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静岡県下田市議会議員の小論文に感銘を受けましたので転載します。
言霊が日本中に飛び交うことを願います。
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こんにちは、ゲストさん
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静岡県下田市議会議員の小論文に感銘を受けましたので転載します。
言霊が日本中に飛び交うことを願います。
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http://sankei.jp.msn.com/world/news/140509/amr140509……
▲産經新聞:南京虐殺否定を翻訳者が無断加筆 ベストセラーの著者が修正要求 この報道は、共同通信社によって配信されたものです。産經新聞社記事の末筆に「(共同)」とあるように、これは産經記者による取材記事ではありません。
http://www.shodensha.co.jp/kokuchi/kokuchi.pdf
▲祥伝社:お知らせ『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』に関する各社報道について(PDF) 米ザ・ニュー・ヨーク・タイムズのヘンリー・スコット・ストークス元東京支局長が、祥伝社から出版された自著について、日本軍による「『南京大虐殺』はなかった」と主張した部分は、無断で翻訳者の藤田裕行氏が書き加えたものだった、と報じたのは共同通信社。
これに対し、著者がその報道は「誤り」と反論、「いわゆる『南京大虐殺』はなかった。大虐殺という言葉は、起きたことを正しく表現していない。もともと、それは中華民国政府のプロパガンダだった」との見解を改めて表明した。
祥伝社のウェブサイトに掲載されています。
英国人記者によって暴かれた過去のプロパガンダの正体は、現在の中華人民共和国にとって極めて不都合なものだったに違いありません。
何とかして、この著者か翻訳者、或いは出版物そのものの社会的信用を失墜させようという思惑があったのでしょうが、共同記者はなぜこれに加担したのか?
共同が北朝鮮の平壌に支社を開設できたとき、やはりその経緯に不審な点があったという指摘もありましたが、このような記事は「出してしまえばこっちのもの」という考えのもと、以後十分な「(本当の意味での)歴史修正」の材料になるもの。
最も迷惑を被ったのは、神道家の藤田氏でしょう。下手をすれば氏に出版関係の仕事が入らなくなるかもしれません。この手の記事は、誤報であってもそれだけの威力を持ち、この場合は人と国の名誉を奪います。
忘れてならないのは、日中戦争に於ける南京陥落に関し、人口約二十万の都市で三十万人以上が日本軍に殺されたという説と、そのような事実はなかったしありえないという説が、今も存在していることです。
私はこの本を読みました。
非常に痛快な本です
アマゾンで是非お求めください。
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日清戦争を観戦したフランスの国際法学者ポール・フォーシーユは、 日本の軍隊は至仁至愛の思想を体し、常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、 敵の病傷者を見ては未だかつて救護を拒まざりき。
民度が大変に高かった。 そしてその事によって、日本は、正に世界に認められる国となり、ついに明治35(1902)年には、当時の世界の最強国である英国と対等な軍事同盟を締結するに至るのです。
なぜなら、「カラード=猿」とみなす事が世界の常識であった時代に、
それが、日本の近代史です。 |
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300機を超えるBー29が38万発もの焼夷弾を投下、10万人以上の犠牲者が出た。
