熊野にて

やっぱ田舎(熊野)は、最高やのし 愛国の人です 略して愛の人!戦争嫌い

歴史

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静岡県下田市議会議員の小論文に感銘を受けましたので転載します。
言霊が日本中に飛び交うことを願います。

<タイトル>
アメリカよ、日本を打つならまず自らの手を清めよ
〜幾多のお吉たちへの鎮魂歌〜 

静岡県下田市議会議員 高橋富代


 アメリカに愛着がある。私は下田の生まれで、物心ついた頃から黒船祭がありアメリカという国が水兵さんの姿で、時にはアメリカ大使の姿で日常にあった。 
 先の戦争が、アメリカに巧妙に仕掛けられたのだと長じて認識してもなお、相模湾の潮騒と黒船祭を幼児期の原体験に育った私は、同国への憧憬を捨て切れずにいた。 
 それが、突然崩れ去ったのは、二〇一四年四月二五日のことである。 
朴槿恵大統領とソウルで会談したオバマ大統領が共同会見で言い放った言葉で、私のアメリカへの片思いは終わった。この片思いは多くの日本人が、アメリカに対して抱いて来た心情と同種だと思う。ハリウッド映画や、ホームドラマで見つめてきた、豊かで明るい正義の国アメリカ! 

 「甚だしい人権侵害だ」とオバマ大統領は切り出した。「慰安婦らの主張は尊重されるべきだ」「過去を正直かつ公正に認識しなければならない」と日本を裁き「安倍首相や日本国民もそのことを分かっているはずだ」とまで口にした。 
 一九四四年に朝鮮人慰安婦たち二十人へのアメリカ陸軍の尋問調書が収められているのは、他ならぬ米国立公文書館である。調書の「序」にわく「慰安婦は売春婦、Professional camp followerにすぎない」と。 
 しかしオバマ大統領にとっては真実など意味もなく、同盟国である日本を韓国と共に貶めることなど、蚊を叩く程度のことなのだ。と、そう私は唐突に思い知ったのだった。 
  
 安倍総理の靖国参拝にアメリカが「失望した」と言ってきた時に、すでに違和感はあった。東京裁判の開廷者であるアメリカが、A級戦犯の何たるかを知らぬはずもなく、要するにでっち上げの戦犯であり、日本が勝っていれば、アメリカに戦犯が大量に生まれていただけのことだ。しかし私は、芽生えた不審の念に視線を当てることを避けた。アメリカを敵に回したら、防衛の要である日米同盟が壊れ去る、と潜在的恐怖心があったのだと思う。加えて、パブロフの犬的調教として、日教組、そして当時はGHQのコントロール下にあったNHKなどから、戦後七十年弱かけて刷り込まれていたのであろう。「アメリカ様に逆らってはならぬ」と。逆らえば餌をもらえず、叩かれるのだ、と。 
 しかし、いともあっさり韓国に寄り添い日本を足蹴にしたアメリカ大統領に私は、悟らざるを得なかったのだ。親米保守であった私の足元が瓦解した瞬間であり、「鞭」の存在に気づいた瞬間であった。日本の頭上に常にふりかざされていた、アメリカの鞭である。この鞭は、日本が歴史の真実、つまりはアメリカが世界に知られたくない事実を日本人が知り始めた時、まず威嚇のために床にピシリと鳴り、日本が自立しようと立ち上がった時は脳天に振り下ろされる鞭である。それと共にNHKも、民放のある番組も新聞も、いまだ戦時下のプレスコードを抜け出していないという現実に私は息を呑んだ。日教組も、彼らが実質作る教科書も、時には入試問題さえ、日本毀損と弱体化のいまだ道具である。 
 オバマ大統領はあろうことか、東京大空襲の「ドーリットル爆撃隊」の隊員に、 議会最高位の勲章を授与する法案に署名した。日本各地の大空襲では無抵抗の赤ん坊や、小学生まで含めて民間人計三十三万人が空襲で殺された。原爆と合わせると七十七万人の非戦闘員が命を落としている。ドーリットル爆撃隊への授章理由は「傑出した勇気」だそうだ。 

 中韓の執拗な日本攻撃と反日の源流はつまるところ、東京裁判と、GHQの日本弱体化政策に帰する。思えば、進駐軍が日本のマスコミにかけた規制「プレスコード」には、連合軍への批判禁止に加えて「.朝鮮人への批判」と「中国への批判」があったではないか。わざわざ「朝鮮人」と特定して批判を禁じた意味を日本人は考えるべきであろう。在日優遇または犯罪お目こぼし政策は、彼らを自己増殖するトロイの木馬として日本に埋め込んでいったということではないか。「朝鮮進駐軍」容認がその一例である。差別的見地で言うのではない、歴史の実相を直視するところから始めぬと、日本の進むべき道が見えて来ぬ。日本人として戦った朝鮮の人々を、日本の被害者として置き換えたのも、GHQの力技ではあった。 
 奴隷使役国の誹りを世界から受けぬために、アメリカは自国以上の悪者に日本を仕立てる必要があった。日本には奴隷制の歴史はないので、でっち上げたのが朝鮮半島の「植民地化」呼ばわりであり、人々を奴隷にしたというフィクションが、しかし東京裁判でノンフィクションとしてすり替えられた。インディアンを殺戮し土地を奪い、奴隷をこき使い、苦力を牛馬のように扱ったのはアメリカである。ハワイ王国の滅亡もアメリカによる。 
 日韓併合は白人たちの概念にある植民地には該当しない。圧政と搾取が植民地であるが、日本が行ったのは合邦である。韓国の近代国家への礎を作ったのは日本である。 

