宗教・浄土仏教について

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「南無阿弥陀仏は“即身成仏”の教え」


浄土教は、
生きている時に救われる教え。

生きている時にこそ、
最も速やかに救われる教え。

それが、どういうわけか、
生をおろそかにし、
死後の往生のみを説く、
退嬰的な教えのように誤解されている。

私自身が、
長い間そう誤解していた。

弘法大師の即身成仏の教えを、
否定したのではなく、
むしろ最も速やかに簡単に可能にさせたのが、
法然上人のみ教えだった。

浄土教が、
即身成仏を否定し、
死後往生を説くのは、

「仏」という概念を、
三明六神通、
つまり超人的な超能力を備えたものとして、
とても厳密に定義解釈したからである。

だから、
生きている間は仏になることはありえないとしたが、

その代わり、
法然上人や親鸞聖人は、
南無阿弥陀仏さえ称えれば、
菩薩になると説いた。
正定聚の菩薩になると。

日本語の「仏」にはいろんな意味があるが、
人格が円満で、
生かされていることを知って、
生きていることの喜びを真に味わい、
仏のような人になるという意味でも
よく「仏」という言葉を使う。

南無阿弥陀仏さえ称えれば菩薩になるという法然上人のみ教えは、
まさにその意味では「仏」になる、
即身成仏の教えだった。

南無阿弥陀仏さえ称えれば、
生きている時から十二光を浴び、
心は柔らかに円満になり、
あらゆる仏の功徳が回向される。

だから、
「念仏にいさみある者は、
無辺の悟りを開くなり」(禅勝坊との問答)
と法然上人は言った。

南無阿弥陀仏は、
人を菩薩にし、
無辺の悟りを開かせ、
生きている間に救う教え。
これが、本当の浄土教で、
法然・親鸞の教えだった。

菩薩という意味に仏をとるならば、
南無阿弥陀仏は即身成仏の教えだった。

そのことを知るのが、
遅かったのが悔やまれる。
このことを知ってから、
私は生きている限り一心称名していきたいと思うようになった。


【注】

三明六神通のような超人的能力も、実は念仏で備わる。
通常、浄土に往生したあとに発現するような能力やビジョンが、“三昧発得”という念仏三昧によって到達できるらしい。
法然上人や、徳本・弁栄上人らは、この三昧発得の境地に達したと伝えられる。
これでいうなら、まさに名実ともに、南無阿弥陀仏一本で即身成仏が可能ということになる。
ただ、そのようなことは通常の凡人には非常に困難でほぼ無理なことであり、
三昧発得までいかなくても、速やかに菩薩の位に達するというところに、南無阿弥陀仏の教えのありがたさが感じられる。

「修善・廃悪・魂の因果律の学問 観無量寿経の三福」


法然上人は、
無量寿経を中心とした上で、
観無量寿経もとても重視されていた。

観無量寿経は、
人の生き方として三福(散善)を説く。

三福とは、
世福・戒福・行福の三つ。

世福とは、
親孝行や慈愛の心をもって生きるなど、
修善のこと。

戒福とは、
戒律を守るなど、
廃悪のこと。

行福とは、
深信因果、
つまり魂の因果律を深く信頼し、
何事にも偶然はなく必然であると知る、
魂の学問を学ぶこと。

修善・廃悪・魂の因果律の学問。
この三つを、
念仏を称えながら念仏の助業として行っていけば、
この人生は遊戯のように楽しくなる。

もちろん、浄土往生にはただ念仏だけでよく、
三福は必要ないというのが浄土教の教えだが、

念仏を称えて阿弥陀仏の十二光に照らされると、
おのずと善心が生じ、
この三福を行うようになる。

そして、生かされていることへの喜びと感謝から、
三福を行じるのは、
阿弥陀仏を喜ばせることだというのが、
法然上人が説いたことだった。

私も何よりも念仏を根本としながらも、
その助業として三福を心がけよう。
浄土往生のためではなく、
浄土往生が決定したことへの、
喜びと感謝から、
大いに三福に精進しよう。

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「思考スケッチ 光明生活・共生浄土・往還一如(浄土教のエッセンス・在家仏教のすすめ)」


いろいろ本を読みながら浄土教について考えてきた。
そのことをスケッチしたい。
(詩ではないし、自分の思考をまとめるためのスケッチ)
(浄土教とは、阿弥陀信仰の総称で、浄土宗・浄土真宗・時宗等の総称。私は、このうち特に浄土宗の本をいっぱい読んできたけれど、宗派にこだわる必要はないと思う。)
では、浄土教の真髄とはなんだろう。

