宗教・浄土仏教について

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「生きた仏教に出会いたい」


生きた仏教にめぐり会いたい。

なかなかめぐりあえなかった。

大半は単なる学問か葬式ビジネスだ。
生きた人の救いではなかった。

めったに魂の琴線に触れるものはなく、
生きた仏教の精神に出会えなかった。

真言密教や禅にはたしかに精気はあるが、
それは体育会系のはつらつさといった感があり、
魂や精神の根本的な救済には、
私にとってはならなかった。

チベットの活仏は、
たしかに生きた仏教精神を感じた。
直接御言葉を賜ったことは、
確かに私の人生にとって大きな恵みだった。
しかし、御著書はあまりにも精緻でむずかしく、
私にはよく日常に身につけたえることができなかった。

浄土真宗の法事や葬儀は、
単なる葬送儀礼にしか感じず、
およそ魅力を感じなかった。

四国遍路は、
たしかにすばらしかった。
しかしそれは、
自然の森羅万象による一時的な救済だった。
弘法大師の御著書はあまりにも深遠で、
三学非器の私には到底活用しえなかった。

山のような仏教書を読んだが、
それなりにその時感じたり、
感心することがあっても、
めったに魂の琴線に触れるものはなかった。

結局、
私が本当に救いを感じたのは、
法然上人と弁栄上人のみ教えと、
坂村真民さんの詩集だけだった。

法然上人と弁栄上人と真民さん。
たったの三人だが、
三人も、
その人を思うだけで心が浄化される人がいるというのは、
非常に恵まれたことなのかもしれない。

いつか生きた妙好人に会いたい。
直接師事することのできる人に会いたい。
そう思うが、
いまはしばらくこの三人の書物を繙いて、
一心称名に生きていこう。

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「宗教と詩は現実逃避ではない」


宗教と詩は現実逃避だと、
かつて思ってわが身を批判し苦しめてきたが、

そうではないと、
最近少しわかり始めてきた。

宗教と詩は、
この現実をより良く、より深く、
生きるためのもの。

決して逃避ではなく、
むしろ真っ直ぐに現実と向かい合うためのものだ。

なぜ、この二つが無駄なもののように思われたのか。
まがいものの宗教が多いのも理由だが、
あまりにもいそがしい現代社会が、
直接金にならないこの二つを逃避のように思わせて、
人を遠ざけてしまっているからくりも理由だった。

現代社会のからくりを見破って、
金とは無縁なこの宗教と詩の二つに、
私はこれからも心血をそそぎこんでいこう。
これからは堂々と命を賭けていこう。

迷わず、
一心に称名し、
阿弥陀仏を讃えて生きていこう。

宗教と詩に、
私はやむにやまれぬ衝動にかられてきたが、
これからは堂々と安心してこの二つに生きよう。

詩は生を耕す。
宗教は根源の命を照らし出す。

阿弥陀の意味

「阿弥陀の意味」

「ア」 とはサンスクリット語で打ち消しの意味。

「ミタ」とは、量るという意味、計算するといった意味。

「阿弥陀」とは、
だから無量、無数の、
はかることができない、計算できない、
測り知れない大宇宙の無限の縁起のことだ。

日ごろ、私が忘れている、
あらゆる縁のおかげで生きていることを、
生かされていることを、
思い出させて気付かせてくれる名前。

釈尊が悟られた大宇宙の縁起の法、
その縁起の法の内容に、
ただちに触れて感応できることを可能にしてくれる名前。

大宇宙の縁起の法の大生命に、触れさせる。
そんな深い深いこの上ない名前が、

阿弥陀という仏の名前で、
そのみ名を称える南無阿弥陀仏だ。

宇宙のすべての縁がひとつになって、
私を生かし、
育み、
守ってきた。
それがなければ、
私は今までも、ただ今も、
決してここに息をしていないし、
念仏を称えることもできなかったろう。

一声一声の念仏に、
限りない私が生きている手ごたえを感じ、
自我の計算ずくめの狭い世界を突破して、
限りない広い豊かな大宇宙のいのちに通い合おう。

「浄土教の近代化・現代化」

阿弥陀如来とは、絶対精神態のこと。
浄土とは、霊界のこと。

そう、すでに明治時代に弁栄上人が明らかにし、
浄土教に生命を取り戻す一大改革を行ったというのに、
いったい今までどれだけ浄土教が近代化され、
現代にふさわしいものになってきただろうか。

語句にこだわらず、惑わされず、
その内容に徹底して、
真にいのちある信仰に生きねば、
宗教に意味はあるまい。

もしも絶対精神態や霊界について、
東洋以上に西洋が考え抜き、
精緻な思考を展開してきたのならば、
浄土教者は真摯に最善を尽くして、
自己を開いて、
西洋精神を咀嚼摂取し尽さねばなるまい。

浄土教者は、
行は念仏一本に生きつつも、
現代に生きる信仰を求めるならば、
学は古今東西一切を学ぶ必要があるまいか。

特に近世近代の西欧精神の真髄より真理を汲み取り、
絶対精神態や霊界について言葉を表現する技量を身につけ、
世界に普遍的に発信しうる信仰を鍛え上げる必要があろう。

また、この忍土に浄土を顕現するために、
実にさまざまな学問や技術を学ばねばなるまい。

浄土教者は、
学問においては最大限最高の知性の発揮と努力と、
生き方においては愚に還った念仏一本の、
両方が求められているだろう。

法然上人は一切経とおびただしい漢籍を読破し、
一生聖教を読み続けた。
なおかつ、行は念仏一本で最高の境地に達することを身を以って示した。
私もこの現代において、
それに一歩でも近づけるよう努めよう。

「日本の誇りは選択集と教行信証」


日本人としての誇りや国の誇りなどということが、
しばしば言われるけれど、
さしたる内実もなく誇りを振り回しても、
かえって意味のない空虚なこともあろう。

私が、日本の誇りだと思うことは、
「選択本願念仏集」と「教行信証」の二冊を、
この国が生み出したということだ。

もちろん、他にもいっぱいあるかもしれないが、
この二冊は間違いなく、
世界に誇って良い素晴らしい本だ。

私はこの二冊に出会ったとき、
どれだけ衝撃を受けたかわからない。
生き方変わり、
人生が変わった。

法然上人の「選択本願念仏集」。
親鸞聖人の「教行信証」。

選択集は仏教の一大改革であり、
実践と生き方をまったく革命するものだった。
私にとってもそうだった。

教行信証は、
いつも尽きせぬ霊感の源であり、
念仏について触発してくれる。

宗教というものの粋であり、
人間の知性と霊性の極限を示したこの二冊は、
間違いなく世界のどこに出しても通用する普遍性を具えており、
人類に寄与する書物である。

このような書物を生み出した、
そんなすごい人物が、
かつてこの日本にいた、
そういう人を育むほどの国だった、
そのことほど、
日本を誇らしく思える理由はあまりないのではなかろうか。

戦争に昔勝ったとか、経済が発展したとか、
天皇だとか、
そんなことが、いったいこの私にとって、
私の生き方にとって、
どれだけの誇りの種になるだろうか。
あるいは人類にとって、
人類の生き方や知性や霊性にとって、
さして寄与するだろうか、
あるいは誇れるだろうか。

私は、インドに生まれた仏教が、
中国や朝鮮を経て、
念仏という形でこの日本で真に純化結実したことに、
真に普遍的な意味と誇りを見出し、
心から讃嘆してやまない。


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