 先の戦争の大義は、それまで白人が有色人種を動物扱いで使役、暴利を貪っていた世界を一気に日本が突き崩し、世界の悪しきパワー・バランスを壊したことにある。日清日露の勝利は、白人たちにとっては黄色い猿が仰天すべきことをやってのけたということであり、彼らは憎みかつ怯えたのである。知力を備え文化さえ持った「猿の惑星」の猿を呆然と見つめ、そして我に返った彼らは猿を叩き、再び立ち上がれなくなるよう手足を折ったのである。 
  
 占領軍の検閲対象の一箇条に「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」というのがあることに留意されたい。これは語るに落ちる話であり、昨今憲法改正について緒論かまびすしいことであるが、連合軍がプレスコードという形で、はからずも告白しているではないか。日本弱体化のために我々は日本国憲法を起草したのだ、それゆえ批判することまかりならぬ、と。 
 となれば、日本が自立した国家たらんとするなら憲法改正は避けて通れぬ道であるということである。 
 「プレスコード」には次の条項もある。「占領軍兵士と日本女性との交渉」を報道してはならぬ、と。交渉とはおそらく米兵による日本女性の強姦をも含む。これは多かった。ここに思いを致す時、私は米兵たちのレイプ頻発を防ぐため、性の防波堤となり、日本全土のあちこちに横たわった無数の「お吉」たちの顔が浮かぶ。生活苦から慰安婦を志願した女達もいるだろうが、彼女たちが身を挺してアメリカ兵たちを受け止めてくれたからこそ、強姦の発生件数が抑制されたのである。
 連合軍にはわずかの豪州、英国の兵もいたが、圧倒多数はアメリカ兵だったのだから、「アメリカ兵」と一括した呼び方も許されると思う。 
 日本に進駐したアメリカが、まず要求したのは慰安所の設置だった。各地にそれは要求され「千葉公文書」として知られる史料には、昭和二十年九月五日、館山に上陸した米軍第一一二騎兵連隊相手に、慰安所が設置された詳細が記されている。 
 そのことを憤るほど私は偽善者ではない。異性から長く遠ざかった若い兵士たちが、どれほど猛り立っているか、動物としてのオスの衝動である。これを、率直に認めないから清教徒の多いアメリカの、きれいごとの嘘がものごとの本質を歪める。日本に設けられた慰安所は「余暇・娯楽協会」とアメリカ風美名で呼ばれたが、売春宿である。アメリカ軍は公には売春施設を認めない。だから、なかったことにする。シカゴ・サン紙特派員マーク・ゲインは慰安所を「米軍を腐敗させようとする日本の謀略。その武器は酒と女で、目的は占領軍の士気と占領政策の破壊」とすり替え、占領期間中米兵による日本人殺害毎年平均三五0人。一000人以上の婦女子暴行(調達庁調べ)には触れない。一0万人が亡くなった東京大空襲は「死者六千人」と縮小。なんという偽善と嘘。外国特派員協会はGHQの情報発信基地だったが、その体質はいまだ生きている。 
 「余暇・娯楽協会」はやがて封鎖される。ルーズベルト夫人の反対が原因であるが、彼女の「清らかさ」ゆえに、巷では再び強姦が増え、一般の日本女性が犠牲者になったのである。 
 私が、大勢の無名のお吉たちに対して悲しみと憤りを感じるのは、身を挺して日本女性の貞操を守った彼女たちの犠牲を無視、アメリカは自らの手は汚れてはいないとして、日本を一方的に打ち据えるからだ。日本女性への狼藉を防ぐために、日本各地で横たわった大勢のお吉たちは、何のために払った犠牲であったのか。アメリカは、その時そこにそんな日本女性たちがいたことを見ようともしない。いや、いなかったことにしてしまったのである。私はそれを許さない。彼女たちの墓碑銘は私が刻み続ける。 

