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「仏教・浄土教と私 つらつらと思い出」


私はどちらかといえば、
キリスト教の方に感動することが多く、
仏教には感心しないことが多かった。

中学生の時、
はじめて旧約と新約をすべて通して読んで、
とても感動した。
(いちおう、同時期に第二聖典や外典もひととおり目を通した。)

それに比べて、
岩波文庫に入っている仏典をいくら読んでもぜんぜん感動しなかった。
まだ、儒教の古典の方がよほど感動した。

中高生の頃は、
仏教なんて非常にくだらないものと思っていた。
蟻一匹殺すより、坊主千人殺した方がいいと思っていた(今も葬式仏教や僧侶に関してはあまりその気持ちは変わっていない)。

いま現代に生きる人間に、
なんら資することのない、
くだらないひからびた葬式宗教というのが、
長い間の私の仏教に対する見方だった。

今もって、
キリスト教の本からはわりと多くの得ることがあるし、
感動することが多いのに対し、
あんまり仏教の本で感心するものは多くない気がする。

はじめて、
仏教に生きたものを感じたのは、
あるドキュメント映画でダライラマを見たことだった。

その生気というか、
生き生きしたヴィヴィッドな様子と、
男らしいすごく良い声に、
とてもしびれた。

それから、
ダライラマの本を何冊も借りてきて読みふけって、
はじめて仏教に感動を覚えた。

要するに、
聖書やキリスト教の本には、
非常に生き生きした愛が脈打っているのに対し、

仏教の本にはいっこうに愛を感じなかったのが、
私がそれまでに仏教に感動できない理由だった。

ダライラマの本は、
キリスト教に匹敵するような、
本当の慈悲と愛が脈打っていた。

それから、
紆余曲折あって、
だんだん仏教にはまった。
ずいぶん参禅もしたし、
遍路にも行った。
そこで、それなりにみ仏の慈悲や愛を感じることもあったけれど、
あんまりはっきりした形ではつかめなかった。

そこから、
さらに紆余曲折あって、
禅や真言密教の聖道門では到底救われない自分にぶちあたって、
はじめて浄土門の、
法然上人のみ教えにめぐりあった。

それまでは、
長い間仏教自体をくだらないと思っていたし、
その中でもさらに浄土教など、
愚民の迷信ぐらいに思っていたけれど、

何ヶ月と浄土教の本ばかり読んで、
念仏を称えているうちに、
だんだん、
平等の慈悲というものが、
はじめてはっきり眼前にあらわれてきた。

法然上人は、
もっと早く読んでいればよかったのだけれど、
どうも教科書とかでは親鸞や日蓮や道元に比べて地味だし、
あるかないかわからない浄土を説くつまらないものぐらいに思っていたのが、

しっかり取り組んで読んでいくと、
まさに平等の慈悲を体現した人物であり、
その霊的内容の豊富なことは古今比類ないし、
非常に奥深いものだということがよくわかった。

最初からわかればよかったのだけれど、
愚かな私には、
いろいろ紆余曲折してはじめてわかることだったのだろう。

私が法然上人の何に感動したかといえば、
平等の慈悲、
言い換えれば愛だった。

結局、
私は未だに、
ダライラマと法然上人と弘法大師ぐらいしか、
本当に感動する仏教にはめぐりあっていない。

その三人ぐらいにしか、
本当に胸を打つ生きた愛には、
あまりめぐりあっていない。
(最澄や親鸞は、あるいは匹敵する愛があると思う。また、彼らの道を受け継いだ人の中には、中には祖師に匹敵する霊性の持ち主も徳本・弁栄等々いたと思う。)
(空也や行基は、非常に高貴な愛があったとは思うが、著作だけからではよくわからない。)

あれから、
ダライラマに直接質問して、
ことばを交わす機会があった。
本当に、
その慈しみのまなざしに、
み仏を見る気がした。

いったいに、
日本の仏教よりはチベット仏教の方がずっと、
霊性の点でレベルが高いと今でも思う。

私がそれでもチベット仏教にいかずにいるのは、
自分の根器の乏しさの自覚もあるけれど、
法然上人によってチベット仏教と匹敵するすばらしいものが、
日本の中の仏教にあることを知っているから、
ひとえにそのおかげによる。

私がなぜ、
キリスト教にいかなかったかというと、
理由は二つで、
あまりにも日本の風土や伝統を愛していたことと、
アメリカに対する反発が一貫して私の中にあるからだと思う。

よく考えれば、
内村鑑三や井上洋治さんのようにクリスチャンでも、
なまじな仏教徒や神道の人よりよほど深く日本人の魂を持った人もいるし、

プロテスタントはたしかにアメリカの宗教かもしれないけれど、
カトリックは必ずしもそうではないから、
べつだん反米だからクリスチャンになれないというわけではない。

だから、
結局、縁のようなものかもしれない。

あまりにも法然上人によって救われたから、
法然上人を愛しているから、
その道を捨てることができないだけかもしれない。

また、私の祖母は両方浄土真宗の篤信な門徒で、
小さい頃から仏壇の前で正信偈や念仏を称える姿が、
無意識のどこかにか刷り込まれてきた。
祖父母や先祖に、
念仏によってつらなることが出来るという要素も、
案外とても大きいのかもしれない。

