念仏の詩

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

神々にも念仏を

イメージ 1

イメージ 2

「神々にも念仏を」


法然上人は、
神々にお参りするのはなんら差し支えないし、
この世のことを願う分には神社参りもいいことだと言った。

そして、神前においても、
念仏を称えるのが良いと言った。

その心を、
極限まで実践したのが一遍上人だった。
諸国のあらゆる神々に、
南無阿弥陀仏と称えてまわった。

明治に廃仏毀釈が行われるまでは、
この列島では仏と神々が仲むつまじく暮らしていた。

廃仏毀釈までは、
神社で南無阿弥陀仏と称える人も多かったようだ。

そうした中世の神仏習合の方が、
排他的で偏狭な近代よりも、
よほど深い霊性を具えていたように私は思う。

だから、私は、
いろんな神社にお参りする時も、
数珠をもって南無阿弥陀仏と称えよう。

およそ善い神々ならば、
南無阿弥陀仏と称える念仏の行者を必ず守ると、
法然上人は言った。

善神であれば、
南無阿弥陀仏と称えることを必ず喜ぶ。

空海・空也・法然・一遍の、
その心に私は生きよう。

神仏習合こそ、
日本の本当の心ではなかったろうか。

八幡も天照もさまざまな仏の変化身の神々も、
すべて阿弥陀仏を讃え仕える聖衆だと、
中世では考えられ信仰されていた。

たとえるなら、日本の神々というのは、
西欧における天使や妖精のようなものだった。

西欧の神の位置には、阿弥陀(大日)があった。

廃仏毀釈は、その意味で、
神々の解放というよりは、
天使や妖精が仕えるべき神を殺してしまい、
何が本当の宗教の対象なのかわからなくさせてしまうものだったように思われる。

ただ阿弥陀仏のみをたのみ、
そのうえで神々を敬うところに、
この列島に住んだ人々が、
中世の長い時間をかけて培った、
やさしい大らかな心のエッセンスがあったように思われる。

神にはたのまず、
仏にのみたのむ。
しかし、神々を軽んぜず、
ちゃんと敬う。

法然上人のこうした教えは、
とても微妙なものだけれど、
それだけに、
単なる排他的な一神教とも、
単なる節操のない多神教とも異なる。
本当の宗教の精髄がある。
そう思われてならない。


【参考資料】

一、 念仏を行したる物が、物まうでは、いかに。
答、くるしからず。
(百四十五箇条問答)

また云く、「また般舟三昧経の行品の中に説いて云ふが如し。仏の言はく、もし人専らこの念弥陀仏三昧を行ずれば、常に一切の諸天および四天大王・竜神八部の随逐擁護し、愛楽し相ひ見ることを得て、永くもろもろの悪鬼神、災障・厄難、横に悩乱を加ふることなし。つぶさには護持品の中に説くが如し」と。また云く、「三昧の道場に入るを除いては、日別に弥陀仏を念ずること一万、命を畢るまで相続すれば、即ち弥陀の加念を蒙つて、罪障を除くことを得。また仏、聖衆とともに常に来たつて護念したまふことを蒙る。既に護念を蒙りぬれば、即ち年を延べ寿を転ずることを得」と。
(選択本願念仏集 第十五節)


なお、法然上人の神祇観を、親鸞聖人のように「神祇不拝」・徹底した神道との対決という路線と、一遍上人の神仏習合という路線の、どちらに通ずるととるかは人により解釈が異なるかもしれません。
私の考えでは、論理的にどちらも排除しない、どちらであっても良いというのが法然上人の態度だったと思います。その場合、「ケガレ」観念に基づく神道はどちらの場合でも明確に否定・批判されていることが前提となっています。

「一番簡単な心の鎮めかたは」


時が経てば、
心の波は静まって、
いいことばかりが思い出される。

自分の心の奥底の愛や、
相手のよかったところやまごころばかりが、
思い出される。

心が波立ち、
波紋が広がる時は、
なかなかそんな気にはなれないけれど。

どんな出会いにも意味があり、
なにかしらどこかへと、
私を連れ出してくれたのだったと、
感謝して思えるようになる。

けれども、
どれだけ時が経っても心が波立ち続けることもある。
短い時でも速やかに鎮まることもある。

その違いは、
時の過ごしかたによるのだと思う。
どう静かにしのいできたか。
それが大切なのだと思う。

人それぞれ心の鎮めかたはあるだろうし、
それぞれ自分に一番向いた方法をとるのが一番いいと思う。
私自身は、一番簡単で速やかな方法は、
南無阿弥陀仏とただ称えることだった。