 日本人は、やったことは、やったと言う。時にはやってもいないことをやったとさえ言ってみせる。河野談話がそれである。善人が自縄自縛で苦しむ姿が日本である。神道にベースを置く日本の精神性は「直き」を善しとし、正直を旨として、いつまでも相手の非にはこだわらぬ。水に流し、恩義には恩義で報いる。いかに大空襲と原爆で非戦闘員を虐殺されようが、同盟国に蒸し返し言い立てはしない。その平明さが日本人である。しかしアメリカ人は、というより外国人は異なる精神性の持ち主である。自らの益と非の隠蔽のためには、顔色も変えず相手の寝首をかく。それを言い立てても仕方がない。日本人の思考と感性で外国と向き合わぬことである。外国は腹黒く不正直であると思い知ろう。 
 言うも気恥ずかしい初歩のセオリーであるが、しかしその初歩を戦後六十九年間怠って日本は現在のていたらくである。韓国と中国の二重の反日包囲網を更に、アメリカの「反日」が取り囲む。黄色い猿は優秀で、幾つかの幸運はあったにせよ戦後の焼け野原からあっという間に立ち上がり、経済大国となった。ならばカネをむしり取ってやれというわけで、中韓への理不尽なODA、国連へ実権を与えられぬままの出費、などなど金銭面での弱体化が試みられるが、それでも日本はしぶとく、またぞろアメリカは日本殴打を再開、その一環がアンジェリーナ・ジョリの反日映画「UNBROKEN」であろう。日本軍が生きたまま、捕虜の肉を食らったというストーリーで、 これは特派員協会の会員であったN・Yタイムズのニコラス・クリストフという男が「日本兵が中国人の子供を殺して肉を食った」書き散らした捏造と軌を一にする。ちなみにクリストフの妻は中国人である。 ハリウッドは間歇的に日本貶め映画を市場に出す。だが日本人は、アンジェリーナ・ジョリの来日にファンが群がり、GHQがwar guilt information programに託して刷り込んだ、自虐史観と侮辱に鈍感な感性はいまだ機能している。アメリカが日本人に為したのは、神道の事実的追放である神道指令、学校教科における修身・日本史・地理放逐の「三科指令」であり、日本人はこれにより民族の誇りを抜き取られて現在に至る。言霊の幸わふ瑞穂の国から、その豊穣で美しい言葉が絶えつつある。言葉が痩せることはすなわち国の精神性の貧困を意味する。男系で百二十五代続いた天皇陛下を国の要としつつ、四方の海の要塞に守られて育まれた固有の文化を大事にしたい。言葉を守ることは防衛なのだ。 

 朝鮮戦争時における米兵相手の元韓国人慰安婦が韓国政府を相手取って訴訟を起こしたのはこの六月のことであるが、朴槿恵大統領もアメリカも内心頭を抱えたのではないか。慰安所を開いたのは、皮肉にも朴槿恵大統領の父上である朴正煕・韓国元大統領であり、慰安婦を抱いていたのはアメリカ兵なのである。韓国は韓国でベトナム戦争の時、現地女性を「性奴隷」として虐待殺戮の事実がある。
 いったい、誰が日本を打つ白い手をしているというのか。日本の慰安所は合法で規律正しかった。ちなみに、 一説によると 進駐軍相手には「慰安夫」もいた。(『戦後の日本を知っていますか?―占領軍の日本支配と教化』百瀬孝監修)昭和二一年、名古屋は松坂屋の近く、焼け残った木造アパートに身体検査に合格した数人の若者が集められ、アメリカ女性兵の相手をしたとされている 。売買春を、短絡的に女性の人権論に話をすり替える人たちが絶句すると思うので敢えて書いた。安倍政権による河野談話の見直しで形勢不利になったと見るや、韓国は「女性の人権論」に論点を置き換え、慰安所に日本軍が関わっていたと責めているが、売買春がさほど悲惨なら、日本に五万人いる売春婦(韓国・国会国政監査発表)を、早急に救い出しに来て欲しいものである。韓国が売春大国であることは「韓国女性政策研究院」が調査の上で、認めている。 
  
 私の地元下田の唐人お吉を連想させるため、そしてまた慰安婦問題はライフワークだと思い定めているのでその記述が多くなったが、慰安婦は突出してわかりやすいアメリカ側の負の記号なのである。アメリカは現実を認めるべきだ。日本だけではない。ノルマンディーに上陸したアメリカ軍に対して、ル・アーヴル市長が慰安所の設置をアメリカ軍に懇願したが、軍はこれを拒否。その結果「往来をアメリカ兵たちによる強姦に遭遇せずに道を歩く事はできない」と言われるほどレイプが頻発したのである。 
 アメリカよ、自らの汚れた手を見よ。その手で日本を撃てるなら撃て。バイブルに手を添えて宣誓する時の潔白さで、慰安婦問題には向き合え。日本は自らと、祖父と父の名誉を懸けた戦いである。これに負けるわけにはいかぬ。 

 対中国があり日米同盟は必要だが、しかしアメリカもまた日本を必要としている。過度の依存とそれ故の過剰な謙虚さは、長い目で見れば結局日米関係を損ねる。まずアメリカが礎石を置いた中韓の重層的反日の構造を把握しないと、それへの対抗策を見出し得ない。結論を先に述べるなら、安倍総理の戦後レジウムからの脱却が急務で、そのためには憲法改正が必須。自衛隊から国防軍ヘの昇格を。それを即戦争と結びつけるのは幼稚である。日本が侵略したい国など、世界のどこにもありはしない。そこからの侵略から守りたいと思う国ならある。 
  
