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円光大師

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「円光大師」


法然上人にとっては、
きっと大師号など、
どうでもよかったのだろうけど、

円光大師というおくり名は、
よく似合っている気がする。

全てを包む、
まるい愛、
まどかな光。
円光。

生きている時は、
寺をひとつも持たず、
流刑になり、
死後は弾圧のため墓まで破壊されたけれど、

何百年か経つうちに、
法然上人は、
朝廷や幕府の最も尊信する人物となって、
七つも大師号が贈られた。
円光・東漸・慧成・弘覚・慈教・明照・和順、大師と。

七つの大師号の追贈は、
日本の僧侶の中で、
ずば抜けて多い。
他の宗派の開祖にも例のないことで、

どうも、上人は、
浄土で微苦笑されているような気がする。

法然上人がいかに、
この八百年の間、
人々に愛されてきたことの証拠としてならば、
そんな大師号も意味のあることなのかもしれない。

しかし、幕府があまりにも祀り上げた結果、
かえって庶民に程遠いイメージがつくられてしまったならば、
意味のないことだろう。

大切なことは、
法然上人の徳を忘れないこと。

大師号も、
本来はきっと徳を忘れないためのものなのだろう。

七つある大師号の中では、
最初の円光大師という贈り名が、
私は一番法然上人にあっているような気がする。

法然上人の円かな光を、
忘れず、
照らされて、
私は生きていきたい。

今年の甲子園も終った

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「今年の甲子園も終った」


甲子園の決勝戦が終った。

今年の夏ももう終わり。

そろそろ、
現実に戻って、
片付けなきゃいけないことを、
いろいろしていかないとなあ。

甲子園の球児たちが教えてくれた、
負けじ魂を、
最高のプレゼントと思って、

もっとしっかり見習って、
私も歯をくいしばって、
この暑い中でも、
もっとがんばっていかなくては。

今日の決勝戦は、
本当に見事で、

三点差をつけられていたにもかかわらず、
あきらめずに九回の表から反撃して、
二点とりかえした駒苫ナインと、

連投にもかかわらず、
涼しい顔で全力投球した、
早実のエースの斎藤には、

本当にいろんなものを教えられた。

ひたむきに生きる時、
人間は周りの誰かにも、
きっと光を送り、
光を伝えているのだと思う。

ありがとう、
駒苫、早実。

ああ、
今年の夏ももう終わり。

これから、
釘付けになっていたテレビの前を離れて、
私も全力投球で私の人生を生きねばっ。

ふしぎな夢 ババジ

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「ふしぎな夢 ババジ」


今朝、ふしぎな夢を見た。

どこか旅に行っているらしく、
ふしぎな町を歩いていた。

「IHS」と書かれた、
十字架があった。
いろんな建物があった。

その中に、
バラックを積み重ねてつくったような、
ふしぎな建築群があった。

中に入っていくと、
観光名所らしく、
内部は意外と広く内装もきれいで行き届いていた。

その建物の中には、
教会もあるらしく、
そこに行こうと奥の方に進んでいったら、

「ババジ」と呼ばれている、
ヒンドゥー教の聖者がいて、
何人か人が集まっている集会があっていた。

(どうして、そんな夢を見たか、わからない。
ババジと呼ばれるヒンドゥー教の聖者がいることは、
名前ぐらいは私も知っているけれど、
ぜんぜんそんなに意識したことはない。
『ベッカムに恋して』という映画で、
えらいインパクトのあるひげもじゃのおじいさんのババジの絵が出てきたけれど、
あれとは全然ちがって、
夢の中のババジはまだ若い、
黒い長髪の、端正な人物だった。)

夢の中だからではあるが、
ババジに会えるなんてラッキーだなあと、
なんの違和感もなく、
私もその部屋の人々の中に入っていった。

一人ずつ質問ができるとのことだったので、
私も質問した。

自分がこの世ですべき仕事が本当は何なのか、
ずいぶん考えてきたけれどよくわからない。
生計を立てるとここと天職の関係もよくわからない。
そう夢の中では思っていたので、

「私は、仕事を何をすべきかわからない。
世の中の仕事に貴賤はないと思うし、
尊い仕事も卑しい仕事もないと思うけれど、
自分は何をすべきなのでしょうか」
と尋ねた。

すると、ババジは、
「興味のある仕事をなさい。
興味のある仕事をすればいい。
人それぞれが、自分が興味のある仕事をすれば、
うまくいくように世の中はできている。」

という答えだった。

それで、
なるほどー、っと感心していた。
たしかに、
天はうまく興味を人それぞれに分散して与えているのかもしれない。

私は感心して、
さらにババジに近寄ってしばらく話した。

ババジもダライラマ14世をとても尊敬しているというので、
私は直接会って質問したことがあるというと、
どうだったと尋ねられたので、
声を聞くだけで元気になりました、
というと、なるほどと嬉しそうにうなずいていた。

また、私の知り合いに、
アメリカ人ですごい霊能力者がいて、
聖人のような人です、
と言うと、
アメリカのどこだ?
と尋ねてきたので、
ジョージアあたりです、けれど世界中よく旅しています、
と言うと、
瞑想をしてそのあたりに意識を集中しているようだった。

そんな不思議な夢だった。

なぜこんな夢を見たのかわからないが、
ヒンドゥー教のババジを調べてみようと思った。
また、自分が興味があることをとことん追求すればいいのかもしれない、
と勇気をもらったような気がした。

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「科学と宗教は本当はひとつ」


もし、阿弥陀仏が“真実”という言葉を、
言い換えた表現であるならば、
(そう弘法大師や一遍上人は言った。法然上人や善導大師も似たようなことを)

科学と宗教は、
本当は一致するものだろう。

真実という生命体に触れる、
二つのアプローチということになるだろう。

だから、

科学に背を向け、
科学を無視するのは、
虚仮の宗教ではあるまいか。

本当はきっと、
この宇宙の真実を探求する営み、
人間の真実を探求する営みが、
そのまま、
念仏の生活だ。

真実を知り、
認識する一歩一歩が、

阿弥陀仏に触れる一歩一歩、
白道の一歩一歩。

そうなってこそ、
阿弥陀仏という、
真実の生命体に真に触れることだと思う。

宗教を失った科学は、
核兵器などの、
さまざまな害毒を撒き散らす狂気となって、
人類を破滅の淵まで追いやっている。

一方、
科学に背を向けた宗教は、
空疎な虚妄の夢の中に耽っている。

科学と宗教をひとつとするような、
そんな営みを、
念仏の中で真摯に求めてこそ、
真の往生(救済)もあろう。

宗教と科学は、
ともすれば互いに背を向けあってきたけれど、

この二つが一致する時、
本当に人間を救う営みとなると思う。

そこに、きっと、
本当の往生も、
本当の救済もある。

宗教とは、
要するに宇宙の愛に触れ、
人間の愛に触れることであり、

科学とは、
要するに宇宙を知ることであり、
人間を知ることであろう。

愛するとは、
知ることであり、
知ることは、
愛することでもあるはずだ。

そして、真に生きるとは、
愛することであり、
知ることである。

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