宗教・浄土仏教について

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「群賊僧侶ではない在家仏教へ」


あの温厚な法然上人が、
当時の僧侶たちを指して「群賊」と、
選択本願念仏集の中で呼んだ。

きっと、よほど腹に据えかねる事情があったのだろう。
当時の僧侶たちは、
傲慢で徒衣徒食で、
学問には不誠実で、
金集めや女色や暴力沙汰に耽っているものもいっぱいいたらしい。

その事情は、日本の歴史を通じて、あまり変わらなかったのかもしれない。
織田信長が比叡山を焼き討ちするにはそれなりの理由があったのだろう。
それに溜飲を下げる大衆の支持があったから、
彼の成功もあったのかもしれない。
江戸時代には、蟻一匹殺すなら坊主千人殺した方がいい、という庶民のことわざもあったと聞く。
江戸時代の檀家制度で優遇された僧侶たちの横暴が、このことわざの背後にはあったのだろう。
もし信長がいなければ、僧侶の害毒は今に至るまでずっと大きかったかもしれない。

もちろん、中には立派なお坊さんもいただろう。
中世も、近世も、近現代も。
しかし、僧侶の形だけして内実の伴わない僧侶の方が圧倒的に多かったのではないだろうか。

法然上人にしろ、一休さんにしろ、
本当の仏教者は僧侶の世界に反抗したし、
つまはじきにされた。

すでに大乗仏典の誕生の頃から、
維摩経や郁伽長者所聞経では在家こそが仏教の担い手とされ、
僧侶をはるかに上回る在家の居士の智慧と功徳が讃えられていた。

法然上人が先鞭をつけた群賊との闘いは、
在家仏教への変革は、
今もって課題なのかもしれない。

おそらく群賊は外にいるだけではなく、
一生自分の心の中にもいるのだろう。
法然上人の選択集における表現は、
内なる群賊との闘いの様子でもあったのかもしれない。
堕落した仏教者にならないように、
日々自分の心で戒め闘う気持ちだったかもしれない。

心の内と外の両方の群賊と闘っていくのが、
本当の念仏者なのだろうか。
在家在野で本当の仏教精神を貫いていくのが、
至難であればこそ良いのかもしれない。
法然上人が先鞭を切った宗教改革は、
未だに未完の事業らしい。

「昔の僧侶の真摯さと今の僧侶のくだらなさ」


昔の仏道を志す人は、
本当に真剣で、素直だった。

法然上人は若い頃、
師の叡空とたびたび議論になっては、

両者頑として自説を譲らず、
法然上人は権威ある通説に対して、
「昔の人の意見にすぎない」と傲然と言い放ったので、
叡空が怒ってぶん殴ることもあったという。

しかし、そのあと、
やっぱりよく考えると自分が間違っていた、
と師の叡空は謝ったという。

学問に対する真剣さと、
なんとも素直なやわらかい心が偲ばれて、
昔の人は良かったとしみじみ思われる。

それに比べて、今の僧侶の中には、
非常に卑怯で脆弱な人がいる。
みんながみんなではなかろうが、
自説が不利な場合はただ逃走し、
仏道に対する真摯さも責任感も微塵もない。

ネット上で、ある自称僧侶の人と議論したところ、
自分の議論の不利をかくすためか一方的にすべての議論の記録を削除した。

そのことについて批判すると、
ぜんぜん反省もなかった。
自分の議論に不都合な資料には、
なんの返答もないか、何の根拠もない否定をしてきた。
あげくの果ては、すべて削除して逃走し、
それをおかしいと言うとネット・ストーカーと私を決め付けてきた。
これが仏教研究を掲げる僧侶たる者の取るべき態度だろうか。
仮に僧侶ではなく、人間としてもどうだろう。

昔の人は、自分の意見に全責任をとった。
明恵上人は、
あとからきちんと「摧邪輪」は誤りだったと謝ったと伝えられる。
暁烏敏も、何度も人生の間にその言っていることを変えたが、
自分の前言をとりけしたり逃げたりはしなかった。