 しかし東京裁判史観からの脱却に、政府レベルでは限度があるのではないか。たとえば、安倍政権の河野談話見直しは、韓国(とアメリカ)に痛打だった。それならなぜいっそ、談話を破棄するなり河野洋平氏を国会喚問せぬのだろう。後者は「前例がない」という納得しがたい理由で、呼ばぬという。 
 ひょっとしてアメリカへの慮りであり、またアメリカからの「圧力」ではないかと、穿ってしまうのだ。明らかなことは唯一つ、何らかの理由で、政府が米国に対して及び腰であることだ。ならば、民間で立ち上がり声を上げるしかないではないか。いかなアメリカとて、国民の声までは封殺できぬ。政府を頼むな、自ら立ち上がり戦え。一部が怯える如き「ナショナリズムの復活」などではない。自力で立ち、自分で身を守れる普通の国になろう、と言っているだけのことである。 

 具体案は幾つかあるが、たとえばアニメの製作。題材はこれもたとえばヨーコ・カワシマ・ワトキンズの「竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記」。この製作委員会を民間で立ち上げ、寄付を募る。その行動自体が大きな問いかけになろう。日本の汚名をそそぎ、真実を世界に伝えるに日本のアニメ技術と人気を使わぬてはない。尖閣であれだけのお金が集まった。映画がヒットすれば、回収は出来る。利益が出ればそれと合わせて、次のアニメ制作を企画する。具体的腹案は割愛するが、私は動いてみようと思う。 
  
付記 拙稿を書き終えてからしばらくして、朝日新聞が八月五日の朝刊で「慰安婦問題の事実関係に誤りがあった」と認めた。しかし謝罪は無く、英文版では一行も触れず、その上、論点をずらして相変わらず慰安婦をネタに日本を叩く構え。政府はこれだけの環境が整ったのに、(おそらく対韓国対アメリカへの外交配慮から)河野談話の見直しはしないという。やはり国民が覚醒して立ち上がり、この仕組まれた情報という名の戦争を戦うしかない。互いに呼びかけ、手を組み立ち上がろうではないか。

 
中韓との歴史戦争と言っても良い
それほどのことを仕掛けてきているのは中韓なのです。
歴史戦争に勝たねば 日本の未来はなくなります
戦略を持って戦いましょう
今、日本の中で争う時ではない
 http://sankei.jp.msn.com/world/news/140509/amr140509……
▲産經新聞:南京虐殺否定を翻訳者が無断加筆 ベストセラーの著者が修正要求
 この報道は、共同通信社によって配信されたものです。産經新聞社記事の末筆に「(共同)」とあるように、これは産經記者による取材記事ではありません。
 http://www.shodensha.co.jp/kokuchi/kokuchi.pdf
▲祥伝社:お知らせ『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』に関する各社報道について(PDF)
 米ザ・ニュー・ヨーク・タイムズのヘンリー・スコット・ストークス元東京支局長が、祥伝社から出版された自著について、日本軍による「『南京大虐殺』はなかった」と主張した部分は、無断で翻訳者の藤田裕行氏が書き加えたものだった、と報じたのは共同通信社。
 これに対し、著者がその報道は「誤り」と反論、いわゆる『南京大虐殺』はなかった。大虐殺という言葉は、起きたことを正しく表現していない。もともと、それは中華民国政府のプロパガンダだったとの見解を改めて表明した。
祥伝社のウェブサイトに掲載されています。
 英国人記者によって暴かれた過去のプロパガンダの正体は、現在の中華人民共和国にとって極めて不都合なものだったに違いありません。
何とかして、この著者か翻訳者、或いは出版物そのものの社会的信用を失墜させようという思惑があったのでしょうが、共同記者はなぜこれに加担したのか?
 共同が北朝鮮の平壌に支社を開設できたとき、やはりその経緯に不審な点があったという指摘もありましたが、このような記事は「出してしまえばこっちのもの」という考えのもと、以後十分な「(本当の意味での)歴史修正」の材料になるもの。
 最も迷惑を被ったのは、神道家の藤田氏でしょう。下手をすれば氏に出版関係の仕事が入らなくなるかもしれません。この手の記事は、誤報であってもそれだけの威力を持ち、この場合は人と国の名誉を奪います
 忘れてならないのは、日中戦争に於ける南京陥落に関し、人口約二十万の都市で三十万人以上が日本軍に殺されたという説と、そのような事実はなかったしありえないという説が、今も存在していることです。
私はこの本を読みました。
非常に痛快な本です
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思いつくままに