この東京大空襲、原爆投下同様にアメリカによる戦争犯罪だ。そもそもの始めから軍事施設ではなく市街地を標的にしている。参考にハーグ陸戦条約を見てみよう。 第23条5項:不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること(を禁止) …この空襲で用いられた焼夷弾は当時の日本の木造住宅を燃やして被害を与える為に開発された。 製造段階でわざわざ日本住宅を再現し(内部に畳や布団まで拵える拘りよう)、それを標的に実験を繰り返して開発したものだ。それを大量投下したのだから結果の予見は容易である。
また当日の 強い冬型の気圧配置という悪条件が重なり、巨大な火災旋風が発生し、(煙は成層圏に達したという。)火災による焼死に止まらず、酸欠による窒息死、また川に逃げたものの溺死や凍死したりで被害者が増大したと言われる。そしてその死者の大半は非戦闘員の一般市民であった。
そういう焼夷弾は明らかに「不必要な苦痛を与える」兵器に該当すると言える。
画像カーチス・ルメイ
また、第25条:防守されていない都市、集落、住宅または建物は、いかなる手段によってもこれを攻撃または砲撃することはできない。
…一見して明らかであろう。
この東京大空襲、指揮したのは当時少将のカーチス・ルメイである。
戦後に日本は彼に叙勲している。
Wikipediaより抜粋。
「1964年(昭和39年)12月4日に日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイに対し勲一等旭日章の叙勲を第1次佐藤内閣が閣議決定した。 小泉純也防衛庁長官も「功績と戦時の事情は別個に考えるもの」と答えている。(肩書きは当時)
勲一等の授与は天皇親授が通例だ が、昭和天皇はルメイと面会する
ことはなかったという。
後年『NHK特集 東京大空襲』でのNHKの取材で戦争責任についての問いにルメイは勲章を示して見せている。 「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」
とも述べたという。
ルメイの前任者だったハンセル少将は、高高度からの軍事目標への精密爆撃に拘った故に解任されている。
一読して明らかな様に東京大空襲はやったアメリカ側の人間ですら「戦争犯罪」と認める暴挙だった。 大虐殺と言われて当然だ。それを非常識と非難する方が非常識なのだ。 勿論駐日大使館キャロライン・ケネディの事だ。
「前任者だったハンセル少将は、(高高度からの)軍事目標への(精密)爆撃に拘った」とあるが、これこそが本来の戦争法規に沿ったやり方である。
…しかしながら勝ったから無罪、負けたから有罪となるのか? 否、勝っても戦争犯罪には変わりない。
ただし日本はサンフランシスコ平和条約で賠償を放棄しているため、連合国の戦争犯罪に賠償を請求出来ない。
また、ハーグ陸戦条約は交戦国全てが批准していないと適用されない解釈や判例もあるため、その解釈だと第二次大戦の如く沢山の国が戦争をした場合、敵味方問わず批准していない国が存在したら全ての国に適用されない事になる…
「戦争とは全て道徳に反する。」
と言ったそうだが、
「勝った方が正義」
とは言えないのだ。
勝っても負けても戦争自体が非道徳の所業だ。
アメリカは戦争に勝ったからと自らの戦争犯罪を有耶無耶にしたが、それと正面から向き合って始めて歴史を語る事が出来る。
日本はこういう問題を隣の国のように いつまでも言うことはしない
ただ歴史を正しく知ることが必要である
日本には「水に流す」という言葉がある
いつまでも過ぎ去ったことで恨み言は言わないで 未来に向かう
何度も重ねて書くが
「この歴史問題を知ることは必要だがいつまでも恨み言のようにはいわない」
そこに日本の良さがある
今日も予算委員会が開催されました。
委員長職は非常に疲れます・・・・
神経を張りつめた一日は何とも言えません
明日も予算委員会が開催されます
その後は、常任委員会(総務厚生)です
精一杯頑張ります
前に向かうことが好きです
後に向いては 何事も進みません
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今日は、知る人がが少ない戦艦の中でも「熊野」についてです
太平洋戦争開戦後は、マレー上陸作戦に参加、、1942年3月1日にはバタビア沖海戦、6月5日から7日にかけてミッドウェー海戦に参加する。
