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「選択・本願・念仏   ―本願を選択し、本願から選択される生き方を」


法然上人は、
選択本願念仏を説いた。

選択・本願・念仏。

つまり、
念仏とは、
私が本願に選択されることであり、
と同時に、
私が本願を選択するということだ。

私が本願に選択されるとは、
大宇宙の無条件の慈悲に、
この私が選択され、
包まれ、とらえられるということ。

久遠の、
永劫の、
大宇宙のいのちに、
無条件の慈悲に、

南無阿弥陀仏と六字の名号を称えるだけで、
速やかに選択され、
摂取されるということだ。

そこに浄土への往生、
魂の救済がある。

そして、念仏とは、
私がこのように阿弥陀仏から選択されるのと同時に、
私が本願を選択するということでもある。

無条件の愛に、
久遠の宇宙・永劫宇宙に、
一声一声の念仏によって触れ、
その光を浴びて、

私自身の心が、
本願へと変容することである。

大宇宙の無条件の慈悲と、
進化向上の願い、

つまり大宇宙の本願を、
私の願いとしていくこと。

その願いの実現に、
生きること。

阿弥陀仏とは、
永劫宇宙のことであり、
本願とは、
その願いのことだ。

法然上人は、
「阿弥陀仏の本願のお宮仕へ」
つまり、
大宇宙の願いへの奉仕助成を説いた。

一声一声の念仏によって、
永劫宇宙の光を浴びて、
私の中の真実心が目覚める。

それと同時に、
私がこの真実心を生き、
至誠を尽くし、
五濁の悪世を浄め、
共生の浄土を実現していく。

その日々の選択こそが、
選択本願念仏である。

浄土教は、
その意味で、
実存主義であり、
日々の選択である。

このことを忘れて、
惰性に陥っているようなものは、
念仏でもなく、
浄土教でもなく、
法然上人のみ教えでもなく、
選択本願でもなんでもない。

選択・本願・念仏、

本願を選択し、
本願に選択され、
一心称名に生きて往こう。
それが真に生きるということだ。

光に立ち帰れ

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「光に立ち帰れ」


光に立ち帰り、
光に向き直ることを、

昔の人は、
帰命無量光仏、
南無阿弥陀仏といった。

念仏とは、
光を選択すること。
光に選択されること。

それを、
日々行い、
生きている間、
ずっと積み重ねていくこと。

光とは、
智慧のことであり、
真理のこと。

無量光仏は、
無量寿仏でもあるので、
光とは、
いのちのことであり、
愛のことでもある。

この五濁の悪世、
劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の中、
時代の濁り、思想の濁り、煩悩の濁り、人間性の濁り、健康を損なう濁りの中で、

しっかり自分の頭で考え、
光の方を向き、
真実心で生きていこう。

一心称名によって、
少しでも五濁を払い、
五濁を浄め、
愛の方へ、
光の方へと歩んでいこう。

二度と、
愚かな無謀な戦争を許すまい。

二度と、
隣国との愚かな衝突を繰り返すまい。

二度と、
機械人間となって無批判に権力者の口車に乗るまい。

二度と、
人間性を失って、
仏性を見失うようなことをすまい。

八月十五日は、
そのことを、
改めて肝に銘じる日としたい。

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「これが私たちの選んだ未来か 小泉首相の靖国参拝」


小泉首相が八月十五日、
今日、靖国神社に参拝した。

五年前の公約の実現らしい。

このことが、
小泉さんが言うとおりに、
平和を願うことに本当につながっているのか、
甚だ疑問もあるが、

小泉さんがこの日に参拝したのは、
あの時小泉さんを選んだ、
多くの人々のためだろう。

公約に不忠実な政治家よりは、
公約に忠実な方がいい。

もし問題があるとすれば、
はっきりそのような公約をうたっていた、
そんな政治家を、

よくよく公約の内容も吟味せず、
選び、支持してきた世論の問題だろう。

貧富の格差がこんなにも拡大し、
アメリカに対する従属がこんなにも進み、
大義のないイラクの戦争に自衛隊を送って支援するはめになり、
靖国に参拝して隣国との関係が悪化したのは、