末法の世とは言うが、
なんと無責任で真摯さのかけらもない僧侶が増えたことだろう。

いや、法然上人の時からそうで、
叡空や明恵は少ない骨のある人物だったのだろう。

法然上人が選択本願念仏集の中で、
当時の大半の僧侶を指して「群賊」といった気持ちが、
すこしわかってきた。

「ネット上のマナーとその違反について ある方との議論」


最近、ネット上の議論において、
非常に長引いた学問的議論の途中で、
一方的にコメントを削除されることがありました。
そのことについて批判し、
その議論の内容のまとめを書き、
コメントの一方的削除はおかしいという旨をブログに書いたところ、
ネット・ストーカーと決め付けてきました。

もともと、その人の方から私のブログにトラッシュバックをしてきたので、その方のブログを読ませていただき、その方の意見が学問的に不正確なことを指摘したところ、
一方的にコメントを削除されました。
そのことがおかしいのではないかと批判しますと、また問答無用でコメントを削除してきたので、学問どころの話ではなくなりました。
ご本人は最初から議論するつもりはなかったと言っておりましたが、はじめはずっとお互いに論拠を示しながら議論しておりました。

このブログにも、いくつかコメントがあったので、その議論のなりゆきについて興味をもたれた方もいるかもしれません。
また、その方のブログにおいて、私とその方の議論を見ていた方もいるかもしれません。
公共性のある問題だと思うので、
以下にその方のIDとURLを書かせていただきたかったのですが、
ご本人からの要請があったので、伏せさせていただきたいと思います。

あくまで事実問題について書いたことについて、ネット・ストーカーと一方的に決め付けてきた批判にも驚きましたが、法的にはこういう場合はどうなるのでしょうか?
詳しい方がいたら、法的な問題について教えていただきたいと存じます。

そもそも、インターネットは公共の場です。
そこにおいて学問的に議論をするのであれば、なんらの事前の警告もなく一方的に相手のコメントを削除することは公共性に反し、マナーに反するのではないかと思われます。
学問的な議論の道筋を、あとで第三者がチェックすることも、議論の相手が追跡できなくすることは、議論の場において非常に不誠実な態度ではないでしょうか。

ご本人の談によれば、曹洞宗の仏教研究をされている僧侶の方だそうです。
僧侶の方であれば、俗人より高い倫理が要求されるのではないかと思うのですが、その旨を問うと、僧であるかどうかは関係ないとおっしゃられました。



【議論の内容】

議論の論点は、彼は一遍は空也・融通念仏の系譜であり、法然と根本的に異なる念仏だと述べたことにありました。
彼は、法然は念仏以外の行を廃止する「廃立」一本やりであり、自力の要素のある空也や、その系譜にある一遍とは違うとしていました。

私は、それに対して、法然における念仏と余行の関係は二段階になっている、二段階関係論を指摘しました。
さらに、空也もまた善導・法然と同じ一念往生の無条件救済の教えを説いていたこと、他力の信心だったことを指摘し、空也そのものが善導・法然と変わらないのだから一遍が法然と変わらないことを指摘しました。
さらに、一遍の著作に善導の引用が多用されていることも指摘しました。

特に議論になったのは、法然が異類善根を認めている以下の二点です。

十一箇条問答

「問。余仏・余経につきて、善根を修せむ人に、結縁助成し候ことは、雑行にてや候べき。

答。我こころ弥陀仏の本願に乗じ、決定往生の信をとるうえには、他の善根に結縁し助成せむ事、またく雑行となるべからず。わが往生の助業となるべき也。他の善根を随喜讃嘆せよと釈したまへるをもて、こころうべきなり。」
(法然全集第三巻、大橋俊雄編、問答篇 171頁)