日清戦争を観戦したフランスの国際法学者ポール・フォーシーユは、
次の言葉を残しています。

(原文)
日本は独り内部の法制に於いて世界最文明国の班列に達したるに非ず。
国際法の範囲に於いても亦同然たり。
経験は日本政府が能く其の採択する所の文明の原則を
実行するに堪うるを表示せり。
即ち日本は清国に対する一八九四年の戦争に於いてこの事を証明したり。
この戦役に於いて
日本は敵の万国公法を無視せしに拘らず自ら之を尊敬したり。

日本の軍隊は至仁至愛の思想を体し、常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、

敵の病傷者を見ては未だかつて救護を拒まざりき。
日本は尚未だ一八六八年十二月十一日のセントピータスブルグ宣言に加盟せずと雖も、無用の苦痛を醸すべき兵器を使用することを避け、又敢えて敵抗せざる住民の身体財産を保護することに頗る注意を加えたり。
日本はいずれの他の国民も未だかつて為さざる所を為せり。
其の仁愛主義を行うに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民の租税を免じ、無代価にて之を給養するに至れり。
兵馬倉皇の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、凡そ生霊を救助するの策は挙げて行わざるなし。
見るべし日本軍隊の通過する所
必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを。


日本は軍国主義にひた走ったのではありません。
私達の先人は、「公正」と「人道」と「信義」によって、日本という国をむしろ世界の中の模範とさえなるよう、必死の自制と努力をする事で、世界の良心が、むしろ積極的に日本を認めざるをえないよう、努力を重ねてきたのです。

そしてその結果として、戦うべき時には戦わざるを得なかったし
(それをしなければ、ただの無能な馬鹿とみなされた)、その為の軍備を整えた。
歴史解釈が逆なのです。

「笑いの石垣」という有名な小話があります。
概略、次のようなお話です。

熊野には、石垣が沢山ありました。
あるとき八幡社の裏手に、石垣を積もうという話になりました。
高さ10メートル、幅30メートルの2段積みといいますから、たいそう立派な石垣です。

ところがその石垣の下に住む村人から、「危険だから止めてもらいたい」と言う抗議が出たのです。

その時の石屋さんの証書が残っています。

そこに書かれていたのは、
「万が一崩れた時は、お笑い下されたく候」でした。

昔の人は、人に笑われるのを最大の恥とした、その事で村人たちも納得したというのです。それほどまでに、日本人は民度が高かった。

同様の事は、明治10(1877)年から明治13年まで日本に滞在し、東大で生物学を教えた米国の生物学者エドワード・S・モースも、日本での体験として次の言葉を残しています。

「私が帰るまで金と時計をあずかってくれぬか」と亭主に頼んだら、亭主は快く承知した。
召使が一人「ふたの無い浅い塗り盆」を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品をいれるものだといった。
で、それ等を彼女が出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いたまま出て行った。

私はいうまでもないが、彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。ところが召使は帰ってこない。

私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと訊ねた。
彼女はここに置いてもいいのですと答えた。

私は主人を呼んだ。
彼もまたここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も他の品物も、持っていないのといった。

未だかつて日本中のいかなる襖にも、錠も鍵もかんぬきも見た事が無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験をあえてしてみようと決心した。

恐らく私の留守中に何回か客が入るであろうし、また家中の召使でも投宿客でも、楽々と入り得るこの部屋のふたの無い盆に、銀貨と紙幣とで八〇ドル、
それに金時計とを入れたものを残して私は出発した。


私達は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰ってみると時計はいうに及ばず、小銭の一セントにいたるまで、私が残して行った時と全く同様にふたの無い盆に載っていた。
(中略)
人々が正直である国にいる事は実に気持がよい。
私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。
錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。

私の大外套と春の外套をクリーニングする為に持って行った召使いは、
間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついて
それを持って来たが、また今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚持って来た。

同様の事は、他の数多くの日本を訪れた外国人が記録として残しています。

つまり、元々日本は、極めて治安が良く、

民度が大変に高かった。
だからこそ、日本は、その高い民度のままに、「公正」と「人道」と「信義」を世界の中にあっても
貫き通したのです。

そしてその事によって、日本は、正に世界に認められる国となり、ついに明治35(1902)年には、当時の世界の最強国である英国と対等な軍事同盟を締結するに至るのです。


白人国家の代表である世界最強の大英帝国と、東洋の有色人種国家である日本が「対等な同盟」をするというのは、これこそ世界史に残る大事件です。

なぜなら、「カラード=猿」とみなす事が世界の常識であった時代に、
人間の代表が猿と同盟を結んだという事だからです。

言い換えれば、それが実現できるほどまでに、日本は優れた人種国家であると世界が認めた、という事です。


中でもベルギーは、元々はハプスブルグ家の飛び地領土だったネーデルランドです。
レオポルド一世が立憲君主に即位する事で、ベルギー王国となったのが、天保2(1831)年です。
つまり、日本と通商条約を締結した、僅か35年前に独立した国家です。

そしてそのベルギーは、道義と公正を目指す国家建設にあたり、
日本を模範としたともいわれています。
道徳心が高く公正な日本は、欧州における新国家建設の模範とさえなりうる国家でもあったのです。

