宗教・浄土仏教について

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弘願の門

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「弘願の門」


結局、私は、
弘願の門に出会うために、
この何ヶ月も、
それまでぜんぜん畑ちがいだった浄土教の本を読みふけってきたのだと思う。

法然上人は、
定善・散善・弘願の三つの門に浄土教の教えを区分した。

定善とは、イメージ・トレーニングみたいなもので、
美しい風景や霊的な存在をありありと思い浮かべること、
高度な意識の集中のこと。

散善とは、道徳のことで、
廃悪修善、悪いことをやめて善いことをしなさいということだ。

こうした瞑想や道徳は、
浄土教に限らず、どの宗教でもさまざまな仕方で説いている。

それに対して、
弘願の門こそ浄土教の真髄だと、
善導大師の教えを受け継いで、
法然上人は説き続けた。

弘願とは、
阿弥陀如来が無条件に慈しみ救いとること。

自分が無条件に愛されている存在だということを、
念仏の一声一声に受け入れていくこと。

本願、平等の大悲、超世の悲願、
さまざまな表現で、
この弘願の門を法然上人は説き続けた。

弘願の門に出会うまでは、
私は本当に自分を受け入れることもできず、
どこかしらいつも不安や自信喪失を抱えていたと思う。
自己嫌悪にさいなまれてきたと思う。

これからは、
ただ一心称名して、
この弘願の道を歩かせていただこう。

自分は何であれ、
愛に値する存在であり、
愛されている存在なのだ。

「妙好人は浄土教の花、十八願はその茎根」


なぜ浄土宗にはあまり妙好人があらわれず、
妙好人といえば浄土真宗なのだろうか。

それは、浄土真宗が、
第十八願の真実のみ教えを、
速やかに正しく人に伝えて教え導くのに、
とてもすぐれたものだからだろう。

時宗や浄土宗にも、
長い歴史の中にはすばらしい信心を得た人もいっぱいいたかもしれない。
しかし、あまり庶民におけるそうした人の記録はのこされず、
また重視されなかったのだろう。

それに比べて、
浄土真宗が庶民における篤信のすばらしい人々、
妙好人の記録を多く留め、
顕彰してきたことはすばらしいことだ。
また、輩出した数もやはりずばぬけて多かったのだろう。

法然上人の第十八願門の、
無条件の救済の教えが、
かくも正しく伝わり、
こんなにも多くのすばらしい白い蓮の花が咲いた。
これほどの奇跡はあるまい。

妙好人は浄土教の花。
宗派を超えてそのこころを大事にし、
その記録を大事にし、
その花をこれからもっと咲かしていこう。

これからの時代、
浄土宗や時宗からもいっぱいの妙好人があらわれるかもしれない。
浄土真宗も今まで以上にあらわれるかもしれない。
そのためには、
ひたすら十八願のこころを明らかにし、
そのこころに生きる必要があろう。

第十八願は王本願。
本願の中の本願。
そう教えてくださった法然上人のこころに、
浄土教は還るべきである。

妙好人は浄土教の花、十八願はその茎根。

結晶体

「結晶体」


必要なのはただひとつ。
阿弥陀仏の側にいること。
あるいは、
キリストの側にいること。

私にとっては、
キリストは阿弥陀仏であり、
阿弥陀仏はキリストだ。
そんなことを言えば、どちらの宗教の人にもヒンシュクを買いそうだが、

外皮をはぎとってみれば、
そこにあるのは無条件の救いである。
悲愛である。
すべての人が渇いている神秘的な何かである。

どの宗教も、
この神秘的な何かを求め、
それぞれにその反映やかけらを持っているのかもしれない。

しかし、私の眼には、
浄土教とキリスト教が、
もっとも純粋なその結晶のような気がする。
生き生きした何かが躍動しているような気がする。

こんこんと湧くいのちの泉。
アムリタ・甘露。

その他の余行や教えはすべて捨てて、
この教えに従うつもりになるまでは来た。

しかし、浄土教とキリスト教のどちらを選択すべきかは、
私には未だにわからないし、決めることができない。
決める必要もないように思う。
同じ結晶を別の角度から見たもののようにしか思えないからだ。
他力の救済という結晶を。

キリストの愛を思いながら念仏を称えても、
あながち的外れではあるまい。

キリストと仏陀

「キリストと仏陀」


キリストは救い主。
仏陀は目覚めた人。
両方、人類には必要だったのかもしれない。

救いとは、キリストの愛に触れること。
目覚めとは、本願に目覚めること。

煩瑣な外観を取り除けば、
案外同じようなものなのかもしれない。
大宇宙の無条件の愛が、
根本にある。

仏心ある仏教の再生を

「仏心ある仏教の再生を」


仏心なき仏教。
仏心を欠いた仏教徒。
なんと無意味なガラクタ、
仏教の骸骨。

現代でも周りを見渡せばこのガラクタがあふれているが、
法然上人の時代もすでにそうだったのかもしれない。

法然上人の一生は、
このガラクタを捨てて、
仏心に生きることにあった。

一休さんもまた、
このガラクタを捨てて、
仏心に生きた。

「仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す。」
仏心とは、大きな大きな愛だ。無条件の愛であらゆる存在をつつみとる。
そう観無量寿経に書いてある。

空也も、一遍も、親鸞聖人もこの心に生きた。

ああ、今も日本の仏教はガラクタばかりで、
仏心なき仏教の現状だが、
空也や法然に倣って、
仏心ある仏教の再生をめざそう。

別段宗教宗派は関係なく、
仏心ある人は今でもたくさんいる。

心がないガラクタもいっぱいいる。

しかし、心がある人がいて、
その人たちの声がある限り、
私は生きていける。

ガラクタは捨てよう。
仏心に生きよう。


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