熊野にて

やっぱ田舎(熊野)は、最高やのし 愛国の人です 略して愛の人!戦争嫌い

歴史

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http://you.prideandhistory.jp/content_nothink
日本人の歴史認識は低いからね
学校でも教えないし
国家やマスコミの責任やね

論理的に話ができないのが日本人ですか・・・
9条や核について 議論しようよ






今から73年前の6月11日夜、支那軍は、黄河の堤防を破壊し、大洪水にし、何十万人もの命を奪った。

泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、支那人に対する日本軍の必死の救助作業が続く。
同盟ニュース、昭和13年6月23日
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1938年6月11日夜に始まった支那の大洪水には、天災の要素はなく、人間が意図的に起こした神をも恐れぬ大犯罪だ。

1938年の水害では、死者は河南省だけの少ない見積もりでも32万人、記録によれば89万人とも100万人とも言われている。
しかも、驚くことに、73年前の大水害は自然災害ではなく、支那軍が人為的に行った人的災害だった。
その1938年の大水害は「黄河決壊事件」と呼ばれ、当時、支那民衆を大量に殺しまくっていた支那軍と、そんな支那民衆を救助しまくっていた日本軍の代表的な出来事として、支那事変について勉強している人なら知っている大事件だ。
まだ知らない方は、これを機会に支那事変では、支那軍が支那民衆を殺しまくり、日本軍が支那民衆を救出しまくっていた実態を是非とも知って頂きたい。
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1938年6月6日に、日本は河南省の中心地である開封市を占領、鄭州市も攻略できる様相となった。
早急な対策が求められた国民党軍側では劉峠第一戦区副司令官の「黄河の堤防破壊により洪水を起すことによって日本軍の進撃を阻止」する案が程潜司令官に示され、蒋介石の承認を得た。
蒋介石は、商震将軍に日本軍前衛部隊の背後を突くように堤防爆破を命じたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破は延ばされた。
この間、蒋介石は何度もその爆破が行われたかの問い合わせを行っている。
おそらく蒋介石は、日本軍の進撃を阻止するために、味方諸共水攻めにしようとしたのだろう。
6月7日には中牟近くで爆破が行われたが、これは結果として失敗し、その後、場所を花園口に変更して作業が進められた。

6月9日午前9時に作業が終了、堤防が破壊されると黄河の水は堤防の外に流れ出し、河南省・安徽省・江蘇省の3省の土地54,000平方kmを水浸しにした。
この結果、黄河の流れはその後9年間、南側へ変わり黄海に注ぐようになった。
水没した範囲は11都市と4,000の村におよび、3省の農地は農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある。
6月11日夜、支那軍は、隴海線中牟の西方20Kmの地点で黄河の堤防3箇所を破壊した。
二、三日前の雨で増水した黄河の水は堰を切って奔流しつつあった。
6月12日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。
洪水は中牟を中心として幅約20Kmにわたり、5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。
幸い線路が高い所に位置していたため、住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。
日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。
日本軍に救助された避難民は開封方面1万人、朱仙鎮、通許方面5万人、尉氏方面2万人、その他数万人だった。
国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した。
日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた支那軍遊撃隊が麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともあった。
6月11日午前、支那国民党の通信社であった中央社は「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を発信した。
6月13日、さらに支那国民党は、支那全土の各メディアに虚偽報道の上「日本軍の暴挙」と逆喧伝させた。
当然、日本側は、支那の発表を否定するコメントを出した。
支那側からは、最初は黄河の堤防破壊は堤防の影に避難している支那軍を日本軍が砲撃及び爆撃した時になされたものであるとの説明がなされ、後には事件は日本軍によって意図して行われたことであり、中牟と鄭州地区にある支那軍陣地への水攻めとし、かつ後方連絡を脅かすゲリラに対する戦略であり、広東への絶え間ない無差別爆撃と同様に支那民衆を威嚇する日本軍の作戦の一部とされた。
さらに報告では日本軍機による中牟北部の堤防への爆撃が続けられ、これが洪水を悪化させ、かつ日本軍は洪水の被害を受けた地区からの避難民を機関銃で銃撃していること、が説明された。
支那国民党は、自分たちが行っていた住民への銃撃まで日本軍の仕業だと嘘を吐いて逆宣伝を行っていた。
日本側は、開封の堤防破壊は支那軍に強制された農民によるものと声明を出した(国民党軍は1個師団の兵に加えて付近の農民を強制して作業を行っていた)。
また、日本軍は自軍の前進を妨げる洪水を引き起こす黄河の堤防破壊をすることはなく、さらに堤防の大きさを考慮すれば爆撃と砲撃によって堤防を破壊することは不可能だと主張した。
以下は、この大水害に関する文献や資料だ。