どの宗教でも、
真理に至るいろんな道のそれぞれひとつであり、
どれでも真理に至りさえすればいいとは思う。
そして、
歴史の中で生き残ってきた宗教には、
それぞれに何らかの真理が含まれているとは思う。

けれども、
私は最も簡単で最も確実で、
平等の慈悲を体現しているという点で、
また父祖の宗教に連なっているという点で
法然浄土教から、
とうぶんは離れられそうもない。

ひとつの根源から

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「ひとつの根源から」


この世界の一切が、

そこから生じ、
そこに還るような、

そんな根源のことを、

唯識では阿頼耶識と呼び(もしくはアマラ識)、
弘法大師は大日如来と呼び、
法然上人は阿弥陀仏と呼んだ。

キリスト教やヒンドゥーは、
神と呼んできたのだろう。

もし、
この世のすべてのものが、
ばらばらのものではなく、

ひとつの根源から生じているならば、

目の前に映る世界は、
単なる風景ではない。

すべては、
意味を持った出来事。

根源の光が、
私に見せてくれたもの。

私に映し出してくれた、
光のプリズム。

今の私に与えてくれた、
プレゼント、
賜物。

根源の光が、
すべてを映し出していると知るだけで、

世界の見方は、
全然異なってくる。

六道四聖、
三千世界のすべてが、

阿弥陀仏の白毫の光の、
映し出したものと、
法然上人が言ったことを忘れず、

すべてを受け取り、
すべてに合掌礼拝し、
すべてを愛して、

すべて、
光の海の、
同じ一滴と知って、

一心称名して往こう。

「私にではなくて、ロゴスに聞いて、万物がひとつであることを認めるのが、智というものだ」
と古代ギリシャのヘラクレイトスは言ったそうだが、
ロゴスを阿弥陀仏と言い換えれば、
まったく浄土教の心と同じである。

阿蘇は魂の故郷

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「阿蘇は魂の故郷」


阿蘇は、
私の魂の故郷。

いまは浄土に往った祖父母に、
夏になるたびに連れられて、
赤子の頃から訪れてきた。

阿蘇の阿は、
南無阿弥陀仏の阿、
阿字本不生の阿。

阿蘇の山々の中で、
南無阿弥陀仏と称えると、
いのちがじんじん五体につたわり、
即身成仏したような、
そんな実感がする。

阿蘇の神様は、
中世には十一面観音だと信じられていた。

十一面観音は、
宝冠に阿弥陀仏の化仏を載せた、
阿弥陀仏の化身だから、

阿蘇に向かって、
南無阿弥陀仏と称えることは、
決して的外れではない、
きちんとした霊的な根拠のあること。

阿蘇の山並みは、
むかしから、
涅槃仏とも讃えられてきた。

見る角度によって、
み仏が横たわっている姿にも見えるから。

だから、
私にとって、
阿蘇の山は、

山そのものが、
阿弥陀仏の、

久遠のいのちの、
そのままの顕われ。

いくたびに、
いのち燃え、

魂の故郷に還ってきた、
ニルヴァーナとは何かわかるような、
そんな心地がする場所。

久遠涅槃の、
阿蘇の山並み、

南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏、

このいのちは、
甘露であり、
涅槃だ。

自分自身を讃嘆供養し

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「自分自身を讃嘆供養し」


自分自身を、
讃嘆供養し、

自分自身に、
良い目をあわせること。

それを、
もっと心がけること。

そのことは、
自分の中におられる、
み仏への、

他ならぬ供養であり、
奉仕であると思う。

それができて、
はじめて、

本当に、
人を讃嘆供養し、
良い目にあわせることも、
きっとできるようになるのではなかろうか。

自分は、
自分自身への、
恩人にも仇にも、
なりうる。

自分のいのちを、
虐待し、
否定することも、
この自分にはできる。

自分のいのちに感謝し、
良いものを味わわせ、
すばらしい場所に運ぶこととも、
この自分にはできる。

大切なことは、
この自分のいのちを愛し、
感謝し、

実はこの根源のいのちが、
阿弥陀仏のいのちであることに、
気付いて、
合掌礼拝していくことだと思う。

自分自身を讃嘆供養すること。
それは、
阿弥陀仏を讃嘆供養することに、
つながる道である。

そして、
阿弥陀仏を讃嘆供養することが、
真の自己自身への、
道でもある。

合掌礼拝の人に

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「合掌礼拝の人に」


人間を愛し、
自然を愛し、

人間に合掌礼拝し、
自然に合掌礼拝し、

人間の中の神の似像に、
仏性に、
手をあわせ、

自然の中の神の刻印に、
浄土に、
手をあわせ、

南無阿弥陀仏と称え、

一身称名に生きて往く。

そんな合掌礼拝の人に、
王三昧の人に、
私はなりたい。

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