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「ブログだとどうも実年齢より上に見られるようで」


ブログで、
えらそうに書いているせいだろうか、

ブログを読んでくださる方に、
どうも実年齢より上にイメージされていることが多いらしい。

最近いくつか、
とても恐縮することがあった。

まだ、二十代の若造なので、

いろんな方に教えを請いこそすれ、
誰かに何か教えられることなんて全然ないのです。

ブログやネットは、
顔が見えない分、
相手の実年齢や肩書が関係なくなるので、
ある意味フラットでいい面もある。

けれども、
ある程度は年齢がわかった方が、
ひょっとしたら、
お互いに心を開く時に便利な部分もあるのかもしれない。

どうぞ、遠慮なく、
いろんな方からいろんなコメントをいただきたいです。

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「阿弥陀仏四十八願の二重の解釈  霊的解釈と社会学的解釈」


無量寿経に説かれる、
阿弥陀仏の四十八の本願、
いわゆる四十八願は、
二つの解釈の仕方がある。

宗教的解釈と、
社会学的解釈である。

前者は、
浄土を死後、
あるいは今生で触れることができるとしても、
超絶的な超感覚的な、
霊界ないし、そういった類のものとして解釈する。

後者は、
四十八願を、
この地上に浄土を創造する願いとして解釈し、
現実的、社会学的に解釈する。

前者の宗教的解釈は、
浄土教の主流を占めている。
その中で、死後往生をとるか、
平生業成をとるかは分かれるが、
親鸞・蓮如等々の浄土真宗も、
弁長・証空等々の浄土宗も、
近代でも清沢満之や山崎弁栄など、
浄土教の主流は、
四十八願を宗教的に解釈する。

一方、後者の解釈は、
戦前の浄土宗の椎尾弁匡の共生浄土の提唱や、
戦後の、浄土真宗の島田幸昭さんや、
浄土宗の沢井信順さんの著作に見られる。
これらは、一見浄土教の主流と大きく違うように見えるが、
精緻なちゃんとした解釈を行っており、
浄土教を時代の中で再生するためにも、
極めて有意義な解釈の仕方だと思う。

それでは、日本浄土教の祖ともいうべき、
法然上人の場合はどうなのだろう。

法然上人の場合、
大半は前者に傾いているようだが、
「阿弥陀仏の本願のお宮仕え」という言葉で、貧しい人々を助けたりすることを勧めていることから考えれば、
後者の要素も存在していたと言える。

あまりにも四十八願を宗教的にのみ解釈すると、
社会や政治に没交渉な、
世の中に何も関らない宗教になってしまうだろう。

一方、後者の社会学的解釈に傾く人は、
浄土をあまりにも現実的に解釈しすぎ、
死後や霊性の問題を非科学的な迷信としてしまう傾向があるように思う。

私としては、
無量寿経は二重の意味がもともと含められており、
宗教的解釈(霊的解釈)と、
社会学的・政治学的解釈の、
両方を過不足なく行っていくことが、
正しい道なのではないかと思う。

霊的解釈からは光明生活が、
社会学的解釈からは共生浄土が、
それぞれ志向されると思われるが、
その両方が、
二十一世紀の浄土教に必要であり、
浄土教を現代において蘇生させ、
また社会からの要求にこたえる道を開くものではなかろうかと思われる。

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「靖国問題に見る“閉じられた精神”  干渉一般の是非について」


新聞に載っていた世論調査によると、

小泉首相の八月十五日の靖国参拝を、
国民のほぼ半数の人が肯定しているらしい。

その主な理由は、
中国韓国から干渉されることへの反発、
他国から干渉される筋合いはない、
ということらしい。

しかし、
とりあえず靖国の問題に関して、
中国と韓国が干渉することの是非はおいて、

一般的に、
他国の歴史認識の問題に干渉することは、
本当に不当なものなのだろうか。
それとも、その歴史認識が間違っていると思う場合は、
干渉が当然許されるべきものなのだろうか。

私は、
靖国に固有の正当性の問題はとりあえず脇において、
一般論として見た場合、
干渉はあって良いと思う。

たとえば、
アメリカにおいては未だに原爆投下が肯定されている。

原爆投下を肯定し、
投下した乗組員らを英雄視するようなショーもあっているという。

もし、大統領が大々的にそういったものに関ろうとするなら、
日本人ならば当然それらを批判すべきだし、
批判は不毛なことでも不当なことでもあるまい。

また、
もしヒトラーを祀った神殿に、
ドイツの首相がいま参拝したら、
決してポーランドやイスラエルやフランスは、
座視のできる問題ではあるまい。
それを批判するのは、当然正当だろうし、
むしろ義務のようなものだ。

ゆえに、
他国の歴史の問題に、
外国が批判したり干渉したりすることそれ自体が、
一般的に不当であったりおかしいとする態度は、
非常に閉鎖的で誤った態度のように思われる。

もし靖国参拝が、
上記二つの事例とはぜんぜん異なり、
固有の正当性を持つというのであれば、
それをきちんと説明すべきだ。

他国に干渉される筋合いはないとばかり言うのは、
独善的で閉鎖的な、
閉じられた精神ではなかろうか。

私は、
東条元首相などは非常に不運な人々だったと思うし、
ナチスのヒトラーやゲーリングらと同程度の悪人とは全然思わない。
しかし、中国韓国から見た場合、
そう見えるということは認識してしかるべきだろう。

干渉が不当と思うなら、
理路整然と、
決してA級戦犯の人々はナチスドイツのような邪悪な戦争指導者ではなかったこと、
大東亜戦争に大義があったことを述べればいい。

それもせずに、
一般的に他国の歴史に干渉すること自体を、
不当で不毛のように感じたり、耳をふさぐことは、
あまりに大人気ないし、
不毛な閉じられた精神のように思われてならない。

“閉じられた心”は対立を生むだけで、
何も解決しない。

他人の干渉に耳を塞ぐだけではなく、
こちらの言い分をきちんと理論立てて説明しようとし、
相手の言い分もいったんは聞いて、
その理屈を吟味して、おかしいと思ったらきちんと相手に指摘すること。
それが、
“開かれた心”であり、
そこからしか、何か建設的な、未来志向というものも生まれえないのではないかと思われる。

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「ブログの友達とはじめてチャットしてみた」


ええ、
本当はただの人なんですよ。

虚像をはっても仕方ないので、
あるがままに生きていけたらと思っています。

ブログではまじめなことばかり書いていますが、
ごくごく普通に日常を生きていて、

傍から見たら、
そんなに苦労はないように、
むしろ恵まれた人間に見えるのかもしれません。

自分は自分以上でも、
自分以下でもなく、
こんな感じで生きいていくしかないと思っています。

それでよければ、
また話し合い手になってくださいね。

海の見える岬で

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「海の見える岬で」


海が見える岬で、
いつまでも海を見ていた。

いや、海ではなくて、
二人でもつれあっていた。

波のように、
お互いに寄せては、

海のような君の中に、
私は溺れていた。

潮が吹き上げ、
波のように高まり、
光のように喜びがきらめいた。

太陽が燦々と降りそそぐ、
岬にとめた車の中で、

絹のような波を辿り、
大地の山に僕は頬をうずめていた。

何もなかったように、
また車を走らせて、
僕らはその岬を後にしたけれど、

たしかに、その時、
夏というものの確かな手ざわりと手ごたえを、
僕らはすこしだけ手にしていたのだと思う。

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