大悲の風に乗るために 信心

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「このままではいけないとどうして思ってきたのだろう」

このままではいけないと、
どうして思ってきたのだろう。

世間の風潮や価値観がかけてくる暗示を、
気づかぬうちに、
刷り込まれてきたからだろうか。

いつの間にか、
このままではいけないと思うようになって、
ずいぶん自分を苦しめてきた。
自分を否定してきた。

今もしょっちゅう、
気づかぬうちに自分を責め、
自己嫌悪と不信の中を生きている。
気がつけば不安を抱いている。

けれども、
このままでいいと、

南無阿弥陀仏と称えさえすれば、
なんらさしつかえないのだと、

くりかえしくりかえし、
丁寧に説かれている、
法然上人の本を読んで、

はっと気付く。

自分は無条件に、
絶対に、
阿弥陀仏から愛され、
受け入れられているのだと。

そしてまた、
その大事なことを忘れて、
また御文を読み、
そのたびに思い出させられる。

きっと、このくりかえしの中で、
すこしずつは、
往生に、
救いに近づいているのだろう。

日々の称名の中で、
少しずつは、
信じられるようになってきている。

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「小さな幸せを積み重ねていこう」


小さな幸せを、
いっぱい積み重ねていこう。

悲しいことがあったなら、
それを埋め合わせるだけの。

一輪の花の美しさに足をとめ、
一杯のコーヒーやお茶や、
お菓子や食べ物や、
人との出会いや共に過ごすことや、

いろんなことに、
小さな幸せを見出して、
人生の甘美な味わいを発見していこう。

金持ちや権力者には決して味わうことができない、
自由な庶民でこそ見つけることのできるものを。

私独自の幸せを、
つくりあげていこう。

どんなに大変な時代であっても、
人は幸せになれる。

法然上人や妙好人たちが、
身をもってそのことを示してくれた。
妙好人とは、
人生の達人のことだろう。

念仏さえ称えていれば、
何も思い煩うことはない。

幸せは、
日々の暮らしの中にこそある。
日々の念仏の中にある。

いかに生活の情味を見つけ、
深めつくりあげていくか。
人生の妙味はそこにある。

私もいつか、
達人になろう。

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「念仏者はアグレッシブに 以善攻悪」


久しぶりに、
無量寿経を読み直していたら、

「以善攻悪」という言葉が、
光って飛び込んできた。

以善攻悪。
善をもって悪を攻める。

なんという、
アグレッシブな、
積極的な言葉だろう。

長く生きるにつれて、
この世には善も悪もないとか、
どうせ悪は変わらないとか、
ついつい思いがちになりかけるが、

そんな消極的なものを吹っ飛ばすような、
確固たる言葉がそこにあった。

悪をもって悪を攻めるのではない。
善をもって悪を攻める。

長い人類の歴史の中で、
しょっちゅうあった戦争や粛清は、
以善攻悪のつもりだったかもしれないが、
じつはことごとく以悪攻悪だったろう。

己の心の中の悪をしっかり見すえて、
しかも甘やかすのではなく、
しっかりと克服していくこと。
それこそ本当の以善攻悪だ。

善とは、
仏の願いを知り、
信じること。
つまり、念仏すること。

善をもって悪を攻めるとは、
智慧をもって無明を攻め、
愛をもって無関心を攻め、
平和をもって戦いを攻め、
穏やかさをもって激しさを攻めることだと思う。

仏の願いをもって、念仏をもって、
アグレッシブに生きること。

きっと、「以善攻悪」における、
「攻」という字は、
鎮めるや和らげるや治めるという意味だと思う。

けれども、無量寿経に「攻」という字が、
あえて使われているのは、

きっと、勇気を奮い立たせるため。
この世の不正やあやまちを、
積極的になくしていくという、
ポジティブでアグレッシブな態度を、
はっきりと説くためだったのだろう。

私は一心称名しながら、
以善攻悪につとめよう。
今まで、そういう心がけが欠けがちだっただけに、
無量寿経のこの心を、
今後は特に忘れまい。

念仏者は、
何もしない人のことではない。

積極的にこの世において、
善をもって悪を攻め、
共生浄土を実現する人のことだ。

法然上人は、
無量寿経をこそ、
根本の経典だとはっきり定めた。

私は、無量寿経のこの言葉を、
本当に生きたい。



【参考資料】

今我於此。世間作佛。降化五悪。消除五痛。絶滅五燒。以善攻悪。抜生死之苦。令獲五徳。昇無爲之安。
「いま我この世間において仏となり、五悪を降化し、五痛を消除し、五焼を絶滅し、善をもって悪を攻め、生死の苦しみを抜き、五徳を獲せしめ、無為の安きに昇らしめん。」
(私はこの世界において仏となって、他を犠牲にして競いあったり怠けたりするような人々が抱く悪い思いをおさえさせ、無知や競争から生じる痛みを除いて、燃え上がる誤った欲望の心を滅ぼし、善をもって悪を攻め、迷いの人生の苦しみを抜き去り、共生浄土を生きる心を得させ、ニルヴァーナの安らぎに到達させよう。)
(無量寿経 下巻 五悪段)

「挙身光明 照十方国(世の光となれ)」


挙身光明、照十方国。(こしんこうみょう、しょうじっぽうこく)

身をあげて光かがやき、
十方の国を照らす。

何度も今までに読んできた、
観無量寿経の中のこの一節。
今まで特に気にとめなかったこの八文字が、

今日ははっきりと目に飛び込み、
世の光となれというその意味が、
ありがたく胸に響いた。

この身全部をあげて光輝き、
周囲を照らす人となること。

これこそ念仏者の理想。
菩薩の姿。

これから、
座右の銘にして生きていこう。

挙身光明、
照十方国、
作紫金色。

誰もが世の光であり、
その光を輝かすべき存在なのだから。

念仏によって光り輝き、
いつかこの世を浄土の色に染め上げる。

そのような人が歩む時、
縁のある人はみんな照らされて、
世界は響鳴する。
(有縁衆生、皆悉得見)
(十方世界、一切震動)

世の光となれ、
世の光となれ。

あなたの光に縁のある人は皆照らされ、
あなたが歩む時、
世界に必ず響きが生まれる。


【注】上記引用の経文は、観無量寿経の中の勢至菩薩について述べられた箇所から。

鬼から仏へ

「鬼から仏へ」


十年前、
私の心は、
自力作善の、
鬼のような心だったと思う。

五年前でも、
そうだった。

仏縁のお育てのおかげで、
今は他力信心の菩薩にしていただいた。
それも、もちろんぜんぜん完全には程遠いけれど、

南無阿弥陀仏。
ありがたいこと。

結局、人間は、
自力作善の心で努力すれば努力するほど、
良かれと思って気づかぬうちに、
鬼のような心になってしまうのだろう。

逆に、
他力信心をいただき、
おまかせすればおまかせするほど、
仏のような心にお育てしていただくのだろう。

鬼から仏へ。
南無阿弥陀仏。

もはや自力作善には後戻りせず、
他力の信心をいただいて、
念仏申して浄土へ往こう。


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