『抗日戦回想録』郭沫若自伝より
敵の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの戦略は、6月11日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。
あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。
わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。
しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。
敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。かくてしばしの安逸を貪っていた当局も「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。私たちが活躍すべき機会到来であった
1938年年6月、開封が日本軍に占領されると、支那軍は日本軍の追撃を断ち、日本軍を水攻めにするため黄河の堤防を破壊した。

ところが、支那は、この犯行を「日本軍がやった」と嘘報道した。
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事実は日本軍は濁流に飲まれる支那住民を救っていた。
その後、支那軍は揚子江の堤防も決壊した。 
1938年6月26日
6月26日同盟ニュース
『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』
悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、怨嗟憤怒は地に満ちている

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わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ
支那事変画報 第33号(毎日新聞 1938年7月11日)

更に支那軍は9月23日にも武穴鎮の下流で揚子江を決壊させた。

支那軍は、自分たちが安全に逃げる、ただそれだけのために、夥しい数の支那人民の生命と財産を犠牲にし、お人好しの日本軍に支那住民を救助させた。 

黄河決壊事件の被害状況についての第一報は、6月21日に日本軍の占領下にある開封の治安維持会と商務会が発表している。
それによると、罹災者約100万人、うち行方不明者約12万人、浸水部落約3500、うち水底に没したもの約2000、倒壊浸水家屋約30万戸、被害面積約200平方キロという(大阪朝日6月21日)。
死者数については、終戦後の1945年12月に国民政府が河南省で行った「河南省戦時損失調査報告」がある。
それによると、1944年末の段階で、洪水による死者約32万人、離郷者数約63万人という数値を提示している。 

●その他資料
―――――――
一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ。
穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった。
日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は1938年に黄河の堰を開いた。
すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。
「思い切った」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。
彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである。
『中国革命の起源』ルシアン・ビアンコ著

「黄河決壊事件を歴史教科書に載せろ!」

東京大空襲の

漫画で大空襲を見つけました
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米国は戦時国際法違反を行ったのです。
日本は、国際法を順守しながら戦いました。
今の日本人を見たら順法精神が世界一と言われています。
順法精神は今始まったのではなく 先人が積み上げてきたのです。
先人に感謝です。

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皆様は賢明なる日本人ですから、勿論学生時代、表題のことは習っていますね。
あの当時10回行って1回くらいしか成功しなかったと言うことも皆様知っていると思います。

ここで疑問です。
なぜ危険な 東支那海を通るルートなのか?
何故、朝鮮半島を通らなかったの?
わしも謎なのです。
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西暦200年代には倭から朝鮮半島に何度も何度も行ってます。
これは歴史本に事実として書かれています。
対馬を通り朝鮮にわたりそして唐や隋に行けば嵐やしけによる被害は少なかったのではないか。

問題は何故、朝鮮半島を通らず、東支那海を通る道でしか行かなかったのか。
どなたか知っていたら教えてください。
10回に1回しか成功しない道を選ぶその理由です。

もしかしたら朝鮮半島を通る道程には、東支那海を渡る
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道程以上の危険があったのでしょうか。
10回に1回も成功しないほどの何か(あらゆる想像できる危険以上の危険)があったとしたら この不思議問題は解決します。







その理由(想像)
*半島には俗にいう追剥が横行していた
*治安があまりにひどく原住民以外はいけない未開の地であった
*朝鮮猿が住んでいて凶暴性が半端なかった
*朝鮮人は外来者を見ると火病を発症して危害を加えるから
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う〜〜〜〜ん
分からないな〜〜