私達の先人達は、日本をして軍国主義、大国主義を指向しようとしたのではありません。
日本にもとからある「公正」と「人道」と
「信義」の文化を護り、伝統と歴史ある日本を守る為に誇りをもって努力を積み重ねてきた。国際法を順守することは日本国としての基本でした。支那とは違います。

それが、日本の近代史です。

その事を、私達はもう一度、しっかりと見直すべき時にきたといえるのではないでしょうか。

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300機を超えるBー29が38万発もの焼夷弾を投下、10万人以上の犠牲者が出た。
イメージ 1
この東京大空襲、原爆投下同様にアメリカによる戦争犯罪だ。そもそもの始めから軍事施設ではなく市街地を標的にしている。参考にハーグ陸戦条約を見てみよう。

第23条5項:不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること(を禁止)

…この空襲で用いられた焼夷弾は当時の日本の木造住宅を燃やして被害を与える為に開発された。
製造段階でわざわざ日本住宅を再現し(内部に畳や布団まで拵える拘りよう)、それを標的に実験を繰り返して開発したものだ。それを大量投下したのだから結果の予見は容易である。
また当日の 強い冬型の気圧配置という悪条件が重なり、巨大な火災旋風が発生し、(煙は成層圏に達したという。)火災による焼死に止まらず、酸欠による窒息死、また川に逃げたものの溺死や凍死したりで被害者が増大したと言われる。そしてその死者の大半は非戦闘員の一般市民であった。
そういう焼夷弾は明らかに「不必要な苦痛を与える」兵器に該当すると言える。
 
画像カーチス・ルメイ
また、第25条:防守されていない都市、集落、住宅または建物は、いかなる手段によってもこれを攻撃または砲撃することはできない。
…一見して明らかであろう。
 
この東京大空襲、指揮したのは当時少将のカーチス・ルメイである。
戦後に日本は彼に叙勲している。
Wikipediaより抜粋。

「1964年(昭和39年)12月4日に日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイに対し勲一等旭日章の叙勲を第1次佐藤内閣が閣議決定した。

イメージ 2当時非難の声があり国会で追及されたが、佐藤栄作首相は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答える。
小泉純也防衛庁長官も「功績と戦時の事情は別個に考えるもの」と答えている。(肩書きは当時)

勲一等の授与は天皇親授が通例だ
 
が、昭和天皇はルメイと面会する
 
ことはなかったという。

後年『NHK特集 東京大空襲』でのNHKの取材で戦争責任についての問いにルメイは勲章を示して見せている。
「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」
とも述べたという。
ルメイの前任者だったハンセル少将は、高高度からの軍事目標への精密爆撃に拘った故に解任されている。
イメージ 3
一読して明らかな様に東京大空襲はやったアメリカ側の人間ですら「戦争犯罪」と認める暴挙だった。 大虐殺と言われて当然だ。それを非常識と非難する方が非常識なのだ。
勿論駐日大使館キャロライン・ケネディの事だ。
「前任者だったハンセル少将は、(高高度からの)軍事目標への(精密)爆撃に拘った」とあるが、これこそが本来の戦争法規に沿ったやり方である。

…しかしながら勝ったから無罪、負けたから有罪となるのか?
否、勝っても戦争犯罪には変わりない
ただし日本はサンフランシスコ平和条約で賠償を放棄しているため、連合国の戦争犯罪に賠償を請求出来ない。
また、ハーグ陸戦条約は交戦国全てが批准していないと適用されない解釈や判例もあるため、その解釈だと第二次大戦の如く沢山の国が戦争をした場合、敵味方問わず批准していない国が存在したら全ての国に適用されない事になる…

イメージ 4いずれにしてもそういう認識を持つ事が正しく歴史を理解する第一歩である。ルメイは
「戦争とは全て道徳に反する。」
と言ったそうだが、
「勝った方が正義」
とは言えないのだ。
勝っても負けても戦争自体が非道徳の所業だ。
アメリカは戦争に勝ったからと自らの戦争犯罪を有耶無耶にしたが、それと正面から向き合って始めて歴史を語る事が出来る。
イメージ 5
 
日本はこういう問題を隣の国のように いつまでも言うことはしない
ただ歴史を正しく知ることが必要である
日本には「水に流す」という言葉がある
いつまでも過ぎ去ったことで恨み言は言わないで 未来に向かう
何度も重ねて書くが
「この歴史問題を知ることは必要だがいつまでも恨み言のようにはいわない」
そこに日本の良さがある
 
今日も予算委員会が開催されました。
委員長職は非常に疲れます・・・・
神経を張りつめた一日は何とも言えません
明日も予算委員会が開催されます
その後は、常任委員会(総務厚生)です
精一杯頑張ります
前に向かうことが好きです
後に向いては 何事も進みません
 
