宗教・浄土仏教について

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「現代なき浄土教に何の意味が」


宗教は本当は、
その時代に生きる人の、
心の要求に答えるためのもので、

常に、
その時代にこそ切り結び、

その時代の息吹の中でこそ、
生き、人を生かすものだろう。

宗教をまったく失ってしまった現代というのも、
空疎なものかもしれないが、

己の生きる時代に目をつぶった、
現代なき宗教というのも、
同じぐらい空疎なものだろう。

釈尊にしろ、
法然上人にしろ、
その時代のことばで、
わかりやすく平明に、
庶民にむかって語り続けていたわけで、

聖道門の、
単なる学問宗教や奇を衒う宗教ならいざ知らず、

浄土門が、
普通の庶民に通じない言葉を使い、
わかりやすく語ろうともせず、
時代に向かい合おうともしなければ、
いったい何の意味があろう。
どこに法然上人の精神があろう。

現代なき浄土教など、
まったく無意味なものではないか。

そう思われてならない。

法然上人が、
平安末期という時代に、
至誠心で取り組んだのと同じぐらい、

念仏者もまた、
この時代の魂を救おうと、
この時代の課題に取り組もうと、
至誠心をもってぶつかってこそ、
浄土の法門を生きていると言えるのではあるまいか。

私自身、
まったく無力な一人の人間に過ぎないけれど、

意識だけは、
現代なき宗教でも、
宗教なき現代でも、
そのどちらでもなく、

この時代を生き抜く宗教を、
真っ向から求めて生きていきたい。

現代に生きる浄土教を。
現代に生きる念仏を。
それをこそ、
それぞれの時代で、
釈尊も善導も法然上人も、
求め生きたのだと思う。

伝統と革新と 浄土教

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「伝統と革新と 浄土教」

伝統とは、
忘れることが大きな損失になってしまうもののこと。

革新とは、
伝統を新たに思い出させること。

浄土教という伝統も、
忘れてしまっては大きな損失が生じるものだと思う。

なぜなら、
南無阿弥陀仏と称えるだけでたやすく人が救われるという、

宗教の最も精妙な真髄が、
そこにはあるから。

二千年以上をかけて、
多くの人が血反吐を吐くような思いで、
救いを求め、伝えてきた歴史がその背景にあるから。

しかし、革新なき伝統は、
いつか煤けて、
忘れられてしまう運命にある。

かつて、仏教という長い伝統を、
法然上人が現れて、
大革新をなしとげた。

その後、法然上人が開いた道を、
時が経つうちに煤けてきたのを、
明治の時代に山崎弁栄や清沢満之らが革新した。

だが、また煤けて、
忘れられつつある。

伝統なき革新はありえない。
しかし、
革新なき伝統も空虚なもの。

形骸化した寺院仏教や葬式浄土教は、
もはや人の魂を救わず、
いのちの糧となることもない。

しかし、今の日本にある浄土教の中で、
形骸化していないものはいったいどのくらいあるのだろう。

どんな伝統にも、
新しい血が必要だ。

この社会の現実や、
時代の息吹、
他の宗教や、
外国の思想哲学、
我が国の近現代の思潮、

それらに触れることが、
浄土教に新しい血を入れることになると思う。

真に生きた浄土教を求めるならば、
葬儀や隠棲を事とすべきではない。

この時代の現実と息吹に触れることをこそ事とし、
西欧の精神史や近現代の思潮をわがものとすることこそ、
わが事とすべきではないだろうか。

私は大したことはできないが、
ささやかながら、
いつも念仏の道を忘れずに、
一声一声の念仏のうちにこの道を思い出し新たにし、
生きていきたい。

浄土三部経は生命の書

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「浄土三部経は生命の書」


浄土三部経。
無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経。

決して使いされることのない、
生命の書。

いのちのことばも、
