往還一如 生と死

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「お盆は念仏を称えて過ごそう」


死は無ではない。

浄土教では、
人は死ねば、
六道に輪廻するか、

あるいは、
浄土に往生すると教える。

往生とは死ぬるにあらず、
往いて生まれると書くと、
徳本上人は言ったけれど、

きっと“死”ということはなく、
人が死んで無になるということはなく、

いわゆる死ということは、
消滅ではなく別の次元に移行することであり、

新たにまた、
べつの世界に生まれ変わることなのだと思う。

生きている間の執着や愚かさや未練や、
良くない思いを引きずって、
六道に輪廻するよりかは、

本当に浄化された魂となって、
浄土に往生し、
浄土から還相の菩薩となって、
多くの人を助けたい。

それが、人として、
最も肝要なことだと、
浄土教では説かれてきたし、
私もそう思う。

きっと、
自分の今のこの人生というのも、
生まれ変わり死に変わりしてきた、
いろんな前世があって、
このようにあるのだと思うし、

私ひとりではなく、
すでに浄土に往ったさまざまな、
愛する家族やご先祖様の、
還相の働きや思いがあってはじめて、
今このように健やかに幸せに生きていけるのだと思う。

お盆の季節がやってきたけれど、
浄土に往かれた先祖の魂に感謝し、
自分も確実に浄土往生できる身にしていただけたことに感謝して、
一心称名、
精いっぱい命のあらん限り、
念仏を称えて過ごそう。

あれから四年 不壊の縁

「あれから四年 不壊の縁」


もう、
あの一番つらかった頃は、
四年前になるのか。

でも、あの時一緒につくった杏のジャムは、
本当においしかった。
今は浄土にいる。
今年もお供えしよう。

血へどを吐くようにつらかった時期は、
それでももうあの頃から、
四年近く経つんだ。

つらかったけれど、
なんとか生きてきた。

あれからいろんな癒しに出会って、
癒されてきた。

あの頃から今まで、
何をつかんだ?

念仏との縁をつかんだ。

何にもしていないようだけれど、
念仏との縁を得たということは、
それだけで悟りへの道をつかんだというわけで、

本当なら何よりも喜ばれるべきことなのかもしれない。
凡夫の私には、
そうした喜びはちっとも起こらないけれど、
なんとか救われてきたのは事実だ。

あれから四年、
私は破滅に近づいてきたのか?
それとも、救いに近づいてきたのか?
確実に救いに近づいてきたんだ。

世界も、歩き回ってきたじゃないか。
パリやアッシジやローマまでほっつき回って、
四国やあちこち歩き回って、
青い鳥みたいに念仏を見つけた。

あの時のいろんな悲しみや苦しみがあったから、
今念仏を称えている。

念仏も、
杏の木も、
幸せは足もとにあって、
変わらない愛が続いている。

たとえ浄土に往って、
私はまだ地上にいても、
縁は変わらない。
ダイヤモンドのような、
変わらない永遠の、
なくなることはない、
不壊の愛が、不壊の縁が、
ある。

南無阿弥陀仏、
不壊の縁。

不壊の縁のおかげで、
私も念仏申す身となった。

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「還相の働きを感じとれる人間になりたい」


還相の働きを感じとれる人間になりたい。
還相の働きを。

還相の働きを感じとることができないならば、
どれだけ経典を読み、
仏教を勉強したとしても、
何もわかっていないのと同じだ。

法然上人は、
浄土に往くことを往相、
浄土から人を救うために働きかけることを還相と言った。

南無阿弥陀仏と称えさえすれば、
誰でも浄土に往生して仏になる。
そして、浄土で仏になった人は、
今度はこの地上の人を助け救う働きかけをするようになる。

死を無だととらえる見方とは、
まったく別の生死へのまなざしがここにはある。

現代人は、多く死を無視して生きて、
死後の世界を迷信だとしている。
ましてや還相などということは、
遠い鎌倉時代の仏教の迷信として忘れ去ってしまっている。

しかし、本当は、
私たちの生は、
無数の亡くなった人たちの願いや思いの上に成り立っているのではないか。

たとえば、
私が称える念仏ということも、
法然上人をはじめとして、
無数の過去の念仏者やご先祖様やその他の人々がいたからこそ、
今念仏を称えているのだと思う。
それらの人たちの言葉や思いや願いがなければ、
どうして私が念仏を称える身にさせていただくことができただろうか。

