法然讃歌

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一枚起請文

「一枚起請文」

一枚起請文を暗記した。
読めば読むほど本当にすごい文章。

一休は賛嘆し、
徳本はただこの文だけによって悟りを開いた。

おそらく、宗教の真髄として、
これ以上の短く、これ以上の深い文章はめったにあるまい。

いくたびか暗誦して、
心がふるえるのを感じた。

なんとも、
読めば読むほどふしぎな、
ありがたい文章。

法然上人は本当に、
一徹な一途な一行に徹した人だった。
そう思う。


※ 参考資料

「一枚起請文」

唐土(もろこし)我朝にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、
うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。
ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して 南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。
この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、
尼入道の無智のともがらに同じうして、
智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
証の為に両手印をもってす。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、
滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。
建暦二年正月二十三日 大師在御判

法然上人の詩

「法然上人の詩」


法然上人の文章を読んでいると、
この上ない詩を感じる。

「うけがたき人身(にんじん)をうけて、
あいがたき本願にあいて、
おこしがたき道心を発(おこ)して、
はなれがたき輪廻の里をはなれて、
生まれがたき浄土に往生せん事、
悦びの中の悦びなり。」

喜びが鳴り響いている、
こんなにテンポの良い文章は、
日本の古文中めったにあるまい。

親鸞聖人も一遍上人も、
この上ない詩人だったが、
一見すると詩の形式をとらない法然上人の文章の中にも、
実は二人にひけをとらない詩がある。

和歌や今様もほんの少しだけ残しておられるけれども、
法然上人は文章全体が、
そして人生そのものが、
誤解を恐れずに言えば、
一大宗教詩だった。

あの平家物語も、
おそらくは法然上人がいなければ決してできなかったと言われる。
聖覚か信空か、
法然上人の弟子の一人が平家物語を制作する中枢にいたと言われる。

けれども、私は、
あの無常と悲しみに満ちた時代に、
誰よりもそれを知っていたうえで、
魂の喜びの声を鳴り響かせたところに、
法然上人のこの上ないすばらしさがあると思う。

「天に仰ぎ地に臥して悦ぶべし、
このたび弥陀の本願にあう事を。
行住坐臥にも報ずべし、
かの仏の恩徳を。」

こんなにも喜びに満ちて生きることが、
どんな時代であってもできるのだ。

法然上人のたとえ話

「法然上人のたとえ話」


人間に生まれるのは、いかにかけがえのない、貴重なことか。
六道輪廻の中で、人間に生まれるのは本当にむずかしいのである。
高い天から糸を垂らして、
海の底の針の穴に通すようなものである。

自力で救われることがいかにむずかしいか。
針を使って、
とてつもなく巨大な山を崩すようなものである。
それぐらい、輪廻転生でつちかってきた業や煩悩は大きなものだ。

他力で往生することがいかに簡単か。
とても小さな虫でも、
麒麟のしっぽにしがみついてさえいれば、
麒麟が遠い世界までひとっ飛びするのにくっついて、
はるか遠くの世界にまで往くことができる。
本願に乗って往生するのも、
これと同じ。

身をつつしんで罪の軽いひとの方が、
罪の重い人より同じく念仏を称えても往生しやすいのではないかという疑問に対して。
そんなことは決してない。
麻のもみがらのような軽いものも、
大きな岩も、
両方とも巨大な船に乗せれば、
同じく海を渡っていく。
念仏往生もこれと同じ。

念仏は、あらゆるものを浄化する不思議な宝石。
念仏は浄摩尼珠。
だから、まず池や湖をきれいにしてから念仏を称えようとするのではなくて、
念仏を称えることによって自ずと水も澄むと。

このような、
いくつもの法然上人のたとえ話を聞くと、
とてもむずかしい教理が、
手に取るようにわかりやすく思えてくる。
宗教的天才というのは、
誰もたとえ話の天才かもしれないが、
法然上人のたとえ話も、
本当に第一級だ。

生きている法然

「生きている法然」


限りない慈しみのまなざしを向け、

誰をも裁かず、受け容れて、
その悲しみを自分の心に映し、

あなたはとても大事な存在です、
決して自分を卑下してはいけないと、

必ず光に照らされると、

説き続けた法然上人。

金剛草履ひとつで歩き回り、
市井の中で、ひとつの寺も持たず、
権力の弾圧にもひるまず、
念仏を説き続けた。

戦いに傷ついた人々、
生きていく希望を失った人々、
うちひしがれた人々、
誰をも見捨てずに、
粥を配りつづけた。

その本当の強さ、やさしさ、
大悲を、
一人でも多くの人に知ってもらいたい。

今もこの星この国にこだまする、
南無阿弥陀仏の声のするところ、
必ずそこに法然上人がいる。

弟子がどこを御遺跡にしましょうかと尋ねると、
自分はどこにでもいる、
念仏の声がするところ津々浦々に自分はいると、
法然上人は遺言された。

自分から枝分かれした宗派の人々が自分のことを忘れても、
法然上人は一向にかまわなかっただろうが、

法然上人が今も生き続け、
どこにでもその大悲の声が響いていると、

十二世紀と同じく末法の二十一世紀に、
生き難さを歎じている人々には特に、
知ってもらいたいと私には思われてならない。

「半年ぶりに選択集を読んで」


半年ぶりに、
丹念に選択本願念仏集を読み直した。

半年前、
この一冊の本との出会いで人生が変わった。

いま、
あの時は気付かなかったこと、
見落としていた素晴らしいことばを、
半年間いろんなことがあったおかげで、
気づくことができた。

そして、
改めて純粋な念仏に生きようと思った。

そして、ただ念仏を称えてきただけでも、
この半年間はすばらしかったと思い直した。

選択集、
なんと論理的に鋭く、
行間に無限の豊かさがこめられた、
すばらしい本だろう。

法然上人は、
間違いなく本願に気付いた第一等の人物だった。

定善(瞑想)を、
決して法然上人は廃棄したわけではない。
瞑想に耽るあまりに、
念仏を称えなくなるのを戒めているだけだ。
そのことが、今回改めてわかった。

これからは、一心に称名しながら、
合間にもっと真身観文を読んでいこう。

観音勢至を友とし、
いつも阿弥陀仏と諸仏に護っていただいていることに気付いて、
生きていこう。

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