この戦いで同じ第七戦隊に所属していた姉妹艦「最上」と「三隈」が衝突し、「三隈」が沈没、「最上」が大破する。 その後、インド洋での通商破壊作戦に従事すべく、損傷のなかった同型艦「鈴谷」と共にマレー半島のメルギに進出した。 出撃前の8月7日、米軍はガダルカナル島とショートランド諸島に上陸を開始し、ガダルカナル島の戦いが始まる。 「熊野」と「鈴谷」は通商破壊作戦を中止してトラック泊地へ向かい、8月22日に南雲忠一中将率いる第三艦隊(南雲機動部隊)と合流した。 機動部隊における「熊野」の役割は、第十一戦隊の戦艦「比叡」、「霧島」と共に前衛部隊として米軍の攻撃を通報・吸収する役目だった。つまり「 駆逐艦兼おとり 」。 8月24日の第二次ソロモン海戦ではB-17爆撃機と交戦。10月26日の南太平洋海戦では、空母「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」からなる機動部隊本隊の直衛に編入されて戦った。 「鈴谷」は前衛のままであった。その後は1944年6月19日のマリアナ沖海戦に参加した。 ここまで見ても、主要な海戦にはほぼ全て参加していることが分かる。
そんな本艦は、その命燃え尽きる最期まで激戦を繰り返した。 「熊野」は最期の1ヶ月間に魚雷6、8本を喰らい、爆弾10発の多大な被害を受けているのである。 時は1944年10月、日本が「天王山」と称したレイテ沖海戦。 この戦いがあるまで、日本の重巡戦力はソロモン沖海戦でダメージを受けるも、主力の「妙高型」「高雄型」「利根型」は全艦が稼働しており、最上型も「三隈」を除く3隻が無事であった。 だが、このレイテ沖海戦により、参加した重巡13隻のうち、なんと6隻が海の底に沈んでいってしまう大損害を被る。 「熊野」「鈴谷」「利根」「筑摩」の4隻から成る第七戦隊は、栗田中将の指揮下、この激戦を無傷で切り抜け、25日にサンベルナルジノ海峡を突破していた。 早朝、同じ栗田艦隊所属の「大和」が敵の護衛空母部隊を発見。サマール沖海戦が始まった。 「熊野」は最大出力で一直線に米空母に突撃。これを守らんとして敵は煙幕を張り、「熊野」の突入を妨害する。 視界を奪われた「熊野」も、更に速力を上げて詰め寄るが、一瞬の隙を突かれ、煙幕を破って「熊野」の真横に飛び出した米駆逐艦「ジョンストン」からの攻撃を受ける。 「ジョンストン」は敵前に身を晒しながら、猛然と主砲弾を発射。さらに10本の魚雷を発射し、「熊野」を沈めんとする。 敵空母までの距離は約9000m、回避行動をとる「熊野」だったが、魚雷の最後の1本が命中。 艦首錨孔より前を吹き飛ばされ、さらにその後の空爆によって左舷缶室が浸水 してしまう。 「ジョンストン」はその後、戦艦「榛名」の怒濤の反撃と「雪風」の雷撃が決め手となり海中に没するも、「熊野」は航行不能に陥る。 敵艦載機が飛び交う中で行われた必死の応急処置により、何とか12ノットの速力が出せるようになった「熊野」はレイテ突入を断念、撤退を開始する。 ここから「熊野」の永い永い日本本土への旅が始まった。
ただ1艦、西に向けて進んでいた「熊野」は、途中で直掩部隊に出会う。水上爆撃機「瑞雲」3機、艦上攻撃機「天山」1機である。
上空から見る「熊野」は艦首が吹き飛ばされて艦様が変わっており、これを 損傷した敵艦と判断 した直掩部隊は次々と「熊野」に襲い掛かった。 幸い、命中弾こそ無かったものの、友軍機の錬度も落ちていて、敵味方の識別すら満足に出来なくなっていることを艦長は痛感したという。 その後、今度は35機の米雷撃機と米爆撃機が来襲し、「熊野」は防空戦闘を開始、今朝突破したサンベルナルジノ海峡で 単艦で 死闘を繰り広げる。 巧みな操舵によって 魚雷と爆弾の全てを回避 、約30分に渡った空襲を切り抜けた。 しかし翌日10月26日には、80機もの米軍機による急降下爆撃を受ける。 艦橋左舷、煙突付近に3発命中し右舷缶室にも被害 を受け、一時航行不能に陥るも回復、10ノットでコロンに向かう。途中3回空襲を受けたが奇跡的に無傷であった。 コロン湾で補給を受け、今度はマニラ湾で修理を受けるために航行を続ける。駆逐艦「沖波」の護衛もあり、被害無くして10月28日にマニラ湾に入港した。
