共生浄土を求めて 時事・歴史

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「ニートやひきこもりももっと声を出したらいいのに」


私もニートやひきこもりと似たようなメンタリティで、

そんなにパワフルでもないし、
競争社会に意味を見出せないところや、

最初から満たされていて、
何が欲しいのかわからなかったところや、

ローテンションでまったりしている方が好きなところや、
のんびりしているところや、

いろんな要素が同じで、
世代も同じだし、
ぜんぜん裁いたり文句を言う筋合いはないのだけれど、

ひとつ言いたいことは、
黙ってないで、
いろいろ言ったらいいんじゃないかなってこと。

いろいろうざったく思われても、
尾崎みたいにほざけばいいんじゃないかってこと。

黙っていると、
何も意欲もなければ目的もないと思われてしまう。

黙っていると、
軍隊みたいなハイテンションが大好きな、
お上にいいようにされてしまうかもしれない。

黙っていると、
いつまでたっても雇用のあり方も変わらなくて、
勝ち組負け組みの差はどんどん開いて、
フリーターが正社員になりにくい仕組みは変わらないかもしれない。

弱肉強食万歳の、
小泉改革のような風潮に違和感を感じるなら、
その感じている違和感を、
そのままことばにして声に出せばいい。

もし意欲があるなら、
それをはっきり主張すればいい。
言いたいことがまだことばにならないなら、
ことばを探してもがいていることを言えばいい。

いちばん問題なのは、
黙ってしまうこと。
納得いかないのに黙って従うこと。

私は、ニートやひきこもりが意欲も目的もなく生きているとは思わないが、
もっと声をあげたらいいのに、とは思う。

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「ニート叩きはやめようよ」


ニート叩きの世の中の風潮に、
なんとなく心が重苦しくさせられる。

私は厳密に言えばニートではないが、
潜在的にはニートみたいなもので、
そのメンタリティはよくわかる。

お金がありさえすれば、
高等遊民か若隠居になりたいと思うし、
今もあんまりそれと違うわけでもない。

しかし、そんなに今の若者は本当に問題があるのだろうか。
戦後直後に比べれば、殺人や強姦の件数はむしろ大幅に減っているし、
いつの時代も働かずにぶらぶらする人はむしろ一定数常に存在していた。

勝海舟や福沢諭吉の回想録を読めば、
ごくごく一部を除けば江戸時代の武士なんてのも随分いい加減なくだらないものだったとわかるし、
金子光晴の回想録を読めば明治人だって実にバカバカしいところが多かったとわかる。

司馬遼太郎や江藤淳は、過去の美化のしすぎだし、
そもそも、昔の日本人がそんなに立派だったのなら、
今の日本がそんなに堕落するわけはない。

だいたいいつの世も、
ごくごく普通の意気のあがらない人間が多かったものだろうし、
ハイテンションな人間が多すぎたり求められるのはむしろ不幸な時代だろう。
世界第二位の経済大国になりながら、
いつまでもプロジェクトXのハイテンションを持続しろという方が土台無理な話だ。

フリーターやあんまり就職活動に励まない若者が多いのは、
本人の問題よりも、
大学新卒中心の企業の求人採用のあり方の問題が大きいのではなかろうか。
雇用や採用方法についてまともに改善の手段を何も考えず、
バブル経済崩壊のつけを長い不況で押し付けておいて、
若者にばかり責任を求めるのは、
良い結果を何も生まない不毛なことではないか。

いつの世も、
人を支えるのは無条件の愛と大らかさだと思うが、
それらがとんと欠けてきた気がする昨今のニート叩きの風潮。
法然上人も43歳までこれといっためざましいことをまだしないで、
長い間学問求道にふけっていたようだし、
一休さんだってぶらぶらしていたみたいで、
今風に言えばニートみたいなものだったのではなかろうか。

私は、あまり根拠の無い不安扇動のひどい世は、
どうも息苦しく生きづらいと思われる。
念仏を称えながら、
ローテンションで自由に生きていける世であって欲しいと思う。

少なくとも念仏者は、
世の風潮からは超然として、
早稲も晩稲もみんないつかはそれぞれのペースで、
育って花咲き実を結ぶと、
人それぞれの発育開花を信じて阿弥陀仏におまかせする、
そんな自由とのどかさを忘れずに持ちたいものだ。

武士道やら儒教やらは、
ニート叩きに奔走するかもしれないが、
念仏者や浄土教は、
ニート歓迎、
のんびりそれぞれのペースで生きろということで、
そんな根拠の無い批判はやめようというとこだ。

白バラを偲んで

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「白バラを偲んで」


本当に稀有な、
三千年に一度咲くという優曇華の花のようだった。

21歳だったゾフィー・ショルや、
彼女の兄や友たち、
大半が二十代の若者だった「白バラ」。

ナチスに対する批判を、
誰もできなかったあの時代に、
人々に抵抗を呼びかけるビラを配り、
逮捕されて処刑された人々。

流れにさからうことは、
どれほどの勇気がいったろう。
彼らは歴史に白いバラを一瞬だけ咲かせ、
無残にもすぐに散らされてしまった。

六十年以上経って、
遠く離れた国の私だけど、
なぜだかとても彼らにひかれる。

それは決して今も、
戦争や不条理がなくなってはいないし、
彼らと同じだけの理性と勇気を、
私たちが持てているわけではないからかもしれない。

彼らのほとんどはごく普通の中産階級に生まれ、
共産主義者でも貴族でもなかった。
ごくごく普通の人々だった。
ただとても敬虔なクリスチャンだったという。
ただキリスト教の理念から、
あのような抵抗の勇気を紡ぎ出した。