南無阿弥陀仏と念仏を称えながら、
“光明生活”を楽しみ、
“共生浄土”の実現に精進し、
還相の働きを感じながら往相に生きること(“往還一如”)。

そう、法然上人や弁栄上人の本を読んでいるうちに、
だんだん自分の思考がまとまってきた。

(“光明生活”という言葉自体は、明治大正期に活躍した浄土宗の僧・山崎弁栄上人の言葉。“共生浄土”という言葉は同時期に活躍した浄土宗の僧・椎尾弁匡氏の言葉。“往還一如”という言葉は、この二人に影響を受けている浄土宗の僧・藤吉慈海氏・林霊宝氏の著作によっている。けれども、今日あまり使われるわけでもないようであるし、浄土教全般に広く行き渡っているわけでもない)

光明生活とは、
文字通り光明の中の生活で、
本当に楽しい安心した、
喜びに満ち溢れた生活のこと。
浄土教では、
念仏を称えると阿弥陀仏の十二光に照らされ、
この十二光のおかげでたやすく光明生活に入れると説く。
(十二光とは、無量光・無辺光・無碍光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光のことで、その内容は法然上人を受けて弁栄上人が精細に説き明かしている。)

共生浄土とは、
文字通りみんなが共に生きることができる、
浄土のような世界の実現を目指すこと。
釈尊の説いた縁起の教えとは、共生のこと。
この共生の実現こそ仏法。

往還一如とは、
私たちのいのちは、
無数の浄土に往ってすでに仏となった亡くなった人たちの、
願いやまなざしや働きかけの上になりたっていると感じることで、
その浄土からの働きかけがあってこそ、
私たちの浄土へ向かうこの生もある、ということ。

光明生活・共生浄土・往還一如という、
言葉自体は近代になってから使われるようになった言葉だが、
その意味内容は釈尊の説いた教えの真髄に対応しているし、
きちんと法然上人の著作等の浄土教の古典を踏まえている。

さらに、上記の三点は法然上人が説いた三心に対応している。
(三心とは、深心・至誠心・回向発願心)

光明生活には深心、
共生浄土には至誠心、
往還一如には回向発願心。

深心がこのうち三心の要。
深心とはつまり、
信心をいただくこと。
信心をいただくとは、
自分の心が“深心”(信心)という状態に変わること。
どう変わるかというと、
大きな大きなはからい・大宇宙の生命や願いを念仏の中で感じ、
普段“私”を中心に暮らしていると見えなくなってしまっている、
自分の背後にあって自分のいのちを支えている、
見えない無数のいのちの縁の、
そのはからいと願いを知って、その願いに安心すること。
自分をいのちの大河の中で感じ取れるようになること。
この深心あってこそ、本当の安心の中の光明生活もある。
このみ仏の願いを受けて真実心で生きるところに至誠心があり、
死を無ではないと思い、浄土に往こうと願い、また浄土からの働きかけを感じる心が回向発願心。

これらが、
ただ一心称名しながら生活していくことで、
実現すると説くのが浄土教。
要はただ南無阿弥陀仏と称えることで、
そこに上記のようなことの内容が実現されると説く。

さらにその実現には、四修が説かれる。
四修とは、
長時修・無間修・無余修・恭敬修のことで、
つまり長い時間・一生の間をかけて、
間断なくずっと、
わき道にそれたりせず専心して、
阿弥陀仏やそのもとのすべての仏菩薩や聖者、先達や良い知識、あらゆる人を敬って、
一心称名しながらの生活に励むということ。

南無阿弥陀仏と、三心四修だけでいい。

言葉で書くと、
このように言えるし、
複雑極まりない仏教のいろんな理論や哲学に比べると、
ずいぶん単純なことだけれど、
実行となるとずいぶん難しいことだろう。

おそらく、私が思うには、
仏教は今日でも根としては役に立つし必要ではあるけれど、あんまり歴史上の仏教の知識ばかり頭に詰め込んでも今の世では役に立たないと思う。

光明生活の実行には、
要するにただ念仏を称え、
念仏の心を聞き開く中で、
いろんな自然や生活や文化を楽しめばいいわけで、
あれこれ難しい仏教の理論を勉強するよりは、
生活を楽しみ喜ぶ智慧や技術(たとえば料理や芸術)の方が必要だろう。

共生浄土の実現には、
あれこれ仏教の本ばかり読むよりは、
民主主義や自由主義・社会主義等の、
近現代の西欧や日本等の政治・社会思想史を学ぶこと、
及び法律や心理学を学ぶ方が、
よっぽど役に立つだろうし、
それぞれの持ち場での専門技術が役に立つだろう。
公民としての教養と、
各人の専門職業の業務生命に励むことが、
何より共生浄土の実現になる。

