宗教・浄土仏教について

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「念仏と供養について若干の考察 その1」


亡き人のために、
念仏をしたり、
祈ったりすることも大事だと思うけれど、

私はどちらかというと、
すでに亡くなった、
浄土に往生した人々が、

いかに自分を今も愛し、
守り、
願っていてくれているか、

彼らがいるからこそ、
今の自分があるということを、

感謝することの方が、
大事なのではないかと思う。

浄土教と、
他の仏教諸宗派とでは、
ここが大きな相違点だと思う。

先祖の祟りを恐れ、
必死に成仏してくれることを願って、
恐れの気持ちから供養する、
そうした聖道門の態度と、
(場合によっては、聖道門の寺院の多くは死後の世界の実在を全然信じていないのに、金儲けのために形だけ供養をしているのかもしれないけれど)

すでに亡き人が浄土往生したことをきちんと知り、
自分がそうした浄土にいる方々の働きかけや願いの中にいることに、
心から感謝して、
愛と感謝から念仏を称えて過ごす浄土教の態度と、

どちらが、
人間的で、自由な態度と感じるかは、
人それぞれの好みかもしれないけれど、
私としては後者の方だ。

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「念仏と供養について若干の考察 その2」


亡き人のために念仏をしたり祈ったりすることは、
決して無駄ではないし、
場合によってはとても必要だと思う。

浄土教も、
すべての人が最初から成仏すると言っているわけではなく、
生前から信心をいただいて念仏を称えている人のみ、
速やかに浄土往生すると言っているわけで、
そうでない場合は、念仏を供養するのもいいのかもしれない。

浄土教では、
他の道を通っても、
中には往生を遂げる場合も稀にはあると認めているけれども、
それはとても難しい道のりなので、
たいていは六道に輪廻すると考えている。

法然上人は、
「当時日ごとの、お念仏をも、かつがつ回向し、まいらせられ候うべし。
亡き人のために、念仏を回向し候へば、阿弥陀仏、光を放ちて、地獄、餓鬼、畜生を、照らし給い候へば、 此の三悪道に、沈んで、苦を受ける者、その苦しみ、休まりて、命終わりて後、解脱すべきにて候。
大経に もし三途勤苦の処に在りて、此の光明を見奉らば、皆休息を得て、 又苦悩無し。寿終の後、皆解脱を蒙らんと云えり。」
と述べている。

要するに、
亡き人のためには念仏さえ称えれば、
阿弥陀仏の光に包まれて、
どんな人でも苦しみが止んで、解脱できると述べている。

そして、法然上人は、
在家も出家も、
念仏の功徳に変りはないとはっきり述べているので、

先祖の供養も、
何も坊主に高い金を払ってする必要はなく、
自分が真心をこめて南無阿弥陀仏と称えるのが、
一番いいということなるのではないかと思う。

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「浄土教とキリスト教の比較考察」


日本が中世から近世に移行する時代、
室町末期から桃山・江戸時代において、

最もおびただしい殉教者を出し、
時の権力から弾圧され、
あるいは権力者に対抗して闘ったのは、

間違いなく、
浄土教とキリスト教の二つだったろう。

そして、二つには大きな共通点がある。

「天地同根萬物一体、
一切の衆生貴賤を撰ばず」

(天も地も同じ根っこつながっており、
すべてのものは一体だ。
あらゆる生きとし生けるものは、
身分の上下はなく平等である。)

これは天草四郎の言葉だが、
浄土教のスローガンと言ってもいいぐらいだと私は思う。
一向一揆の心と同じだったと私は思う。

もともと、この天地同根万物一体という言葉は、
阿弥陀経を翻訳した鳩摩羅什の弟子の、
僧肇の著作・肇論に出てくる言葉。

法然上人も、
すべての人が平等だということを、
阿弥陀仏のもとで一つだということを説いた。

天草四郎の陣中触書には、
「後生」という言葉が多用されるけれど、
これも法然上人や蓮如上人をはじめ、
浄土教において広まり親しまれた言葉であることは言うまでもない。

人間の平等や救済への希求、
不条理で理不尽な領主権力への抵抗、

それらの要求は、
浄土教の一向一揆も、
キリスト教の島原の乱も、
まったく同じだったと思う。

近畿・北陸・東海地方等では、
一向一揆として表現されたことが、
九州では、
キリスト教を通して表現されたように思える。
時として、同じ言葉まで使われていた。

その点からすれば、
非常によく似た現象であり、
共通点を持った宗教だったと言えよう。

ただし、
この二つには大きく異なる点もあった。

まず第一に、
浄土教は同時代の外国の勢力とはなんら結びついていなかったのに対し、
キリスト教はスペイン・ポルトガル・イギリス等の、
西欧の勢力と結びつく可能性を持っていた。