日記やメッセージを読むと、
胸を打たれるのは、
打算のない、
自由を求める精神の気高さ。
理屈ではない愛。

あの時代において、
世の中の狂気と不条理に心を痛めた人は他にもいたのかもしれないが、
実際にそれを言葉に出して表現できた人はほとんどいなかった。

私はクリスチャンではなくて、
東洋の浄土教の一念仏者だけれど、
もし同じような状況であれば、
彼らにあやかりたい。

人間として、
信仰を持つものとして。

念仏者は、
白バラに匹敵する白蓮を、
はたしてどれだけ咲かせてきたのだろう。

あの時代、
私たちの国に「白バラ」が現われなかったのは、
その必要がなかったからなのか。
それとも、真の信仰と勇気がなかっただけなのか。

人類にとって、
ナチスのような狂気や暴力は、
過去のものとなったのだろうか。

もしそうではないなら、
白バラを忘れてはなるまい。

二度と、
繊細なきれいな花を、
醜く手折ってしまうような、
野蛮と鈍感と非道の時代は、
くりかえしてはなるまい。

濁流に飲まれない、
清らかな泉は、
今も保たれているのだろうか。

私たちはヒトラーと白バラと、
どちらの心を今も受け継いでいるのだろうか。

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「浄土をこの土に反映させよう」


浄土は、
遠くはるかかなたにあるわけではない。

たったいま、
この心の奥につながっているもの。

死後に浄土に往生することも大事だが、
生きているうちに浄土の荘厳を生きること。
それが法然上人の示した道だった。

たった今、
この場所において、

浄土の色彩をもって、
この地上をいろどっていくこと。

そのためにこそ念仏者は、
ひたすら南無阿弥陀仏に、
心を紅葉のように染め上げていくのだ。

無量寿経や往生論の絢爛たる浄土の光景は、
この土を浄める理想となって、
実際に働く。

浄土を願い、
理想を抱き、
そしてこの世に共生浄土を実現しよう。
この世に浄土を反映させよう。

南無阿弥陀仏に生きる者は、
ただあの世の往生を願うだけではなく、
この世において浄土の光を反映させるのが本当だ。

往生は平生に、
浄土に生きるのはたったいま生きている時からだと、
はっきり法然上人は説いた。

一声一声の南無阿弥陀仏によって、
浄土が私の中に働きだす。

そのことを自覚して、
この現実に浄土の理想を生かそう。

この地上に、
浄土の荘厳と光を反映させ、
心と生活を浄土の色に染めていこう。

南無阿弥陀仏がそうしてくれる。
私はただ信心をいただき、
浄土の光の子となろう。

普遍か愛国か

「普遍か愛国か」


善とは、無限へ進むこと。
悪とは、その逆に落ち込むこと。

最近、愛国心を教育に盛り込もうと与党がしているらしい。
まず、疑問なのは、
愛国心は教えられないと持たないものなのかどうかということだ。
ずいぶん子どもを馬鹿にした話である。

それに、力点を持つのはどっちにすべきなのだろう?
人類の普遍的精神史との関係か、
それとも自国のことを知り愛する心か。

自国を愛する心は、
まともな国ならば自然発生的に起こるものではないか。
目に見、耳に聞き、
日ごろから接する郷土にはおのずと愛着が湧くものである。

郷土からさらに離れた国家レベルへの愛情を湧かすのは、
メディアや教育かもしれないが、
民族独立の時ならいざ知らず、
エリートでもない庶民に、
そんなに国家のために奮闘することを求めるのはお門ちがいだろう。
税金をきちんと支払い、まじめに働いていれば、それ以上に国家に忠誠を尽くすよう求めるのは求めすぎというものである。
国家は庶民が幸せに暮らすための道具であり、
決してそれ以上に関りあいたい目的ではない。

まともな国なら自然に愛着は湧く。
もし、まともではない国に人為的に愛国心を起こすなら、
まずはまともな国にすることが大人のつとめであろう。

愛国心が自然発生的に起こるものならば、
努めて起こすべきなのは、
むしろ普遍的な開かれた精神の方ではないか。

精神的な鎖国を開いて、
開いた心にするのは人為的な努力がある程度必要なことである。

幸い日本には、
聖徳太子や弘法大師以来の仏教と、
明治の開国以来の西洋研究という、
非常に開かれた心と実践の蓄積がある。

しかし、どの程度この人類普遍的な精神の営みが、
今も大事にされて、さらに伸ばされているかは、
甚だ疑問である。

子どもの精神は、
小さな島国に閉じこめるよりは、
まずは人類普遍に、
無限の方に伸ばそうとすべきではあるまいか。

およそ人類を愛するほどの人には、
必ず自分の周りの国や地域を愛する精神が具わる。
だが、逆は必ずしもそうではない。

親鸞聖人が言ったように、
聖徳太子か物部か、
開かれた心か狭い心かの闘いは、
いまも続いているのかもしれない。

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