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「一切愛 ―永劫宇宙の働きのおかげ」


一切が永劫宇宙の働きのおかげであり、
永劫宇宙の恩恵でないものはひとつもない。

そのことが全然見えず、
わからなかった。

そんな愚かな私が、
いっぱしに賢いつもりでいて、
何の感謝も知らずに生きていたのだけれど、

世の荒波に打ち砕かれ、
念仏を称える身にしていただき、

念仏を称えるうちに、
ようやく少しずつ、
ほんの少しだけわかってきた。

私だけの力でつくったものなど、
この世にひとつもない。

私の力だけで生きていた時など、
ただの一瞬もない。

すべて、永劫宇宙の働きのおかげだし、
いつも永劫宇宙の働きに生かされている。

その永劫宇宙の働きのことを、
むかしの人は阿弥陀仏と言っていたわけだけれど、

南無阿弥陀仏と称えているうちに、
ようやくそのことが少しずつわかってきた。

般若心経のいう、
無自性というのも、
要するにそういうことで、
自分の力だけでは何もありえないということ。

一切皆空というのも、
阿弥陀仏に生かされている真理のことで、
言い換えれば、
一切愛ということ。

南無阿弥陀仏も般若心経も、
やっとこの頃になって、
この年になって、
少しだけその意味がわかってきた。

恩返しなど到底できない、
莫大広大な恩愛だけれど、

せめて恩を知らないよりは、
この阿弥陀仏の恩に報い、
感謝していきたい。

阿弥陀仏への報恩謝徳の生き方というのが、
真実の生だというのが、
やっとすこしだけわかってきた。

み名を称え、
永劫宇宙の働きを讃えて、
一心称名報恩に生きるとき、
きっとそこに、
永劫宇宙の本当の光がさす。

本当の幸せというものはそこにある。

気付くのが少々遅かったけれど、
これからは片時も忘れまい。

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「米軍機の低空飛行の話 機銃掃射をするかしないか」


たまたま見たテレビの番組で、
戦時中の思い出話があっていて、

あの時代は、
アメリカの戦闘機が、
低空飛行で、
おもしろがって、
機銃掃射をすることがよくあったという。

ドラマや回想録でもよく、
田舎の畦道とかで、
女性やこどもが、
米軍機の低空飛行の機銃掃射の犠牲になった話が出てくる。

それで思い出したのだけれど、
私の父方の祖母が話していたこと。

たまたま田舎の畦道を歩いていたら、
アメリカの戦闘機がすぐ近くまで飛んできて、
乗っているパイロットと目があったという。

顔がはっきり見えて、
目があうぐらいまで近くに来たらしいが、
そのままその戦闘機は飛んでいっていなくなったと。

もし、その米兵が、
他の米兵のように、
おもしろ半分、ふざけ半分に、
機銃掃射をしていたら、
あるいは今の私は存在しないかもしれない。

私の祖母は、
とてものんびりして平和な人間なので、
おそらくその時も逃げもせずに、
のんびりと見上げていただけだったのだろう。

前に聞いたときは、
よくそれがどういう状況なのかわからず、
そんなこともあったんだねー、ぐらいに聞いていたけれど、
けっこうきわどい、
運命の分かれ道の瞬間だったように思える。

戦争という状況にあって、
同じように戦闘機に乗っていても、
機銃掃射をする人としない人がいる。

祖母と目のあった米兵が、
どういう人だったのか、
ぜんぜんわからないし、
名前すらぜんぜん知る術がないけれど、

きっと面白半分に銃をうったりすることがない、
まともな人だったのだろう。
心優しい人だったのかもしれない。

きっとその背景には、
そういう人を育てた、
家庭や地域があったのかもしれない。

そればかりは、
もう運命のようなもので、
機銃掃射で非業の死を遂げた人も、
うちの祖母みたいに何事もなく助かった人も、
その差というのは、
きっと自力を超えた他力のはからいとしか言いようのないものなのだろう。

日本を空爆していた米軍に感謝する筋合いはないし、
そもそも米軍機が、
非戦闘員の民間人を殺傷することが多かったこと自体が、
大問題だったと思うけれど、

同じ状況の中で、
ちょっとした選択の違いが、
人のいのちを助けることも殺してしまうこともある。

そんな積み重ねの上に、
今の自分もあるのだなあと思うと、
なんとも不思議な気がしてならない。

私の父方の祖父は、
ちょうどその頃大陸に出征していたそうだけれど、
後方の補給部隊だったこともあって、
一度も人を殺さずに済んだそうだ。
銃を撃つような局面でも、
撃たずにすましていたらしい。
ひょっとしたら、
それで死なずに済んだ人もいたかもしれない。

もし戦争があったら、
いや、戦争ではなくても、
何かしらちょっとしたことでも、

私は、祖母と眼のあった米兵や、
私の祖父のように、
少なくとも避けられる局面では、
人に向かって決して発砲しない人間になりたい。
決しておもしろ半分に人を撃ったりしない、
そんな人間でありたいと思う。

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「いつか仏になろうと努力するより」


いつか仏になろうと努力するより、
今すでに菩薩である生き方を。

念仏さえ称えれば、
誰もが菩薩であると、
法然上人は説いた。

永劫宇宙とひとつになると定めれらた、
正定聚の菩薩だと。

普賢菩薩のような生き方をする、
菩薩だと。

それが、
それまでの仏になろうとする聖道門と異なる、
法然上人の説いた浄土門の教え。
浄土教の真髄。

今の自分を否定して、
仏になろうとしても、
いつか本当の自分になろうとしても、

たった今救われていなければ、
たった今が他ならぬ本当の自分だと知らなければ、
何になろう。

たった今、
今ここが、
久遠の光に包まれており、
無限他力の現われであり、

念仏の一声一声に、
そのことが明らかにされ、
永劫宇宙とひとつになり、
菩薩として生きていくことができる。
そこにこそ、
真実の生もある。

菩薩とは、
要するに仏のような人のこと。
三明六神通という超能力こそないけれど、
和顔愛語・勇猛精進・少欲知足の、
仏のような人のこと。

私はいまここで菩薩である。

念仏の中で、
そう自覚して、
自覚させられながら、

救いを求めるのではなく、
現に救われていることを感じながら、

ないものを求めるのではなく、
すでに与えられていることに感謝しながら、

菩薩として、
“仏”として、
あるがままに生きて往こう。

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「永劫宇宙の働きに生かされている味わい」


永劫宇宙の働きに生かされている。

ひたすら念仏すれば、
誰でもたやすくそのことを、
味わうことができる。

万法に証されるだとか、
言葉だけで言ってもどうしようもない。

自分自身が、
深いいのちを味わい、
生きねば、
宗教は何にもならない。

念仏し、
永劫宇宙の働きに生かされていることを味わい、
真に生きることこそ、
仏教の精髄、
大乗の至極。

念仏を知っていながらせずに過ごす人は、
無量の宝の山に入って、
むなしく帰るようなものだと、
法然上人は言ったけれども、
私もかつて本当にそうだった。

念仏三昧の中、
永劫宇宙の働きに生かされていることを、
味わう暮らしに、
歓喜信受がある。

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