キリスト教が、
同時代の西欧世界と直接結びつくパイプとなったことは、
西欧の文化との交流など、
大きな可能性を開くと同時に、
外国の勢力が日本に侵略をする手引きになるかもしれないという危険性を伴っていた。
(実際は、当時の日本の陸軍力は世界でも非常に強力な方だったし、西欧も日本と中国の軍事占領は不可能だと判断していたらしいから、杞憂だったかもしれないが。)

徳川幕府が、
浄土教に対しては弾圧せず、
キリスト教に対しては峻厳な弾圧をもって臨んだのは、
このことが大きな理由だったろう。

第二に、
浄土教は、
本当は「神祇不拝」などの要素を秘めていたとはいえ、
従来の日本の伝統文化とさほど不調和を起こさない、
調和の範囲内にあったのに対し、
キリスト教は、
たとえば切支丹大名の領内において寺院や神社が破壊されたように、
日本の伝統文化との不調和やその否定をもたらす要素があった。

そのことが、
神道や仏教の保守派や、
幕府・朝廷からキリスト教が警戒され嫌われた理由だったろう。

三つ目の理由は、
織田信長と対決した浄土真宗が、
その実力が決して侮れないことを、
おびただしい犠牲と十年間に及ぶ戦争の末、
信長に認めさせたことがあったという理由もあったように思う。

権力の側も、浄土真宗を敵とすることの大変さを十分に認識したし、
一方、本願寺の方も闘いの過程でだいぶ妥協し、歩み寄った。

また、徳川家康も、
一向一揆との苦い戦いを通じて、その実力をよく知っていたし、
自身浄土真宗とよく似た浄土宗に帰依しており、
念仏を精神的支柱としていたことも、
浄土教を弾圧しなくなった理由だったかもしれない。

それに対して、キリスト教は、
あくまで日本全体から見ればまだ少数勢力であり、
圧殺しようとすればできないことはない勢力に過ぎなかった。

その他にも理由はあったかもしれないが、
この三つの主要な理由に比べれば二次的な問題だったように思われる。

それらの結果として大きな差が生じ、
キリスト教が、
江戸時代の間長く弾圧されたのに対し、
浄土教は
浄土宗は徳川幕府の菩提寺に、
浄土真宗も公然と認められた宗教となって、
なんら弾圧は受けなかった。

そのことは浄土教にとって、
非常に恵まれたことでもあったろうけど、
いくつか問題点もはらんでいたと思う。

いつの間にか弛緩して、
権力との緊張関係を失い、
日本の空気や伝統に、
悪い意味で同調し過ぎたように思われる。
そのつけが、近代以降噴出したように思われる。

また、浄土教とキリスト教を比較していて思うのは、
キリスト教は天正遣欧少年使節を生み出したり、
非常に日本と西欧世界の現実とが結びつくきっかけになっているのに対し、
仏教・浄土教は、明治にいたるまで、
インドや中国等の現実とあまり直接結びつかない傾向が強かった。

そもそも仏教において、
インドに直接行こうとした人物自体が、
弘法大師の弟子の高丘親王ぐらいで、あまり聞かない。
明恵も志したらしいが、結局実行に移さずにやめている。

中国には、けっこう渡っている人物も多いが、
初期の密教僧や禅僧がほとんどで、
浄土教はあんまり中国にも渡っていない。
書物を通じてはともかく、
海外との交流があまりない気がする。
澄円が慧遠流の念仏を学んできたということと、
蓮如が契丹人と交流があったということぐらいしか思いつかない。

もちろん、明治になってからは、
弁栄上人や大谷光瑞がインドに行ったりしているのだが、
キリスト教と比べて、この差は単に航海技術だけに還元されるのか、
非常に不審に思われる。

一向一揆の戦術においても、
同時代の中国の白蓮教などと結びつく余地はなかったのだろうか。
蓮宗宝鑑などはけっこう日本でも読まれていたらしいので、
ひょっとしたら白蓮教のことも意識や念頭にあったのかもしれないけれど、
どうも海外の情勢と没交渉だったように思われる。

日本にやってくる海外の仏教僧にしても、
古代においては清賀上人のようにインドからやって来たという人物の事績もあるし、
鑑真のように甚大な影響を日本に与えた中国僧もいたけれど、
古代を除いては、あまりない気がする。

