大悲の風に乗るために 信心

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光の方へ

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「光の方へ」


光の方へ、
歩いていこう。

少しでも、
できるかぎり。

闇ではなく、
光の方へ。

一歩だけでも、
一歩ずつでも。

もし、
ほんの一歩でもムリならば、

顔を光の方へ向けるだけでもいい。

それぐらいの自由なら、
きっといつでもあるはずだ。

念仏とは、
光の方へ、
光明へと、
向かい、歩るいていくこと。

無量の光明の中へと、
この狭い白い道を、
歩いていこう。
向かっていこう。

かつてこの島国が、
大きな闇に落ち込み、
闇と手を結んでしまったことを忘れないで、

二度とそうならぬよう、

今もいくつもの闇があり、
闇が蝕んでいることを直視して、

少しでも、
できるかぎり、
光の方へと向き直っていこう。

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「自分を愛することから全ては始まる」


自分を愛することができないで、
どうして他人を愛することができよう。

自分を肯定することができないで、
どうして他人を肯定することができよう。

しかし、
なんと自分を愛し、
肯定することは難しいことだろう。

なんと多くの人がそのことに下手であることか。
他ならぬ私もずいぶん下手だけれど。

おそらくは、
大宇宙のいのちから、
無限に無条件に愛されていることを、
よくよく理解してこそ、

自分を本当の意味で肯定できるし、
愛するようになれるのだと思う。

南無阿弥陀仏と称えることは、
きっと本当の意味で、
自分を愛することができるようになるための、
レッスンでもある。

自分を愛するように、
他人を愛せと言われても、
自分を愛していない人は、
他人を愛することもできない。

自分を愛することから、
阿弥陀仏の愛を受け入れることから、
すべては始まる。

自分を愛するとは、
おそらくは、
自分の魂にできるだけ多くの喜びを味わわせることだろう。

素直に阿弥陀仏の恵みを受け入れ、
大いに喜んで生きてこそ、

他の人の魂にも、
多くの喜びを味わわせることできる。

阿弥陀仏とは、
歓喜光仏。

念仏とは、
歓喜信受。

愛され、
愛し、
歓喜して生きて往きたい。

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「他力の信心とは常精進の生き方」


他力の信心とは、
常精進の生き方のこと。

やっとそのことが、
一年かけてわかってきた。
いや、今までの人生のすべてをかけて。

生かされていることの喜びから、
どこまでも生きようとすること。
恩返しに、
できるかぎりのことを尽くすこと。

それが、
真に生き往くこと、
往生ということ。

百まで生きるとすれば、
あと七十年以上ある。
もう少し早く気付けばよかったと思うけれど、
これから、
本当にこの生き方で生きていこう。

一心称名、
即往生。
真生は、
他力の信心の中にある。

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「自力と他力のことについて  ―他力信心とは積極的な生き方のこと」


他力本願の信心とは、
本当はとても積極的な、
常精進の生き方につながる。

他力本願というと、
何か努力を怠った退嬰的な生き方のように、
勘違いしている人がいる。
かくいう私自身も、
一年とちょっと前まではそうだった。

しかし、
それは大きな間違いだ。

他力本願を批判して、
自力本願などという言葉を使う人もいる。
これなどは誤解の最たるもので、
そんな言葉は本来存在しない。

本願力のことを他力というのであり、
本願力には他力以外存在せず、
自力の本願力などというものはない。

自力と他力というのは、
救済の要件についての話だ。

つまり、自分が救われるには、
何が必要かということについての話であり、
生き方の精進の話とはまた別のことである。
信心のあり方についての話である。

自力の信心とは、
自分の積む功徳によって、
悟り、往生し、救済されるという考え方と生き方。

一方、他力の信心とは、
阿弥陀仏の本願力、
つまり、自分の功徳や条件には関係なく、
無条件に慈しみ救いとってくれる、
大宇宙の無条件の愛を信じて生きる信心のことである。

だから、
本当は他力の信心を持つものであっても、
いや、他力の信心を持てばこそ、
大いに励み、
常に精進して生き、
一生願いを持って努力してやまない生き方もあるわけである。

自力の信心によって、
つまり自分が修行や善行によって積む功徳によって、
救われようとする生き方について考えてみよう。

中には、そんな生き方によっても悟り、救われる人もいるかもしれない。
浄土教はその可能性を否定はしていない。
そういう人はそれでいいとしている。

しかし、大半の人は、
なかなか救われることもなく、
難しい修行や学問をいつまでも積み重ねるだけだろう。

他人のために尽くすどころではないのではなかろうか。
また、仮に他人のために尽くすとしても、
それは自分が善根を積むためということになる。

さらに、戒律を守らず、努力をしていない人間を見れば、
当然そんな人々は救われるはずがないと考え、
場合によっては大いに批判し怒りをぶつけてしまうだろう。

他方、他力の信心は、
これとは全く違う生き方である。

すでにして無条件に阿弥陀仏に救済されることを信じた以上は、
自分の救いのためにはなんら難しい修行や学問の努力をする必要はない。
ただ、救いを感じ感謝するために念仏することがあるのみだ。