今の日本の平和や豊かさだって、
多くの人たちの願いや思いや働きかけあってのもの。

還相の働きを感じることは、
この生をより豊かにする。
はっきり、この生の根っこを理解させてくれる。
この生の意味と力の出所をつかむ力になる。

だから、往相は、この今生きている往相の生は、
必ず還相とひとつになって、
はじめて浄土に生まれるような真実の生となる。

還相の働きを感じれてこそ、
光明生活もあり、
み仏と共に生きる、
真の共生浄土もある。

だから、往還一如、
往相と還相は本当はひとつだと、
浄土教では説かれてきた。

還相の働きを感じとれなくなり、
浄土からの無数のみ仏たちのまなざしや願いに鈍感になってしまったら、
私たちの生は痩せて衰えてしまうのではないか。

私は、この生をより豊かに生きるためにも、
還相の働きをもっと感じていきたい。

そのためにこそ、
一心称名し、
浄土からのメッセージに耳を澄ませていきたい。

南無阿弥陀仏とは、
還相の働きに耳を澄ませ、
肌で感じることだ。

「長い間興味の持てなかった“後生の一大事”について」


私は、家族の死を経験するまでは、
まったく死後の世界に興味はなかった。

家族との死別の悲しみを経た後でさえ、
長い間、蓮如上人がいう「後生の一大事」ということに、
なじめず、興味が持てなかった。

蓮如上人は、“後生の一大事”の解決ばかり言う。
しかし、それは生を軽んじ、死へ逃避することではないか。

死がこわい人なら、まだその「後生の一大事」とやらに興味も持とう。
しかし、生きることそのものがつらく、
よっぽど自殺した方がましと思っている人にはなんの関係もない。
なんとか生きるためのよすがと意欲こそが欲しい私にとって、
後生の一大事などは死が怖いと言っている余裕のある人々のたわごと。

そう長い間思っていた。

だから、己の罪業の深さと能力の無さの自覚から、
真言密教よりも浄土教に心ひかれるようになってからも、
蓮如上人や親鸞聖人より、
法然上人や弁栄上人に興味を持った。

それは、法然上人や弁栄上人の中には、
真言密教と相通じるような、生きている間に救われる道があって、
光明摂化や冥衆護持や願望成就や三昧発得など、
現世での利益と救済が説かれていたからだった。

しかし、法然上人の書きのこした本の中には、
確かに弁栄上人が説くような光明摂化などの現世の救済も説かれているけれど、
後生の一大事も非常に重要なテーマだった。

そして、蓮如上人が説く「後生の一大事」ということが、
いかに大事か、やっとすこしだけ私にもわかるようになっていった。

生きている間のことだけを中心として、
自分を中心としていた私が、
実はみ仏に願われ、
またすでに浄土に往った人々から願われていること。
そのまなざしを感じること。
それこそが、実は生きている側の人間にとっても根本的に大事であること。

死んだあとを無いこととして、
死者のまなざしを忘れ、
み仏の願いとまなざしを忘れる。
つまり、後生を殺して、
生だけに視野を限っていたら、
実は生もやせ細り、
無明の闇に閉ざされるのではないか。

後生を殺したら、
いま現実にある生も殺してしまうのではないか。

そう思い始めるようになった。

そうして、
浄土に往生する往相回向と、
浄土に往った人々が再びこの世に仏となって還ってくる還相回向の、
二つの回向を法然上人や親鸞聖人があんなにも一生懸命に説いて、
浄土という、死後の世界からの働きかけやまなざしを説き続けたことの意味が、
やっと少しだけありがたく味わわれるようになってきた。

いま生きているこの人生も、
とても大事で、
これも念仏によって光明摂化され救われる。
けれども、後生もまたとても大事なことで、
この浄土からのまなざし、
無数の仏さまたちからの働きかけとまなざしを感じることができてこそ、
本当の念仏もあり、
生きているこの人生の充実もあるのだと、
念仏に導かれて、思えるようになった。

浄土はどこに

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「浄土はどこに」


浄土はどこに。

天親菩薩の往生論の偈を読むと、
目の前に浄土の光が見えてくるような気がする。

まったく遠い所だったら、
人と無関係のところだったら、
人は思ってみることも、
光りを感じることもできまい。

想いは自由。
ならば、浄土を想って生きていこう。
想いは自由、
人は一瞬にして浄土にまで想いを馳せることができる。

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