禅僧は、鎌倉時代も江戸時代も、かなり多く亡命してきたけれど、
一部の武士等特権階層にはともかく、
庶民にはほとんど関係なかったように思われる。

キリスト教の宣教師が、
アルメイダなど日本の庶民の中に入っていった姿勢と大きく異なる。

こうして考えてみると、
権力への妥協と、
海外との没交渉・閉鎖性という、
浄土教や仏教の問題点が見えてくる。

本来は、浄土教がキリスト教にひけをとらない強烈な信仰と力を持っていたことは、
戦国時代にキリスト教以上に権力者との闘いでおびただしい殉教者が出たことや、

江戸時代においても、
薩摩や人吉など、浄土真宗が禁制となった地域では、
かくれ切支丹同様、かくれ念仏が存在し、
三百年間の間、弾圧をかいくぐって信仰の火をたやさず保ち続けたことからもうかがえる。

浄土教は、
キリスト教と比較してみると、
案外欠点や長所も、
発見しやすくなるかもしれない。

ただ、比較する場合に忘れてはならないのは、
根源は同じだということだと思う。

きっと法然上人や鈴木重成のような人物は、
キリスト教の観点から見ても立派な人物だったと思うし、

アルメイダや天草四郎のような人物も、
仏教の観点から見ても立派な人物だったように思われる。

そんなことを、
旅先でつらつらと思った。

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「鈴木重成と富岡の切支丹供養碑   ―浄土教とキリスト教」


天草の旅で、
もっとも心にのこったのは、
鈴木重成という人物についてのことだった。

それまで、
名前ぐらいはかすかに聞いたことがあったが、
よく知りもせず、
興味もなかった。

江戸時代初期、
島原の乱ののち、
代官として天草の復興に尽くした人物。

天草の年貢半減を幕府に訴え続け、
ついに自害し、
その実現を果たした人物。

よくは知らなかったその精神に、
富岡の供養碑ではじめて触れた。

富岡の吉利支丹供養碑とは、
鈴木重成が、
島原の乱で亡くなったキリスト教徒たちの供養のためにつくった碑文。

非常に大きな、見たこともない一文字が中央に書いてある。
鳥が右の方に書いてあり、こんな字は見たこともない。

ある人の説によれば、これは「タン」と読み、
陀羅尼経の功徳がすべてこめてある字だという。
切支丹の人々への深い鎮魂の祈りがこめられた字なのだろう。

左上には、臼という字があるので、
案外デウスという音と、魂の鳥という意味を、
幕府に分からないように盛り込んだ字なのかもしれない。

「仏性賢愚平等の法
何ぞ更に生死の罪業有らんや
本来無物空 亦空
流水潺潺(せんせん) 山岌(きゅう)業」

碑文に書いてある詩の、
正確な意味解釈とは多少ずれるかもしれないけれど、
私には以下のように読めた。

『み仏のこころは、
賢い者も愚かな者も、いかなる差別もない、
平等の法である。
(阿弥陀仏の本願には仏教とかキリスト教徒とかは関係がない)

どうしてまた、
救われない罪業などがあろうか。
(どうして本当は、キリスト教徒だからといって許されないことなどあろうか。また、殺していいなどといった道理があったろうか。必ず彼らも今は救われて天国にいるだろう。)

本当は、なんの差別もなく、
透明な根源のいのちにおいて、
平等だし、同じなのだ。

美しい泉が潺潺と流れる浄土、
山が高くそびえるところで、
今は安らかにどうぞ眠ってください。』


鈴木重成は非常に敬虔な阿弥陀仏信仰の持ち主で、
天草の地にも阿弥陀仏と二十五菩薩の像をつくっている。

彼の兄の鈴木正三も、禅僧でありながら、
南無阿弥陀仏の念仏の教えを説いた人物だったし、
法然上人を非常に尊敬していた人物だった。
もともと鈴木家は、
浄土宗の教えの非常に根付いている三河出身の武士だったらしい。

鈴木兄弟は島原の乱後、
天草の興廃した経済や人心の復興に尽力したそうだが、

それは、仏教・浄土教の立場からしても、
本来はこのような理不尽なことがあってはならないという、
天草の人々の非業の運命に対する、
深い深い人間としての思いがあったからだったろう。

島原の乱後も、
天草の地では江戸時代が終るまで、
キリスト教徒が潜伏して生き続け、
信仰のともし火を絶やさずにいた。
その証拠の、おびただしいロザリオや遺物をこの旅で見た。

その不屈の信仰にも感心するが、
しかし、まったく彼らだけで隠しおおせるばかりでもなく、
そっと知らぬふりをする多くの仏教徒がいたからこそ、
江戸時代が終るまでそうした文化が生き続けることができたのだと思う。
その証拠も、今回いっぱい見た。

過去帳にもそうした証拠が現われているらしいし、切支丹の人ばかりを集めた「仏母庵」というお寺の一角があったことを今回知った。
かりに切支丹とわかっても、
見てみぬふりをするお寺の僧侶や、
代官たちがずいぶんいたらしい。