初めにポチットおねがいします
今日は、知る人がが少ない戦艦の中でも「熊野」についてです
太平洋戦争開戦後は、マレー上陸作戦に参加、、1942年3月1日にはバタビア沖海戦、6月5日から7日にかけてミッドウェー海戦に参加する。
この戦いで同じ第七戦隊に所属していた姉妹艦「最上」と「三隈」が衝突し、「三隈」が沈没、「最上」が大破する。
その後、インド洋での通商破壊作戦に従事すべく、損傷のなかった同型艦「鈴谷」と共にマレー半島のメルギに進出した。
出撃前の8月7日、米軍はガダルカナル島とショートランド諸島に上陸を開始し、ガダルカナル島の戦いが始まる。
熊野」と「鈴谷」は通商破壊作戦を中止してトラック泊地へ向かい、8月22日に南雲忠一中将率いる第三艦隊(南雲機動部隊)と合流した。
機動部隊における「熊野」の役割は、第十一戦隊の戦艦「比叡」、「霧島」と共に前衛部隊として米軍の攻撃を通報・吸収する役目だった。つまり「 駆逐艦兼おとり 」。
8月24日の第二次ソロモン海戦ではB-17爆撃機と交戦。10月26日の南太平洋海戦では、空母「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」からなる機動部隊本隊の直衛に編入されて戦った。
鈴谷」は前衛のままであった。その後は1944年6月19日のマリアナ沖海戦に参加した。
ここまで見ても、主要な海戦にはほぼ全て参加していることが分かる。
そんな本艦は、その命燃え尽きる最期まで激戦を繰り返した。
熊野」は最期の1ヶ月間に魚雷6、8本を喰らい、爆弾10発の多大な被害を受けているのである。

時は1944年10月、日本が「天王山」と称したレイテ沖海戦。
この戦いがあるまで、日本の重巡戦力はソロモン沖海戦でダメージを受けるも、主力の「妙高型」「高雄型」「利根型」は全艦が稼働しており、最上型も「三隈」を除く3隻が無事であった。
だが、このレイテ沖海戦により、参加した重巡13隻のうち、なんと6隻が海の底に沈んでいってしまう大損害を被る。
熊野」「鈴谷」「利根」「筑摩」の4隻から成る第七戦隊は、栗田中将の指揮下、この激戦を無傷で切り抜け、25日にサンベルナルジノ海峡を突破していた。
早朝、同じ栗田艦隊所属の「大和」が敵の護衛空母部隊を発見。サマール沖海戦が始まった。
熊野」は最大出力で一直線に米空母に突撃。これを守らんとして敵は煙幕を張り、「熊野」の突入を妨害する。
視界を奪われた「熊野」も、更に速力を上げて詰め寄るが、一瞬の隙を突かれ、煙幕を破って「熊野」の真横に飛び出した米駆逐艦「ジョンストン」からの攻撃を受ける。
「ジョンストン」は敵前に身を晒しながら、猛然と主砲弾を発射。さらに10本の魚雷を発射し、「熊野」を沈めんとする。
敵空母までの距離は約9000m、回避行動をとる「熊野」だったが、魚雷の最後の1本が命中。 艦首錨孔より前を吹き飛ばされ、さらにその後の空爆によって左舷缶室が浸水 してしまう。
「ジョンストン」はその後、戦艦「榛名」の怒濤の反撃と「雪風」の雷撃が決め手となり海中に没するも、「熊野」は航行不能に陥る。
敵艦載機が飛び交う中で行われた必死の応急処置により、何とか12ノットの速力が出せるようになった「熊野」はレイテ突入を断念、撤退を開始する。
ここから「熊野」の永い永い日本本土への旅が始まった。

ただ1艦、西に向けて進んでいた「熊野」は、途中で直掩部隊に出会う。水上爆撃機「瑞雲」3機、艦上攻撃機「天山」1機である。
上空から見る「熊野」は艦首が吹き飛ばされて艦様が変わっており、これを 損傷した敵艦と判断 した直掩部隊は次々と「熊野」に襲い掛かった。
幸い、命中弾こそ無かったものの、友軍機の錬度も落ちていて、敵味方の識別すら満足に出来なくなっていることを艦長は痛感したという。
その後、今度は35機の米雷撃機と米爆撃機が来襲し、「熊野」は防空戦闘を開始、今朝突破したサンベルナルジノ海峡で 単艦で 死闘を繰り広げる。
巧みな操舵によって 魚雷と爆弾の全てを回避 、約30分に渡った空襲を切り抜けた。
しかし翌日10月26日には、80機もの米軍機による急降下爆撃を受ける。
艦橋左舷、煙突付近に3発命中し右舷缶室にも被害 を受け、一時航行不能に陥るも回復、10ノットでコロンに向かう。途中3回空襲を受けたが奇跡的に無傷であった。