往還一如の実現には、
この生だけではない浄土へのまなざしや、
浄土からの働きかけへの感受性を、
日々の念仏生活の中で高めることが大事だが、
そのためには、
浄土教に限らず、幅広く臨死体験や霊界通信などの、
特に近現代に西欧で盛んに行われている試みから学ぶことも、
とても大事だと思う。

だとすると、より真実に生きるための生き方の根幹を示すには、
今日も浄土教・法然上人の教えはとても必要だと思うけれど、
仏教全般の複雑な知識が、
今日あまり必要とも思えない。
だから、寺院や僧侶が、あまり本当の光明生活・共生浄土・往還一如の実現に必要とも思えないし、
現に役に立っているとも思えない。
法然上人は、はっきり在家の人と出家の人との間に、称える念仏の功徳に区別はないと指摘した。
要するに、仏教の真髄を生きるのに、出家する必要は全然なく、在家で十分ということである。

二十一世紀の浄土教は、
ただ念仏を称えて、
各人が在家のままで、近現代の西欧や日本の学問技術を活用しながら、
光明生活・共生浄土・往還一如の実現に生きることだと思う。

およそ、近現代の西欧や日本の社会科学や文化・科学に関係ないところで、
それらに興味や関係もなく過ごしているような、
ただただ複雑膨大な形骸化した儀礼と知識だけの仏教は、
なんの役にも立たないし、今日無意味なのではないだろうか。

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「救済のためには瞑想も道徳も必要ではない」


救済のためには瞑想も道徳も必要ではなく、
ただ南無阿弥陀仏と称え、
無条件の愛に心を開けばいい。

善悪も智慧も努力も関係なく、
南無阿弥陀仏の方から無条件に救ってくださる。

ただ無条件の愛に心を開き、
一声一声の念仏の中で阿弥陀仏を実感し、
深く信じればいい。

どんな人も阿弥陀仏の慈愛の前では、
瓦礫ではなく、黄金。
価値のない人などはいない。
誰もが価値があり、愛されている。
決して自分を卑下してはならない。

そう一生説き続けた法然上人に、
私はどれほど感謝してもし足りない。

自らの不甲斐なさに泣き、
自己嫌悪を感じてきたのは、
おそらく私だけではなく、
若き日の法然上人も同じだった。

法然上人が見つけた弘願の門を知って、
はじめて私は、
自分がどうであれ何であれ、
愛されている存在だと、
価値のある存在だと実感できるようになった。
その実感が、一声一声の念仏だとわかった。

人は誰でも阿弥陀仏から本当に愛されている。
まるで恋人のように思われている。
それに気付いた時から、主との霊的な恋愛が始まる。

それほどに人間には価値があり、
このような人間の身に生まれることは有難く、
阿弥陀仏との愛に、念仏に、めぐりあえたのは、
よほど自分に宿善があるのだと素直に喜ぼう。

私はすでに、無条件に愛され、救済されている以上、
心から感謝して、
自分と世界のすばらしさを楽しんでいけばいい。

喜び、生きよう。
それが南無阿弥陀仏の道。

浄土のすばらしさや極楽を味わうのは、
決して死んでからではなく今生きているこの時からだと、
法然上人は身をもって示してくれたのだから。

「経済・財産は念仏のとても大事な助業」


世路のいとなみは往生の資糧、
家族や仲間は往生の同行、
大事にしていこう。

それが法然上人のすすめたこと。

どんな人も縁のある人はこの人生の旅路をいく同伴者、
どんな仕事も浄土に往くための大事な物心両面の糧。

「念仏の第一の助業は米に過ぎたるはなし。
衣食住の三は念仏の助業なり。
よくよくたしなむべし。
・・所知所領を儲けん事も、
惣じて念仏の助業ならば大事なり」
と法然上人は言った。

この世の経済産業も、
すべて念仏のためであればとても大事なこと。
財産も、念仏のためであれば大事なこと。

無目的にこの世に執着したり貪欲なのは、
かえって苦しみを増してしまうかもしれないが、

はっきり念仏を称えるためという目的があるならば、
生活を良くし、
余裕を設けて、
人生の工夫をすることは、
きっととても意義のある素晴らしいこと。

私も一心称名しながら、
自分や家族のために、
あるいはすべての人のために、
経済や産業や財産ということについて、
もっと考えて工夫していきたい。

この世を厭い捨てて無視するのが念仏者の本意ではない。
念仏をよく称えるためであれば、
生活を愛し育み工夫するこそ、
念仏者の本懐である。


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