そして、もはや自分のために修行する必要がないので、
あとは他人のために大いに尽くす生き方が開ける。

阿弥陀仏の慈悲に触れ、
本願力に触れればこそ、
無条件の慈愛というものが自然と自分の心に起こる。

それは、自分が救われるためではない。
自分はもはや救われたのであるから、
そうした計算や打算を離れた生き方となる。

日々の念仏の中で、
おのずと自分の心が本願へと変容し、
共生の浄土を実現しようとする、
阿弥陀仏の本願に仕えた生き方となる。

また、仮に努力もせず、
戒律を破ってばかりいるように見える人を見ても、
決して裁かない生き方となるだろう。

自分自身も、
自分の何か資格や功徳によって救われているのではない。
無条件に阿弥陀仏によって慈しまれ救われている。
自分が何か人を見下げたり裁いたりする資格などない。
そうした生き方となる。

いずれにしろ、
生きている間は無条件に阿弥陀仏から慈しまれ守られており、
死ねば浄土に救いとられると確信しているのだから、
何も恐れるものはない。
大いに安心した生き方となる。

戒律を守ることに努力し、
自分が救われるかどうかについて戦々恐々とし、
なんら安心を持つことのできない人と、

大いに安心して生きる人とでは、
どちらが心おきなく自分の仕事に打ち込むことができ、
積極的に生きることができるだろうか。

大いに安心した人は、
あらゆる迷信や不自然な道徳的抑圧から、
解放され、自由にのびのびと、
自分の本来のあり方と能力を発揮できるだろう。

つまり、自力・他力とは、
信心のベクトルのことであり、

救われるために善を積む生き方と、
すでに救われたのだから、
その喜びから大いに感謝して、
自然と善に励むという、
その二つの方向性の違いのことである。

そうであるから、
その生き方を傍から見れば、
映る姿のあり方としては、
他力の信心の人の方が、
精進し、努力の限りを尽くしているように見えることだってあるだろう。
努力の有無とは全然別の話なのである。

むしろ、本当の浄土教者、念仏者は、
大いに精進し、常に精進する生き方を示すだろう。

本当の念仏者とは、
至誠を尽くし、
真実心に生き、
常精進の生き方となるはずである。
至誠心こそが、
念仏者の証だとはっきり法然上人は指摘している。

だから、
常に精進し、
至誠心の限りを尽くして生きる生き方を、
“自力”を尽くして生きる生き方と呼び、

何ら至誠心を尽くさず、
世の中の風潮にただ流され、
無責任に生きるのを、
“他力”に依存する生き方と呼ぶのであれば、

浄土教は、
まさに“自力”の宗教であり、
全く“他力”とは違う生き方である。

生かされていることの自覚に、
何よりも立つ人であればこそ、
どこまでも生きることもできる。

未だに続いている自力と他力の概念の混乱は、
もういいかげんに払拭されていい頃だろう。

他力の信心であればこそ、
身命財をも惜しまず、
共生浄土の実現に生きる生き方となる。

そのことを、
念仏者ははっきり説明すべきであろうし、
自らの生き方で示すべきなのだと思う。

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「一年の念仏生活を振り返って」


この一年、
念仏を称えて暮らしてきた。

それまでは、
真言密教や禅に親しんでいた。
去年の今頃、
いろんな理由や機縁によって、
聖道門を捨てて、
浄土門に帰した。

何か変わったろうか。
何か得たろうか。

よくわからない。

三昧発得は、
未だに到底できていない。

念仏の道の真髄を、
未だに得てはいない。

けれど、一応、
概念や歴史のラフスケッチは、
得たかもしれない。
大まかな地図は。

また、
念仏を称える暮らしの中で、
いろんな過去の偉大な念仏者の事跡に触れ、
縁をいただくことができたのかもしれない。

難しい修行や坐禅は、
もうやたらとやらなくなったし、
やりたいとは思わなくなった。
ただ一心称名すれば、
最高の境地に至ることへの確信ができた。

そんなものでいいのだろうか。
一年ぐらいなのだから、
そんなものでいいのかもしれない。

日々の暮らしの中で、
いろんな阿弥陀仏の恵みに触れてきた。

そのことに、
多く無自覚でいるけれど、
少しだけ目覚めることはできたような気がする。

信仰と他力と謙虚さと、
そんな自分に欠けていたものを、
すこしずつ学んだ気もする。

よくはわからないが、
浄土門に帰してよかったと思うし、
この道しか、
たぶん自分が本当に救われる道はないのだと思う。
日々、少しずつだけど、
救いを感じれるようになった。
それだけでいいのかもしれない。

これから、さらに一年、
どうやって浄土門の道を深めていこう。
できれば、三昧発得までいきたい。
一心称名し、
聞法に努め、
阿弥陀仏の本願に仕えることに尽くしていこう。
常精進あるのみだ。

法然上人の道に従って、
一心称名して、これからも真っ直ぐ進んで往こう。


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