「大翁」という文字が墓石に刻まれていたり(デウスと読むらしい)、
戒名に「平等」の文字が入っている他では見ないものが、
天草には多々あるらしいが、
それは仏教の僧侶で、それらを見て見ぬふりをした、
あるいは理解してそっとつけてあげた人物がいたということだろう。

また、鈴木重成をはじめ、
島原の乱や弾圧で非業の死を遂げた人々の、
慰霊供養を一生懸命努めていた仏教徒が大勢いた。

本来、不殺生を掲げる仏教、
散善の先頭に不殺生を掲げる浄土教の立場からして、
江戸時代の切支丹弾圧は、
あってはならないことだったと私は思う。
あれは間違いなく、ジェノサイドだった。

もちろん、外国の権力と切支丹が結びつく危険性もあったろうし、
幕府の権力には到底さからえないという現実もあったろう。
だが、それらを勘案しても、
もっと人間として、何か批判の声があってもよかったのではないかと思う。

浄土教自体が、
鎌倉時代や戦国時代に苛烈な弾圧を受け、
多くの殉教者を出したことを考えれば、
唯々諾々と時の権力に従うだけではなく、
本来ならば切支丹へのもっと深い共感や洞察があってもよかったと思われる。

しかし、歴史の年表や、
一般の通史では、
ただ権力に唯々諾々と従って、
切支丹の運命に対して何も思わないかのような、
のっぺらぼうのイメージしか、
近世の仏教・浄土教に対して今まで持てなかった。

しかし、
本当は、直接抵抗の声をあげることはできないとしても、
ぎりぎりの状況で、
できうる限りのことはしようとした大勢の仏教徒がいた。

当時のキリスト教徒が不屈の信仰を持ち、
偉大だったのと同程度に、
困難な状況の中で、
なんとか苦境にある人々を救い、
人間らしく生きようとした、
偉大な仏教徒・浄土教徒も天草の地にいた。
今回の旅でその証拠を見ることができた。

鈴木重成の生き様には、
無量寿経の「たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ」
という一節を彷彿とさせるものがある。

また、天草の年貢半減のために自害して訴えた姿勢には、
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛 はない」というヨハネによる福音書の一節を想起させるものがある。

まぎれもなく阿弥陀仏の本願と慈悲が、
宗派宗教を超えた人間性が、
息づいていたと思うし、
そのことを感じた。

今の時代の自由は、
過去の悲惨な歴史と、
その中でもなんとかなせる範囲で、
仏の心や神の心を実現しようとした人によって、
支えられているということを忘れてはいけないのだろう。
過去において、大きな大きな犠牲と、
その治癒のための犠牲があったことを忘れてはならないだろう。

富岡の供養碑の前で、
南無阿弥陀仏と十回称えながら、
そんなことを思った。

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「浄土教はこの時代を救いうるか」


浄土教は、
現代を救うことができるだろうか。

いまなお、
人々の魂を救う力を持っているのだろうか。

私は、
その答えに、
YESと答える。

なぜなら、
私自身が救われてきたから。

でも、
そのためには、
形骸化した浄土教ではだめだと思う。

私は、
ご縁をいただくきっかけにはならないこともなかったが、
僧侶や寺院の浄土教には、
一度も救われたことはない。

釈尊や法然上人の浄土教は、
今も変わらない真理があるけれども、

もはやその真理は形骸化した葬式仏教にはなくて、
社会の中で新たに生かされるべきものと思う。

もともと法然上人は、
寺はひとつも持たなかった。
ただ市井の中にあった。

浄土教の真理は、
社会の中にあって、
その時代ごとに、
その時代のことばで、
その時代の状況の中で受けとめて、
はじめて明らかになると思う。

明治において、
浄土宗では山崎弁栄が、
浄土真宗では清沢満之が、
浄土教の真理を新たに明らかにした。

今日、現代の浄土教が、
ろくにその二人の業績すら受け継がず、
形骸化した葬式儀礼にのみとどまっているのは、
なんということだろう。

古い漢語を、
自分自身すらよく意味もわからず弄ぶ僧侶たちよりは、
現代においては、
詩人たちの方が、
よほど阿弥陀仏の心の真髄をうたいあげてきた。

戦後の日本では、
坂村真民さんと榎本栄一さんと山尾三省さんという、
素晴らしい詩人が、
この上なく阿弥陀仏を美しくうたいあげてきた。

これら本当の阿弥陀仏の心に触れた、
近現代の中で阿弥陀仏のこころを明らかにした、
本当の先達をあおぎながら、

南無阿弥陀仏をひたすら称え、
生きていくための念仏を称え、

至誠心で、
本気で、
何事にもぶつかっていこう。

そこに、
今日の浄土教がありうる。


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