往還一如 生と死

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祖母の三回忌

「祖母の三回忌」


あれから丸二年。
祖母の三回忌。
ひさびさに会う親戚たちと、
お坊さんの読経を聞く。

祖母がとてもファンでいつもその読経を聞くのを楽しみにしていた、
本当にお経の上手なお坊さんが来てくれ、
無量寿経をあげてくれた。

本当にすばらしい読経で、
昔の安楽や住蓮の美声とはこのようなものであったかと思った。
浄土が現前するかのような美しい読経だった。

あれから二年、
すこしだけ聞くお経の意味がわかるようになった。
十八願の箇所では涙が出そうになった。

祖母や、先立ったみんなが縁をとりもってくれたからこそ、
無量寿経や親鸞聖人の本を手にとって読む身になれたのだろう。
読経を聞いていて少し意味がわかる身になれたのだろう。
そう思うと、本当にありがたい気がした。

もっと無量寿経を読んでいこう。
法然上人の御文や親鸞上人の和讃を読んでいこう。

お坊さんは、祖母のことをとてもなつかしんでくれた。
本当に信心深い祖母だった。

すばらしい花祭りの日だった。
仏の生まれた日に法事があったのは、
祖母にとてもふさわしい気がした。

「二つの浄土 霊界浄土と共生浄土」


おそらく、
人が浄土と言ってきたときに二つの意味がこめられてきたのだろう。

ひとつは、死んだあとに行く良い場所の意味。
もうひとつは、今生きているこの場所を共生の場所としていく働きの意味。

前者は、霊界浄土と呼んでいいかもしれない。
後者を、共生浄土と昔の人は呼んだ。

この見えている世界だけではなく、
死んだあとにおもむく場所について、
古代や中世の人は真剣に考えてきた。
それは、愛する人を失った現代の人間だって同じだろう。

仏教の世界観だと、人は死んでもまた六道に輪廻して、
迷いの人生をくりかえすし、現に自分は今までくりかえしてきたと見る。
目覚めて迷いを脱却した仏にならないと、この輪廻の連鎖は断ち切れないという風に考えるが、
これをただ本願を信じ念仏を称えただけで速やかに断ち切ることができ、霊界浄土に行って仏になれると説いたのが浄土教だった。

一方、共生浄土というのは、
もともと釈尊が悟ったのは縁起の理法であり、
縁起とはいわば共生のことで、
人間の自我煩悩がこの共生を難しくし苦しんでいるのを、
再び速やかに共生させ、楽しく生きさせるのが、本来の仏教の求めたところだった。

霊界浄土だけ求めて、
この今生きている人生において何もせず考えないのは、
おそらく仏教の本義にもとるものだろう。

一方、共生浄土だけ求めて、
死後の他界について考えないのは、
道徳的・倫理的にはそれでもいいとしても、
宗教としてはまだ不十分であろう。
人の人生は束の間の仮の宿、
短い儚いものであるということが、
ただ現世だけを見ていては突破できないからである。

真にこの現実世界において共生浄土を築くには、
きっと霊界浄土が必要なのではあるまいか。

この世において共生浄土を求めようとして働いていくところには、
きっとすでに霊界浄土に往った人々からの働きかけがある。
昔の人はそう見たからこそ、
往相(浄土に往くこと)と還相(浄土から還ってくること)ということを言い、
往還一如ということを言ったのであろう。

自分自身も、単なる刹那主義を離れて、真に意義ある人生を送るには、
霊界浄土に往くことを視野にいれたうえで、この現実に共生浄土を生きようとするところにあるだろう。

霊界浄土も共生浄土もきっとひとつであり、
どちらかを離れてはどちらも本物ではあるまい。

きっと霊界浄土からの働きかけの中に、
この地上で共生浄土をつくっていこうということもあり、
一心称名しながらこの地上に共生浄土を生きていくことの中に、
霊界浄土への往生もあるだから。

この世は浄土の似姿

「この世は浄土の似姿」


この世は、
きっと浄土の似姿だ。

うつくしい花や、
すばらしい景色を見ていてると、

また人といっしょに過ごして、
この上ない楽しいときを過ごしていると、

そう思う。

信心のない人は、
人間がこの世に似せて浄土を想像したと思うだろう。
しかし、きっと逆なのだ。

この世の中の浄土を探していこう。
この世をもっと浄土にしていこう。

法然上人が、
部屋にこもってあれこれ浄土を観想してイメージしようとするより、
杏や桜を実際に見るには及ばないと言ったのは、
この世界に実際にあるすばらしさを見よ、
という心だったのではないだろうか。

そして、
人間は仏になりうる種子がある以上、
如来蔵である以上、
きっと仏の部分的な似姿なのだと思う。
この人の世の中に、
仏の種を探していこう。
仏を探していこう。
一心称名しながら。

祖母と仏縁

「祖母と仏縁」


私の祖母は、
二人とも篤信な浄土真宗の信者だった。

母方の祖母は、
本当にいつも毎朝毎夕、
仏壇の前でお経をあげ、
念仏を称えていた。
正信偈を最後の入院の日々でも称えていた。
祖母は、弟は戦死し、夫にも娘にも病気で先立たれていたから、
それであれだけ一生懸命仏壇の前で読経していたのだと思う。

父方の祖母は、
いまも難病を乗り越えて元気に過ごしているが、
小さい頃から、村の浄土真宗のお寺のお手伝いなど随分したらしい。
いつもにこにこしていて、他力のはからいにすべてまかせ安心していて、
まるで妙好人のようである。
格別読経しているわけでもなさそうだが、なんというか身についた念仏の文化のようなものを感じる。

それぞれの父、私にとっての曽祖父は、二人とも仏のような人だったと伝わる。
母方の祖母の父は、篤信な日蓮宗の信者で、仏のようだと皆から言われていたそうだ。
父方の祖母の父も、浄土真宗のみ教えの影響だったかよくわからないが、仏のようにやさしい人だったらしい。

私が人生の危機を迎えた時に、
なんとか乗り越えてこれたのは、
本当に仏教との縁があったからだったが、
それはどこか無意識のうちに、ふたりの祖母の仏縁ある姿があったからだったと思う。
そして、祖母のもっと前からの、家に受け継がれてきた仏縁があったからだと思う。

私の家庭は、たぶん日本の標準的なありふれた家庭だが、
どの家庭も私の家と同じ程度かそれより以上の仏縁が、掘り起こすとあるのではないだろうか。
日本の長い歴史は、本当に仏縁を育んできてくれた。

人生という乗り越えがたい海の、
現代という生き難い時代の、
杖となり支えとなるものとして、
無意識に眠っている仏縁や仏法が、
もっと起きて働いてくれれば。

そして、自分が将来、
孫子に仏さまとの縁を、
姿として伝えることができれば。
そう、ささやかに思う。

光明とは聖霊

「光明とは聖霊」

浄土教でいうところの、
光明とはつまり聖霊のことである。

光明とは聖霊。
無量光とは、無限の聖霊のことである。

阿弥陀仏は無量の光明、
はかりしれない聖霊の働き。

光明摂取とは、
聖霊が選び取りその人にそそぎこまれる、
ということだ。

キリスト教でいうところの父・聖霊・子を、
仏教では法身・報身・応身といい、
それぞれ人格化して大日如来・阿弥陀如来・釈迦如来といった。
三位一体は、洋の東西を問わず真理である。

水を、みずといったり、ウォーターといったりするようなもの。

浄土教では、
この三身を阿弥陀仏で統摂した。
十二光とは、
十二の聖霊の働きである。

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