宗教・浄土仏教について

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「浄土教を完成させるのはキリスト」


スンダル・シングは、
ヒンドゥー教を全うするのはキリストだと言った。
ヒンドゥー教は水路を掘ってきた、
そこを流れる水がキリストだと。

それを聞いて、
浄土教を完成させるのは、
キリストかもしれないと思った。
ヒンドゥーを完成させるのがキリストであるのと同様に、
浄土教・仏教もまた完成するためにはキリストに学ぶべきだ。

きっと、仏教とキリスト教はそんなに別のものではあるまい。
浄土教の善導大師には、
ネストリウス派キリスト教が大きな影響を与えていたかもしれないとよく言われる。
一方、キリスト教にも、仏教が甚大な影響を与えたと見る見方もある。

弁栄上人は、
キリストも阿弥陀仏の活現、
生きた現われだと述べた。
弁栄上人はまさしく明治の時代において、
法然上人に浄土教を立ち還らせると共に、
キリスト教にも学ぶ道を開いたと言える。

観無量寿経に説かれる無条件の愛を、
最も生ききったのはイエス・キリストだったろう。
浄土教においても、法然上人には無条件の愛が脈打っているが、
キリスト教に比べてどのぐらい無条件の愛が本当に浄土教に従う人々に生かされてきたか、
法然上人以外の人々を見ると疑問である。

浄土教は、
水路はたしかに掘ってきたかもしれない。
しかし、そこに流す無条件の愛という水については、
もう一度法然上人に立ち還ると同時に、
キリストやキリスト者たちにこそ学ぶべきかもしれない。

無条件の愛をなくした浄土教などは、
水のひからびたからっぽの運河、
形骸化した宗教の骸骨に過ぎまい。
浄土教にもう一度水を流すには、
何よりも法然上人に立ち還ると共に、
キリストに学ぶべきではなかろうか。

「日本の浄土教は本来ひとつ」


日本における浄土教は、
いくつかの宗派に分かれてしまっていて、
各々他の宗派からは学ばず、興味も持たない傾向があるようだ。

浄土宗、浄土宗西山派、浄土真宗、時宗。
弁長、証空、親鸞、一遍。
どれもすばらしい念仏者であるし、
最初の三人は法然上人の直弟子で、一遍上人は孫弟子だ。

どの宗派も、
いわば幹から別れた枝葉ではないか。
法然という巨大な幹から、
弁長、証空、親鸞、一遍の枝に別れ、
それぞれ素晴らしい葉と花をつけたと見るべきではないか。

同一念仏無別道、
同じ念仏ならばべつだん異って別れた道ではないはずで、
同じひとつの道のはずだ。

親鸞聖人自身が浄土真宗は法然上人が開いたと言っている。
誰が一番すぐれているとか、
どのように違っていて、
どう発展して誰が過渡期にすぎないだとか、
自分はこれをとらない、彼はまだ本当の信心ではないとか論じることは、
どれほどの意味があるのだろう。
私には、どれも同じ幹から分かれた、同じ信心に思えてならない。

浄土教から別れでた四つの宗派は、
他の浄土教諸宗派からもっと学ぶべきであろう。
浄土教はひとつと心得るべきであろう。
そうでなくて、小さい中ですら宗我見にとらわれていては、
どうして他の宗派や他の宗教との共通点や類似点を見て、
ひとつにつながっていくことができようか。

私は、この四つのうちのどの宗派にも偏って属すことはすまい。
どこにでも参加し、敬い、礼拝しよう。
ただ、その根っこであり、幹である、
法然上人に常に立ち還っていこう。
そこにのみ、
浄土門が二十一世紀に生きた仏教になる活力の源があると思う。

言浄一致

「言浄一致」


弁栄上人は、
真言密教と浄土教の一致、
言浄一致を説かれた。

真言の大日如来は、
浄土教の阿弥陀如来と同体だと。

思えば、
すでに法然上人の時、
重源は大日即阿弥陀を説いて、
そのような観点からあの奈良の大仏復興を成し遂げた。
そのことは、法然上人も協力されたことだった。
善導大師も、龍門の大日如来(ビルシャナ仏)の大仏を造営された。

法然上人は、
霊夢で弘法大師に出会ったという。
また、若き日は弘法大師の本を暗誦するほど読み込んでおられ、
しばしば善導大師のことばと並んで弘法大師のことばを引用している。

今日、宗派の狭い枠にとらわれて、
浄土教と真言密教が互いに無関係となりがちなのは、
大きな誤りではなかろうか。

かつて、高野山の高野聖はほとんど念仏聖であったし、
四国遍路もまた念仏聖の影響がいかに大きかったかは御詠歌を見ればわかる。
そして、法然上人に弘法大師は大きな影響を与えていた。
一遍上人は、弘法大師を念仏の先達として仰ぎ遍路の道すじで念仏を称えた(弘法大師の著作にも一箇所念仏の語は出てくるし、弥陀四十八願についての言及もある)。

行は念仏一本がいいが、
日本の霊性の地下水ともいうべき真言密教は、
念仏者がやはり汲み取るべき地下水と思われる。

私は、今後も報恩のために、
遍路に参ろう。
そして、中世の日本の庶民がそう思っていたように、
弘法大師と法然上人を、共に弥陀の活現として仰いでいこう。

大日即阿弥陀。
浄土教と真言密教は、日本の霊性の真髄であり、
今後もあり続けるだろう。

浄土教と真言密教とあわさって、
日本の庶民の霊性を、
霊の川をまことにつくあげている。

「イッセイカイセイセイ(一切皆清浄)」


いくたびか、
お寺で理趣経を聞く縁があり、

そのあまりのすばらしさに、
妙なる音楽のような響きに、
すっかり魅了された。

あの響きは、
たとえ私が死ぬことがあっても、
魂に救いの光となって響き続けるだろう。

それ以来、
理趣経百字偈を暗記してしばしば唱えるようになった。

大きな欲望は清浄であり、
大いなる安楽と富をもたらす。

そう説き明かし、
人間の生を全面肯定した、
このお経のすばらしさよ。

一切皆清浄(いっせいかいせいせい)。

この素晴らしい経文を唱えて、
清浄歓喜智慧光をいただき、
み仏の命の中を生きていこう。

弘法大師は理趣経の心を開き、
法然上人は無量寿経の心を開いた。

共に、
大いなる大宇宙の生命の展開である。

この二人は、
法然上人の夢の中で出会って、
ひしっと抱き合ったという。
そう四十八巻伝に出てくる。

とすれば、
これこそ日本における二祖対面。
念仏者が理趣経百字偈を唱えることは、
往生決定の心の上では、
必ず正行の助業である。

一心称名と、
理趣経百字偈を唱えて、
この生きがたい世を生き抜いていこう。

「パリサイ派になるな、化石になるな」


日本のキリスト教徒の多くはパリサイ派であり、
日本の仏教徒の多くは化石だ。

私よ、
パリサイ派になるな、
化石になるな。

本当のキリスト者に会いたい。
本当の念仏者に会いたい。


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