乱れる心のままでもいい。
ただ念仏を称えていると、
時が経つとともに、
だんだん心が浄化され鎮まっていく。

浄土がここに現前する。

そう法然上人は説いてくれた。
だから、私も乱れる心のままに、
念仏を称えるようになった。

愛の執着も怒りも憎しみも、
相手に原因があるのではなく、
自分の心の欲望が原因だと知った。

ただ念仏して、
過ごしていると、

必ず大きな大きなはからいの中で、
しかるべき時にしかるべく、
また縁も出会いも与えられると知った。

自分が自分の心を波立てては、
いくら時が経っても波は鎮まらない。

念仏申して時を過ごせば、
この南無阿弥陀仏という浄摩尼珠が、
一切を浄化する不思議な珠玉が、

心を鎮め、
本当の姿は何だったのか、
わからせてくれる。

照らし出してくれる。

大切なことは、
ただ念仏を申して、
この人生の時間を、
仏の願いの中で過ごすことなのだと思う。
浄土からの働きかけを受けとめ
無辺の悟りを開いて。

「日常を深めてこその仏教 尋常念仏」


日常を深めてこそ、
本当の思想であり宗教であり、
真理。

日常を離れて、
どこに真理を生かす場があり、
いのちの脈打つところがあろう。

日常からかけ離れたものなど、
本当の道ではない。

日常に実行することが難しく、
ましてや実行できないものなど、
日常を深めることには役立たないし、
日常を深く生きることにつながらない。

ただ南無阿弥陀仏と称えることは、
どんな日常の中でもできる。

法然上人が念仏の道を開いて、
はじめて日常に仏教が、
庶民に救いが、
日常の仕事や余暇や活動と共に、
み仏の願いと心が、
たやすく脈打つようになった。

尋常念仏、
日常の中での絶えざる念仏。

その中で、
日常が深化され、
生活が霊化され、
この身が光化され、
無辺の悟りが開かれる。

念仏を申しながら、
働き、
遊び、
学び、
生活しよう。

働きながら、
念仏をするのではない。
生活しながら、
念仏をするのではない。

念仏しながら、
一心称名しながら、
働き、学び、遊び、交わり、
暮らす。

その時、
仏の願いが暮らしに脈打ち、
仏に願われている中の生活となる。

惰性に流れていた日常が、
往生の日常へと、
仏のいのちが脈打つ日常へと、
変わっていく。

日常を霊化するか、
惰性にするかは、
念仏を主とするか、
従とするかによる。

そう、法然上人は教えてくれた。
日常は何よりも、
何を主とするかの生き方なのだろう。

尋常念仏、
日常の念仏、
念仏を主とした生活は、

“即身成仏”の日常の道、
この身このままで、
仏の遊戯神通の生活となりゆく。



【注】法然上人のことば
「たとい、余事を営むとも、念佛を申し申し、これをする思いをなせ。余事をしし、念佛すとは思うべからず。」(つねに仰せられける御詞)
なお、全く同じ意味の言葉、「祈り、かつ働け。働け、かつ祈れ、ではない」ということが、キリスト教の聖人にも言われているらしい。
日常はたやすく惰性に流され、むしろその方が常態であるために、祈りや念仏を主とすることが、洋の東西を問わず大事にされてきたのかもしれない。また、日常から離れない宗教こそ真と思われる。

「いっしょに南無阿弥陀仏」


すでに南無阿弥陀仏と縁のある人々と、
いっしょに、
南無阿弥陀仏と称えることができたら。

南無阿弥陀仏にまだめぐり逢っていない人で、
その人にとって念仏が一番向いている人々と新たに、
いっしょに、
南無阿弥陀仏と称えることができたら。

生きている喜びに満ちている人と、
いっしょに、
感謝の心から南無阿弥陀仏といっぱい称えることができたら。

生きていく力をなくしかけている人々と、
いっしょに、
生きる力が湧いてくる南無阿弥陀仏をいっぱい称えることができたら。

あらゆる国のさまざまに生きている人々と、
いっしょに、
南無阿弥陀仏と称えることができたら。

亡くなった人々と、
いっしょに、
南無阿弥陀仏と称えることができたら。

草や花や木や鳥や、生きとし生けるものと、
いっしょに、
南無阿弥陀仏と称えることができたら。

観音・勢至・文殊・地蔵、
あらゆるみ仏や神々と、
いっしょに、
南無阿弥陀仏と称えることができたら。

阿弥陀仏と、
いっしょに、
南無阿弥陀仏と称えることができたら。

私には、
生きてきた甲斐があったし、
本懐を遂げたことになる。

だから、
生きている間は、
皆といっしょに、
一心称名していこう。

そして、
皆いっしょに、
光の子となり、
光の国に生まれ往こう。

「むずかしいことは仏教には何もいらない」



むずかしいことは、
仏教には何もいらない。

ただ光の子となるだけでいい。

何十億年以上も前から、
他ならぬこの私をめあてにして、

み仏が(大宇宙が)、
さまざまな願いをかけ、
配慮をしてきた。

だというのに、
私はずっと気付かずに、
不信と疑惑の中を、
くりかえし生きてきた。

けれども、
み仏は、
「南無阿弥陀仏」ということばさえ称えれば、

速やかに光の中に救い摂って、
光の国へと連れていくと約束してくれた。

この約束を信じて、
ただ南無阿弥陀仏と称えるだけでいい。

自分の努力や能力では、
光の中を生きることも、
光の国に往くこともできない。

ただ南無阿弥陀仏と称え、
何十億年以上も前から私にかけられた、
み仏の願いを受けとろう。

そうすれば、
十二の光がそそがれ、
光の子となり、
光の国に生まれ往く。

仏教の奥義は、
ただこれだけだ。

釈尊が悟ったのは、
このみ仏の願い(大宇宙の縁起の法)に他ならない。

そして、
後世の煩雑な経典や学問の山が見失ったこの真髄を、
再びつかみとって明らかにしたのが、
法然上人だった。
そして、実際法然上人ほど、
み仏の心を生ききった人はいなかった。

むずかしいことは、
仏教には何にもいらないし、
仏教を生きるのに、
何の役にも立たない。

ただ南無阿弥陀仏と称えて、
光に生まれ往けばいい。

むずかしいことは、
仏教にも、
宗教にも、
人生の救いにも、
何にもいらない。

ただ南無阿弥陀仏と称えれば、
光の子となり、
一切を昇華し、
光の国に生まれ往く。


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事