いのちのうたごえも、
その中にあり、

その中に、
生命を開く鍵も、
真理も、
宇宙も、
白道も、

人間の善も悪も、
この世界も、
浄土もある。

これほどこの列島に住む人々に、
声に出され読まれ、
聞かれてきた本もそんなに多くないだろう。

しかし、これほど、
その意味もほとんど理解されず、
ただ棒読みされてきただけの本も少ないだろう。

再び、
開かれ、読み直して、
はじめて本当にその心を汲みなおすことができる。

私にとって、
浄土三部経とは、

大宇宙の願いを聞くこと、

人間の悪の現実を見つめること、

はっきりとした理想を心に描くこと、

宇宙のいのちと響きあうこと、

そうしたことに他ならない。

いまを生きている人にこそ、
ひもとかれるのを待っている書物。

法然上人が、
一切経の中から選び出して、
再び蘇らせた、
仏典の中の真髄。

聖書やコーランやバガヴァッド・ギータとともに、
浄土三部経も、
これからの人類にとって非常に大切な宝、
生命の書だと思われてならない。

南無浄土三部甚深妙典、
南無阿弥陀仏。

一心称名しながら、
くりかえし浄土三部経を読んでいこう。
生きている間、
その理解を深めていこう。

「宗教も靴も自分にあったものを」


自分にあった靴をはこう。

宗教とは、
道をいくための靴のようなもの。

合わない靴をはけば、
靴擦れが起きて、
道を歩き続けることはできない。

私にとって、
念仏の教えは、
なんのむずかしいこともない、
ピッタリの靴のようなもの。

そして、一度信心をいただけば、
靴どころか、
バイクや車に乗るようなもの。

その他の、
足にあわない靴や、
自ら難しいでこぼこ道を徒歩で歩き続けねばならないものとは、
雲泥の差。

【この詩は、夢の中でつくっていました。普通だったら、宗教を靴にたとえるようなことは思いもつかないのですが、冒涜だとか堅苦しいことを考えずに、このように考えてみるのもまあいっかと思っています。】

「一つの光から法然上人と弘法大師」


一つの光から、
法然上人と弘法大師。

その光が遍く、
この地を照らし、
隅々まで助け、救っている。

一人の神様、一つの根源から、
弘法大師も法然上人も来た。

一人の神様、
一つの根源。
それを大日如来と呼んだり、
阿弥陀仏と呼んだり、
名称はどうでもいい。

すべてが一つの光であることを、
御二人とも説いているのだから、
私はただ御二人の道に従うのみ。

言浄一致。
大日即阿弥陀。
ただ南無阿弥陀仏のみ。

大切なのは、
ただ一つの光があることを知って、
全てを愛し、
全てを受け入れ、
限りなく願いを持って希望していくことだ。

そしてこの世に、
共生浄土を、
すこしでも実現するよう心がけることだ。

この光の道が、
この列島にこんなにも根付き、
遍く行き渡っていることほど、
ありがたいことはない。

この光の道が、
二十一世紀も生かされることを。





【追記補足】
四十八巻伝では、法然上人が弘法大師の霊夢を見たこと、法然上人が若い頃弘法大師の書物を暗記するほど読み込み引用していること、また真言密教の灌頂も受けたことが書かれています。
しかし、通史においては、弁栄上人など一部の例をのぞいて、弘法大師と法然上人は断絶の面が強調され、継承発展の面はあまり重視されなかったように思われます。
明治期の弁栄上人は、言浄一致(真言密教と浄土教の一致)を説き、弘法大師と法然上人の一貫性を指摘しました。
(一遍上人は、弘法大師と法然上人の線を結んだ所に、思想史上は位置づけられるのかもしれません。)
聖道門と浄土門はたしかに旧約と新約のように違うものですが、モーゼとイエスが全く違うものではなく一貫したところがあるように、弘法大師と法然上人にも一貫したところがあるように思われます。
世にある宗教がしばしば党派性を持って、他の排除に傾く傾向があるのに対し、一仏一切仏と、すべての根底にひとつのものを見て、一切他を排除しなかった弘法大師と法然上人の智慧は、今日もなお学ぶ所の多いものかと思われます。


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