような真実の生となる。
還相の働きを感じれてこそ、
光明生活もあり、
み仏と共に生きる、
真の共生浄土もある。
だから、往還一如、
往相と還相は本当はひとつだと、
浄土教では説かれてきた。
還相の働きを感じとれなくなり、
浄土からの無数のみ仏たちのまなざしや願いに鈍感になってしまったら、
私たちの生は痩せて衰えてしまうのではないか。
私は、この生をより豊かに生きるためにも、
還相の働きをもっと感じていきたい。
そのためにこそ、
一心称名し、
浄土からのメッセージに耳を澄ませていきたい。
南無阿弥陀仏とは、
還相の働きに耳を澄ませ、
肌で感じることだ。
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