このテキストを指摘したところ、彼はこれが本当に法然の言葉かどうかわからないので正しいとは言えないと言いました。
通常法然上人の法語として受け入れられ、流布している法然全集に載っているテキストを、法然自身のものではないとするならば、よほどの証拠を集めて立証しない限り、そのことばを法然上人のものではないと言うことはできないと思います。
テキストが疑わしいというならば、その立証責任は自身にあります。
しかし、そのことについての解答は得られませんでした。

そして、選択本願念仏集第四節において、
廃立・助正・傍正が列挙されたのちに出てくる、
「請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。」
という言葉が最大の争点になりました。

まず、彼は、この中の「請ふ」という字をまったく無視した誤訳をご自分でされていました。
そのことについては、本人が一方的にコメントを削除し、証拠を隠滅してしまったので、いまは追跡ができません。
しかし、私がテキストの読みの不正確さを指摘すると、
大橋氏の訳を出してきました。
いま、その文もまたご自分で削除されてしまったので、追跡できませんが、
「在心」を不正確に翻訳したものでした。

そして、中央公論社から出ている「大乗仏典21巻」48頁の正確な翻訳を指摘したのですが、
それについての解答は何もありませんでした。
その翻訳によれば、当該箇所は、
「したがって、これを学ぶ人々は、取るも捨てるも、それぞれの心でしていただきたい。」となっており、法然は廃立と助正と傍正のどれをも選択可能な問題だとみなしていました。

ここからは、法然が助正、つまり異類善根を認める立場が出ており、そのことをこのようにテキストを根拠に指摘しているのに、一方的にそれを否定し、なんら回答もない上に一方的に私のコメントは削除されました。

その他に、法然の余行を認めていた証拠として、熊谷次郎への手紙と北条政子への手紙を指摘したのですが、そのことについての回答もありませんでした。
三昧発得記との関係も指摘したのですが、そのことにも一切何の返答もありませんでした。

上記のことを見ると、学問的良心として非常に疑問に感じますし、一方的に相手のコメントを削除し続ける姿勢は、人間としても僧侶としても非常に疑問を感じます。
曹洞宗の僧侶の方が皆このようだとは思いませんが、現代日本の仏教研究を掲げる僧侶の方、あるいは在家で仏教に興味をもたれる方は、以上の経緯を見て、ネット上のマナー、および学問的内容についていかが思われるでしょうか。
そのことについて何らかのアドヴァイス等、していただけたらと存じます。

やはり、インターネットは公共の場である以上、その議論内容には責任を持つべきですし、
特に仏教研究を掲げる場合は、自分の意見について、そしてその根拠について誠実さと責任を持つべきではないでしょうか。

追記

空也の他力信心の証拠。

「心に所縁なく、日暮るに随(したが)って止まる
   身に所住なく、夜暁(あ)くるに随って去る
   忍辱(にんにく)の衣厚くして、杖木瓦石(じょうもくがしゃく)に痛まず
   慈悲の室(むろ)深くして、罵詈誹謗(ばりひぼう)を聞かず
   口に任(まか)せて三昧を称すれば、市中これ道場
   声に順(したが)って仏見(あらわ)れ、息精(いきせい)即ち念珠(ねんじゅ)となる
   夜々仏の来迎をまち、朝々最後の近づくを喜ぶ
   三業(さんごう)を天運に任せ、四儀(しぎ)を菩提に譲る」
(中央公論社、大乗仏典21巻 287頁)

「ひとたびも南無阿弥陀仏といふ人の蓮の上にのぼらぬはなし」

また、
法然の師・叡空の師は他ならぬ融通念仏の祖・良忍でした。
つまり、良忍の孫弟子に法然はあたります。
人的系譜でもこのように一遍同様に融通念仏との関係を指摘できますし、法然が寺を持たずに過ごしたのは市の聖の伝統に連なります。

「仏教のいのちは寺ではなく市に」

やはり、浄土教および全ての仏教の再生は、
ひとえに在家の、
僧侶ではない普通の人々に、
ゆだねられているのではないだろうか。

寺院や僧侶の大半が、
葬式屋に成り下がって久しい。
彼らの大半は、
在家者以上の仏道への精進も、
出家者としての倫理も、
学識も、
持とうとはせず、
持つ責任感もない。
僧であるかどうかは関係ないと開き直る。