コロン湾で補給を受け、今度はマニラ湾で修理を受けるために航行を続ける。駆逐艦「沖波」の護衛もあり、被害無くして10月28日にマニラ湾に入港した。
マニラ湾では、レイテ沖海戦によって甚大な被害を受けた「那智」などの多数の艦艇が入港しており、ドックを待つ艦が狭い湾に入り乱れごった返す始末。
このため連合艦隊司令から、「マニラで応急措置を施し内地で修理を行え」との命令を受ける。
艦首が吹き飛ばされてマトモに投錨できない「熊野」は給油艦「隠戸」に横付けして速力を治すための応急修理のみを行い、日本へ戻ることになった。
この修理によって、速力は15ノットに回復し、船団の護衛つきで、大破して5ノットの速力しか出せなくなった重巡「青葉」と共に中継地点のサンタクルーズ港へ向かう。

11月5日、マタ31船団を護衛してマニラを出港しサンタクルーズへ移動する。この頃「熊野」には別に困ったことがあった。
2週間前のサマール沖海戦からの撤退から相次ぐ空爆に応戦し続けた結果、 弾薬が欠乏していた のである。
幸いにしてこの航海時には空爆も受けずに無事サンタクルーズ港へ辿り着き、「青葉」からも弾薬を分けてもらうが、それでも不足を補うことは出来なかった。
これが、「熊野」の最期に大きく響くこととなる。

11月6日、サンタクルーズ港を出港しバシー海峡へと一行は向かう。しかし、この海峡は米潜水艦の潜伏地域でもあったのだ。
リンガエン湾から北にかけて、米軍は潜水艦を常時展開し、日本の最も重要な航路の一つを見張っていたのである。
案の定、突入するや否や、米潜水艦「ブリーム」「グイタロ」「レイトン」「レイ」の4隻が船団を襲撃。
35分に渡った合計4回に渡る雷撃攻撃。その最後に「レイ」から放たれた、4本のMk18魚雷の内2本を「熊野」はかわしきれなかった。
その魚雷は 1本が艦首に命中し1番主砲の前で船体切断、もう1本が1番機械室に命中し機械室全室浸水 。これによりたちまち航行不能に陥ってしまう。
一方の「青葉」は「熊野」より更に不利な状況下でありながら全攻撃を回避。
戦闘終了後、身体が引きちぎれた「熊野」に対して「青葉」が発した言葉は「ワレ曳航能力ナシ、 オ先ニ失礼 」。

油槽船「道了丸」に曳航され11月7日、1.5ノットで命からがらサンタクルーズ港へ戻った「熊野」だが、その2日後に台風が襲来。あわや沈没かと思われたが一命をとりとめた。
しかし復水器の破損や蒸気漏れのため、台湾の高雄に到着するまでに必要な真水500tが不足、ドラム缶を使い 川から真水を毎日30tずつ運んで復旧 させている。
途中で小規模の空襲もあったが、11月21日までに缶1基と主機1基を整備。速力6ノットが可能になった。しかし度重なる応戦によって弾薬の窮乏は深刻な事態となっていた。

ここまで、あの手この手で復旧を行い、命がけで航海を続けた「熊野」だが、その悲願=日本への帰還はついに達成されなかった。

11月25日朝、出航準備が整う寸前、アメリカ連合艦隊によりサンタクルーズ港を含む一帯は大規模空襲を受ける。
熊野」は被害を出さなかったものの、応戦によって残弾は約3000発となり、 1つの砲門から放てる弾薬は80発にも満たなくなってしまった。
そして同日14:30分、米空母「タイコンテロガ」から放たれた艦載機が、回避運動もままならない「熊野」に対して集中砲火を浴びせる。
艦橋後部に1弾、艦橋後部右舷に連続して2本の魚雷が命中、一番砲塔左舷横と飛行甲板左舷にも1本ずつ命中。爆弾も3発から5発が二番砲塔左舷に降り注いだ。
左舷に傾いた「熊野」はそのまま転覆、艦長以下400名も一緒に海に沈んでいった。1944年11月25日、15時30分のことあった。
サマール沖海戦での撤退から1ヶ月、満身創痍の身体ながら、計15回以上に及ぶ空襲を傷だらけになりながらも切り抜け、あらゆる措置を施してまで日本へと帰ろうとした「熊野」。
その思いはついに届くことなく、フィリピン島サンタクルーズ沖にその身を沈めて果ててしまった。
彼女が最期に夢見たのは、なんだったのであろうか。
レイテ沖海戦では同型艦「最上」「鈴谷」も沈没。「熊野」の沈没により最上型は全艦戦没してしまった。
熊野」のラスト1ヶ月の決死の戦いは、 日本の物資、物量における弱体化 を象徴づける一つのエピソードといえるものである。
1945年1月20日除籍。
なお、途中まで一緒だった「青葉」は無事に日本に帰還。呉で浮き砲台となって終戦まで戦い抜いた。

1968年12月2日、観光中のダイバーがサンタクルーズ沖で海底に沈んだ「熊野」を発見し、遺骨約50柱を海底から持ち帰った。
 
戦艦の名前が「熊野」どうしても気になります
 
 
 
 

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