分からないけど日韓通貨スワップ100億ドルが期限切れとともに無くなったのは良いことです。
日本のためにならないのですから。
竹島の不法占拠をしている敵国です

日韓友好など絶対にあり得ない
日支友好もあり得ない


【早苗コラム】

「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」(記事資料 昭和34年7月11日/ 昭和35年2月外務省発表集第10号より抜粋)

1、第二次大戦中内地に渡来した朝鮮人、したがつてまた、現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるというような誤解や中傷が世間の一部に行われているが、右は事実に反する。   実情は次のとおりである。

1939年末現在日本内地に居住していた朝鮮人の総数は約100万人であつたが、1945年終戦直前にはその数は約200万人に達していた。
そして、この間に増加した約100万人のうち、約70万人は自から内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加によるのであり、残りの30万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したものであり、国民徴用令により導入されたいわゆる徴用労務者の数はごく少部分である。
しかしてかれらに対しては、当時、所定の賃金等が支払われている。
元来国民徴用令は朝鮮人(当時はもちろん日本国民であつた)のみに限らず、日本国民全般を対象としたものであり、日本内地ではすでに1939年7月に施行されたが、朝鮮への適用は、できる限り差し控え、ようやく1944年9月に至つて、はじめて、朝鮮から内地へ送り出される労務者について実施された。
かくていわゆる朝鮮人徴用労務者が導入されたのは1944年9月から1945年3月(1945年3月以後は関釜間の通常運航が杜絶したためその導入は事実上困難となつた)までの短期間であつた。


2、終戦後、在日朝鮮人の約75%が朝鮮に引揚げたが、その帰還状況を段階的にみると次のとおりである。

(1)まず1945年8月から1946年3月までの間に、帰国を希望する朝鮮人は、日本政府の配船によつて、約90万人、個別的引揚げで約50万人合計約140万人が朝鮮へ引揚げた。
右引揚げにあたつては、復員軍人、軍属および動員労務者等は特に優先的便宜が与えられた。
(2)ついで日本政府は連合国最高司令官の指令に基づき1946年3月には残留朝鮮人全員約65万人について帰還希望者の有無を調査し、その結果、帰還希望者は約50万人ということであつたが、実際に朝鮮へ引揚げたものはその約16%、約8万人にすぎず、残余のものは自から日本に残る途をえらんだ
(3)なお、1946年3月の米ソ協定に基づき、1947年3月連合国最高司令官の指令により、北鮮引揚計画がたてられ、約1万人が申し込んだが、実際に北鮮へ帰還したものは350人にすぎなかつた。
(4)朝鮮戦争中は朝鮮の南北いずれの地域への帰還も行わなかつたが、休戦成立後南鮮へは常時便船があるようになつたので、1958年末までに数千人が南鮮へ引揚げた。 
北鮮へは直接の便船は依然としてないが、香港経由等で数十人が、自からの費用で、便船を見つけて、北鮮へ引揚げたのではないかと思われる。
こうして朝鮮へ引揚げずに、自からの意思で日本に残つたものの大部分は早くから日本に来住して生活基盤を築いていた者であつた。戦時中に渡来した労務者や復員軍人、軍属などは日本内地になじみが少ないだけに、終戦後日本に残つたものは極めて少数である。

3、すなわち現在登録されている在日朝鮮人の総数は約61万であるが、最近、関係省の当局において、外国人登録票について、いちいち渡来の事情を調査した結果、右のうち戦時中に徴用労務者としてきたものは245人にすぎないことが明らかとなつた。

そして、前述のとおり、終戦後、日本政府としては帰国を希望する朝鮮人には常時帰国の途を開き、現に帰国した者が多数ある次第であつて、現在日本に居住している者は、前記245人を含み みな自分の自由意志によつて日本に留まつた者また日本生れのものである。
したがつて現在日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き1名もない。