もはや堕落した葬儀屋に過ぎない寺院や、
仏教を死物と化した僧侶には、
仏教のいのちは全くない。

仏教のいのちは、
在家の、一般の、
この市井を生きる中で、
仏を求め、神を求め、
念仏を称え、
あるいは別の仕方で真理を求める人々にこそ脈打つ。

これは、
愚禿と自ら称して非僧非俗に生きた親鸞聖人や、
寺を捨てて市に入り、
生涯のあいだ寺を持たずに人々の中で生きた法然上人や、
空也上人や一遍上人の時から、
すでに始まった変革かもしれいない。
長い間、それらの教団が堕落したことによって忘れられていたが、
彼らの変革は二十一世紀にこそ始められるべきかもしれない。

寺や僧から仏教を解放しよう。
死物ではなく、
生きた仏教を再びとりもどそう。

仏教は死者のためではなく、
生きている人々のためのものだ。

寺ではなく、
市こそが。

僧ではなく、
在家の普通の人々こそが。

これからの仏教の主役だ。
念仏の主役だ。

安逸を貪る金襴緞子を着た豚の如き僧侶になるよりは、
この五濁の悪世にもまれながら、
真理と絶対無限を求めて生きていく、
痩せたソクラテスや、
法然や親鸞のようであれ。

「違いばかり言い募る宗派根性のお坊さんたち」


日本の僧侶の中には立派な人もいるが、
大抵は同じであることを発見して手をとりあうよりも、
違いを言い立てて相手をなじったりすることの方が好きな人物が多いようだ。

特に思うのは、
自分の宗派の正当性ばかり言い募ったり、
勝手に他の宗派を位置づけたりすることの愚かさだ。
そして、相手の言葉に耳を貸さず、
論理性もなく耳を閉じる姿勢だ。

選択本願念仏集の第四節は、
廃立と助正と傍正を列挙して、
「請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。」
つまり「どうぞ、もろもろの学者は、取るも捨てるも心に従ってください。」と言っている。
法然上人は、のちの浄土教内部での分岐点になることを、すでに先取りして考えつくして、各々が心に従ってとるように勧めていた。

この肝要な一文を指摘し、
法然上人は念仏以外の行の廃止(廃立)のみを述べているわけではなく、
助正や傍正をも読む人の心の取捨に任せ、
異類の善根を肯定していることを私が論理的に指摘しただけなのに、
それについては全く返答もなく、
議論を一方的に打ち切って証拠となるブログ上のコメントを削除してきた人物がいる。
しかも、その人は僧侶らしい。

彼は、自分の立場に固執して、
法然上人と空也上人・一遍上人を別の系統としたかったらしい。
しかし、違いを言い立てて何になるのだろう。
法然上人の中には、なんら空也・一遍と矛盾しない要素がある。

別の方で、その方は非常に学識深く愛のある方だが、
鎮西上人と親鸞聖人の違いをどうしても言い立てて、
浄土宗は法然上人の義に背くと論じている方もいる。

しかし、法然上人は、弁長・親鸞・一遍、どの立場も決して否定せず、包み込んでいる。
法然上人の議論では、
念仏と余行の関係は二段階の関係となっている。
まず、念仏による無条件救済が打ち出される。
しかし、無条件救済が確定したあとは、さまざまな念仏以外の善行や真言や大乗経典は、再び新たないのちを得て生かされるのだ。

法然上人は選択本願念仏集の中で、念仏以外の行をしばらく捨てて浄土の教えに従うことを説いた。
これはあくまで「しばらく」であり、ずっとではない。
無条件救済を、その他さまざまな行や道徳がなければ救われないと思っている人に教えるためにまず廃立の義を打ち出しているが、
選択本願念仏集を眼光紙背に徹して読めば、瞑想や善行(定散二善)を生かす第二段階を含みこんでいること、第二段階を否定することを慎重に避けていることは明白なのである。