ひとえに、
国民の多数が、
世論が選んだこと。

私は常に小泉政治を支持しなかったけれど、
もし、多数の国民が、
このような政策を本当に支持してきたなら、
まだしも納得がいかないながら仕方ないと思う。

けれども、
うんざりしてならないのは、
国民の多数は、個別の政策に関しては、
べつに小泉首相の、
貧富の格差拡大やイラク戦争や靖国参拝を、
そんなに支持しているわけではないということだ。

むしろ、
自民党をぶっこわすだとかいう、
漠然としたイメージや、

郵政民営化などという、
国民生活にとってそこまで重要ではない、
いわばどうでもいいことによって、

その陰に巧みに隠された重要なテーマをよく見ずに、
小泉政治を多数者が支持してきたことが、

なんともうんざりさせられる。

「戦争を二度とくりかえさないために」
そう言って、
小泉さんは靖国に参拝したけれど、

あそこに祀られているのは、
昭和天皇も不愉快だと言ったように、
ナチスドイツとの同盟を推進した松岡洋右らがいる。

日独伊三国軍事同盟のせいで、
どれほど日本は破局へと追い込まれたことだろう。
そのような国策を誤り、
ナチスなどという闇のかたまりと手を組んだ、
そんな人々が祀られているところに参拝して、
どうして平和の心をいただくことができようか。

東条さんや土肥原さんらは、
亡くなる前は法然・親鸞の念仏の教えにこそ帰依していた。
土肥原元陸軍大将は、
遺族に神道は捨てて念仏の教えに帰依するよう遺言していた。
多くのBC級戦犯の人々も、
南無阿弥陀仏によってこそ、
魂の救いを得て、不条理な裁判の死刑を受けいれていった。

もし、戦没者の追悼を真に願うなら、
平和な世の中を願うなら、
光の方を願うなら、
南無阿弥陀仏と称え、
阿弥陀仏の前に祈るべきではないか。

それが、浄土宗・浄土真宗という、
一宗派にしか関係のないことで、
広く国民すべての同意を得ない、
狭い形式にしかならないともし言うのであれば、
それは神道だって同じである。
もし、そう言うならば、
無宗教の形式で追悼すべきだ。

八月十五日、
あの日、日本がポツダム宣言を受託してから、
日本は、上の命令を聞くだけのシステムと、
その中で機械人間として生きるのをやめて、
民主主義の方へ、
自らの頭で考え、自らの意思で未来を選択する方へと、
歩き始めたと、
丸山真男らは言ってきたし、
多くの人もそのように考えてきた。

しかし、私たちは、
どのような現実を選んできたのか。
いま、どのような未来を選びつつあるのか。

私は、あの戦争のことを忘れてはならないと思うし、
その戦争が教えてくれたことを決して忘れてはならないと思う。
そして、その最大のことは、
細心の注意を払って国の運命を決めていかなくてはならないこと、
まだ選択の余地があるうちに、
自由の方へ、人間らしい方へ、
平和の方へと、
もっと努力すべきだったこと、
そういうことだったと思う。

光の方へ

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「光の方へ」


光の方へ、
歩いていこう。

少しでも、
できるかぎり。

闇ではなく、
光の方へ。

一歩だけでも、
一歩ずつでも。

もし、
ほんの一歩でもムリならば、

顔を光の方へ向けるだけでもいい。

それぐらいの自由なら、
きっといつでもあるはずだ。

念仏とは、
光の方へ、
光明へと、
向かい、歩るいていくこと。

無量の光明の中へと、
この狭い白い道を、
歩いていこう。
向かっていこう。

かつてこの島国が、
大きな闇に落ち込み、
闇と手を結んでしまったことを忘れないで、

二度とそうならぬよう、

今もいくつもの闇があり、
闇が蝕んでいることを直視して、

少しでも、
できるかぎり、
光の方へと向き直っていこう。

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