【在日朝鮮人の来住特別内訳表】

登録在日朝鮮人数        611,085人
《内訳》
(1) 所在不明のもの        13,898人
(1956年8月1日以降登録未切替) 
(2) 居住地の明らかなもの        597,187人(100%)
・・・(2)の内訳・・・
(A) 終戦前からの在留者         388,359人(65・0%)
うちわけ
(イ)1939年8月以前に来住したもの 107,996人(18・1%) 
(ロ)1838年9月1日から1945年8月15日までの間に来住したもの     35,016人(5・8%)
(ハ)来住時不明のもの           72,036人(12・1%)
(ニ)終戦前の日本生れ          173,311人(29・0%)
(B) 終戦後の日本生れおよび入国者 208,828人(35・0%)

「この資料の位置付け」について

この「外務省発表集」は、昭和35年の上半期からは「外務省公表資料集」と合併して「外務省公表集」と呼ばれるようになりました。
当時の発行元は、外務省情報文化局でした。

「戦時中に徴用労務者として日本内地に来られて、戦後も日本に残留された在日韓国人数」は昭和34年時点で245人のみとなっており、「強制連行」を根拠に、現在では46万9415人も居られる在日永住韓国人に参政権を付与しようとする原口総務大臣などの主張は筋が通らないということにもなります。

以上引用しました。

「したがつて現在日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き1名もない」
一名もないのですから強制はないと言うことです。

来住時不明のもの        72,036人(12・1%)
終戦後の日本生れおよび入国者 208,828人(35・0%)

この数字がどうも気になります。

次に戦後の 朝鮮人による主な犯罪です

昭和21(1946)年には、「首相官邸暴動事件」
昭和23(1948)年には同じく「戦勝国民」の地位に酔った朝鮮人3万人が一斉蜂起
大阪と神戸では府県庁を襲撃して知事や役人に暴力を行った上で監禁
昭和26(1951)年、滋賀県では「日野事件」が勃発(朝鮮戦争の戦禍から逃亡してきた朝鮮人50名が武装集団となり、警察署を襲撃)
昭和27(1952)年の「吹田事件」
昭和29(1954)年に起きた第二の神戸事件

米国の占領中に発生した朝鮮人犯罪を米軍が統計したところ、昭和22年から昭和25年までの、わずか3年間の朝鮮人犯罪者検挙数は、
殺人・強盗 4656件
レイプ   224件
放火    57件
傷害    17,552件
窃盗    44,494件

この他、集団での蜂起ではない朝鮮人個人の犯罪は、ここに表れた数字の千倍はあったであろうとも言われています。

さらに驚くべき事件は、昭和33(1958)年8月20日の太田芳江さん殺害事件
犯人の李珍宇は死刑判決を受けました。
だが犯人の母親が、「息子の行いに対して死刑は重すぎる」と主張し、控訴・上告をしたのです。
もちろん、判決は棄却です。
けれど在日朝鮮人たちは「差別されているのだから強姦や殺人を行っても仕方ないのだ」と公然と主張というとんでもないことを言ってます。

昭和43(1968)年には金嬉老の寸又峡事件
このとき韓国では、金嬉老は「日本人を殺した英雄」としてメディアが一斉に賞賛
日本国は非道なことは一切していないにもかかわらずです

このような惨劇の延長線上にあるのが、極めつけの拉致事件です。
朝鮮人に対して差別をせず、理解を示せというのは、実は行き過ぎた議論です。
理解することと、盲目になることは、まったく別ものだからです。
また、差別することと、不逞な犯罪集団に対してあたりまえの警戒をすることとは、違います。

かつて朝鮮半島を日本が統治した時代、時の朝鮮総督府は、何回も何回も何回も何回も、朝鮮人たちに、ある通達を出しています。
どんな通達かといえば、「路上脱糞禁止令」です。
彼らの国では、住居内にトイレがなく、老若男女を問わず家の前の路上で排泄をするのが常識でした。
これはたいへんに不衛生なことであり、臭気もままならないことから、朝鮮総督府は何度も「路上脱糞禁止令」を出したのです。
だが「路上脱糞」が不衛生でよろしくないことと思うのは、日本人の日本の歴史伝統文化風俗習慣がそうでないからです。

民族が違えば、文化が違うし価値観が違います。

それにしても日本人には受け入れられない事実です。
わしは無理です。

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