マニラ湾では、レイテ沖海戦によって甚大な被害を受けた「那智」などの多数の艦艇が入港しており、ドックを待つ艦が狭い湾に入り乱れごった返す始末。 このため連合艦隊司令から、「マニラで応急措置を施し内地で修理を行え」との命令を受ける。 艦首が吹き飛ばされてマトモに投錨できない「熊野」は給油艦「隠戸」に横付けして速力を治すための応急修理のみを行い、日本へ戻ることになった。 この修理によって、速力は15ノットに回復し、船団の護衛つきで、大破して5ノットの速力しか出せなくなった重巡「青葉」と共に中継地点のサンタクルーズ港へ向かう。 11月5日、マタ31船団を護衛してマニラを出港しサンタクルーズへ移動する。この頃「熊野」には別に困ったことがあった。
2週間前のサマール沖海戦からの撤退から相次ぐ空爆に応戦し続けた結果、 弾薬が欠乏していた のである。 幸いにしてこの航海時には空爆も受けずに無事サンタクルーズ港へ辿り着き、「青葉」からも弾薬を分けてもらうが、それでも不足を補うことは出来なかった。 これが、「熊野」の最期に大きく響くこととなる。 11月6日、サンタクルーズ港を出港しバシー海峡へと一行は向かう。しかし、この海峡は米潜水艦の潜伏地域でもあったのだ。
リンガエン湾から北にかけて、米軍は潜水艦を常時展開し、日本の最も重要な航路の一つを見張っていたのである。 案の定、突入するや否や、米潜水艦「ブリーム」「グイタロ」「レイトン」「レイ」の4隻が船団を襲撃。 35分に渡った合計4回に渡る雷撃攻撃。その最後に「レイ」から放たれた、4本のMk18魚雷の内2本を「熊野」はかわしきれなかった。 その魚雷は 1本が艦首に命中し1番主砲の前で船体切断、もう1本が1番機械室に命中し機械室全室浸水 。これによりたちまち航行不能に陥ってしまう。 一方の「青葉」は「熊野」より更に不利な状況下でありながら全攻撃を回避。 戦闘終了後、身体が引きちぎれた「熊野」に対して「青葉」が発した言葉は「ワレ曳航能力ナシ、 オ先ニ失礼 」。 油槽船「道了丸」に曳航され11月7日、1.5ノットで命からがらサンタクルーズ港へ戻った「熊野」だが、その2日後に台風が襲来。あわや沈没かと思われたが一命をとりとめた。
しかし復水器の破損や蒸気漏れのため、台湾の高雄に到着するまでに必要な真水500tが不足、ドラム缶を使い 川から真水を毎日30tずつ運んで復旧 させている。 途中で小規模の空襲もあったが、11月21日までに缶1基と主機1基を整備。速力6ノットが可能になった。しかし度重なる応戦によって弾薬の窮乏は深刻な事態となっていた。 ここまで、あの手この手で復旧を行い、命がけで航海を続けた「熊野」だが、その悲願=日本への帰還はついに達成されなかった。
11月25日朝、出航準備が整う寸前、アメリカ連合艦隊によりサンタクルーズ港を含む一帯は大規模空襲を受ける。
「熊野」は被害を出さなかったものの、応戦によって残弾は約3000発となり、 1つの砲門から放てる弾薬は80発にも満たなくなってしまった。 そして同日14:30分、米空母「タイコンテロガ」から放たれた艦載機が、回避運動もままならない「熊野」に対して集中砲火を浴びせる。 艦橋後部に1弾、艦橋後部右舷に連続して2本の魚雷が命中、一番砲塔左舷横と飛行甲板左舷にも1本ずつ命中。爆弾も3発から5発が二番砲塔左舷に降り注いだ。 左舷に傾いた「熊野」はそのまま転覆、艦長以下400名も一緒に海に沈んでいった。1944年11月25日、15時30分のことあった。 サマール沖海戦での撤退から1ヶ月、満身創痍の身体ながら、計15回以上に及ぶ空襲を傷だらけになりながらも切り抜け、あらゆる措置を施してまで日本へと帰ろうとした「熊野」。 その思いはついに届くことなく、フィリピン島サンタクルーズ沖にその身を沈めて果ててしまった。 彼女が最期に夢見たのは、なんだったのであろうか。 レイテ沖海戦では同型艦「最上」「鈴谷」も沈没。「熊野」の沈没により最上型は全艦戦没してしまった。 「熊野」のラスト1ヶ月の決死の戦いは、 日本の物資、物量における弱体化 を象徴づける一つのエピソードといえるものである。 1945年1月20日除籍。 なお、途中まで一緒だった「青葉」は無事に日本に帰還。呉で浮き砲台となって終戦まで戦い抜いた。 1968年12月2日、観光中のダイバーがサンタクルーズ沖で海底に沈んだ「熊野」を発見し、遺骨約50柱を海底から持ち帰った。
戦艦の名前が「熊野」どうしても気になります |
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