法然上人は、瞑想や善行がなければ救われないと思っている人物には、
まずそれらが不必要で念仏だけで無条件に救済されることを説いた。
しかし、無条件救済ののちは、
瞑想や善行をするなとは決してしていない。
むしろその効果を勧めている。

このことが長い間誤解され、
明恵や日蓮まで法然上人を悪し様にののしってきたが、
その誤解は現代でもあまり変わっていないようだ。

法然上人は、二段階構えの考えつくした救済論を述べていた。
空也も時代を先取りして、すでに念仏による無条件救済を打ち出していた。
気質の点で、空也・一遍はすでに二段階目に移行した上での行動や教えを説いた。
親鸞聖人は、それに対して、他力を徹底させるために、第一段階のみを説いた。
法然上人やは、無条件救済をはっきりさせるために、
第一段階を多く力点をこめて説いたが、第二段階も否定しなかった。
浄土教の論点をすべてすでに考えつくした議論立てだった。
鎮西上人もこれに従ったと見るべきであろう。

一遍上人に見られる日本の神社や神々への信仰は、
法然上人においても全然否定されていない。
法然上人は現世のことは神に祈ってかまわないと述べている。
一遍上人と法然上人は、ぜんぜん別物ではなく、同じ道なのである。

なんと勝手な図式に法然上人をあてはめて、
空也・一遍と違うと言い、
それが間違っているという選択集を根拠にした批判を正当に受け入れることを感情的に拒む、
知性と道徳を欠いた僧侶がいることだろうか。

そして、親鸞聖人のすばらしさを正しく称揚するためであろうが、
法然上人における無条件救済の論点のみを言い、
鎮西上人の教えを過度に排除する結果を招いてしまっている浄土真宗の人の多いことか。

違いばかり言いつのる宗我見に満ちた僧侶や、
あるいは一致に手をさしのべようとはしない自宗に熱心すぎる信徒ばかりだったら、
将来の浄土教ははいったいどうなるのだろう。
化石のままで、再生することはあるまい。

そのことがわからず、
論理的に指摘しても怒り出す、
なんと宗我見や自己の思い込みに凝り固まった僧侶たちばかりだろう。
また、真摯さからだというのはわかるが、
やはり違いと排除にこだわってしまう信徒の方の多いことだろう。

彼ら僧侶は浄土宗と浄土真宗と時宗が違うものでなくてはならないのだろう。
しかし、法然上人から見れば、
どれも自分のかわいいかわいい後継者だろう。
念仏者無別道。

宗教家や思想家は、時代が古ければその分古かったり狭いとは限らない。
法然上人のような巨大な人物を、
過渡期の人物として扱ったり、
自分の図式に当てはめる要素だけとりだして論じるのは間違っている。
また、法然上人には最大の尊敬を認めている場合でも、
あまりにも自宗に引き付けてしまって他の後継者を否定するのも危険である。

法然上人は、浄土教の総合者だった。
いや、仏教そのものの新たな総合者だった。
八宗九宗、すべてを浄土門の立場から新たな息吹を吹き込み、再創造した。

その立場に還ろう。
私は生涯、どの宗派にも属さず、
一浄土教徒として、
枝分かれの前の幹に、
法然上人に立ち還っていこう。
そして、その立場を不当に狭くとらえたり、
法然上人から別れ出た他の枝を否定する人には、
法然上人の御文を根拠に、
その間違いを指摘していこう。
あるいは、違いについてお互いに問い続けて話し合っていこう。

念仏者は、
石と石のようであってはならず、
水と水のようでありなさい、
と法然上人は述べた。
ああ、浄土宗と浄土真宗と時宗は、
いつになったら水のようになれるのだろう。
浄土教内部でですらできなくて、
どうして仏教内の諸宗派や、
他の宗教と水と水との如くなれるだろう。


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