熊野にて

やっぱ田舎(熊野)は、最高やのし 愛国の人です 略して愛の人!戦争嫌い

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神武東征2熊野編

熊野灘での難破
 名草戸畔(なくさとべ)を滅ぼした神武軍は、熊野の神邑(みわむら)に着き天の岩楯(新宮市、神倉神社ゴトビキ岩)に登った。
更に東に進むのであるが、熊野の荒坂の津、またの名を丹敷(にしき)の浦あたりで暴風に遭遇し船団は難破する。このとき稲飯(いない)、三毛入野(みけいりの)の兄弟は、溺れ死んでしまうのである。
この荒坂の津というのは、現在の熊野市二木島である。
二木島には神武東征にまつわる伝承を色濃く伝える。
暴風に会った神武たちの舟は、楯ヶ崎に上陸したとする。楯ヶ崎というのは、熊野市甫母町(ほぼちょう)にある高さ約80m、周囲約550mに及ぶ、柱状節理の大岩である。このあたりから東に、柱状節理の断崖が続く。普通なら上陸するような場所ではない。
上陸というより難破して漂着したのである。
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このとき二木島の里人は、難破した神武たちを必死で助けた。その事を伝える関船競漕という神事を今に伝える。
二木島湾の湾口に向かい合う、室古神社と阿古師神社の間で、それぞれの神社の氏子約四十人が関船に乗り込み、船漕ぎ競争をするのだそうである。この室古神社というのは、ここに漂着した稲飯命を祀った神社とされ、三毛入野命の遺骸は見つからなかったが、阿古師神社に祀ったとされる。

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写真阿古師神社。
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『日本書紀』は荒坂の港に到着し、丹敷戸畔(にしきとべ)という者を殺したとする。この後『古事記』や『日本書紀』は面白い話しを記す。
『古事記』は神武軍は、熊野村の大熊の毒気にあたって気を失ったとするのである。『日本書紀』は神が毒気を吐いて(神武軍は)病みふしたとする。その後熊野の高倉下(たかくらじ)という者が、フツノミタマという剣をたてまつり、神武軍は目覚めたとする。
楯ヶ崎での難破が事実なら、舟をはじめ武器や食料の多くを失った神武軍は、とても、まともに戦える状態ではなかったであろう。高倉下(たかくらじ)から武器を得て、ようやく丹敷戸畔と戦うことができたのかもしれない。
この二木島の西の峠は「逢神坂(おおかみざか)」東の峠を「曽根次郎、太郎坂」と呼ぶ。前者は熊野の神と伊勢の神が出会う場所という意味で、後者は自領、他領が転化したものとされる。
いずれもこのあたりを境にして西を熊野、東を伊勢とする。ここから東(三重県尾鷲市あたり)は中世、錦の庄と呼ばれる地域である。丹敷とは錦であろう。
神武軍が難破したのは他ならぬ、伊勢の海である。ここが伊勢の海であることは、後ほど紹介する久米歌の中で、重要な意味を持つ。
多くの舟を失っては、もはや海路東に進むことは不可能である。やむなく山深い熊野山中を突破することになる。
熊野は奈良盆地へ侵攻するための上陸地点として、決して戦術的に優れた場所ではない。難破という不測の事態に遭い、困難な侵攻経路をとらざるを得なかったのであろう。
下の動画 長いけど楽しくなります
一度は 再生してください

神武東征の物語

                             神武東征の物語

 名草戸畔との戦い

孔舎衛坂(くさえざか)の戦いに敗れた神武軍は紀伊半島を迂回するため、南に転戦する。
その途中、脛に矢傷を受けた五瀬は、山城(やまき)港で没する。この場所を「雄の港」と名づけたとする。この場所について『日本書紀』は茅渟(ちぬ)の山城または山井港とする。
茅渟は大阪湾とされるから、これを泉南市男里とする説がある。
また『古事記』は、紀の国の雄の港とする。これを紀ノ川の河口、和歌山市小野町の水門・吹上(みなと・ふきあげ)神社あたりとする説がある。定かな事は解からない。
そこで五瀬を紀の国の竈山(かまやま)に葬ったとする。竈山は和歌山市和田竈山神社がその場所とされる。
その後『日本書紀』は名草邑(なくさむら)に着き名草戸畔という者を殺したと簡単に記す。戦いの具体的な記述は無い。
しかし和歌山市から海南市あたりにかけ、神武の東征とかかわる興味深い伝承が伝わる。
名草戸畔、すなわち名草姫にまつわる伝承である。
和歌山市から、海南市に抜ける潮見峠という小さな峠がある。峠の西側にクモ池という池があり、このあたりが神武軍との戦いの場となったとされる。
ここで名草姫は、神武軍によって殺され、頭、胴、足が切り離されたとする。
そこで名草戸畔の人は、頭を宇賀部(うかべ)神社、別名おこべさん、胴を杉尾神社、別名おはらさん。足を千種神社、別名あしがみさん。に葬ったとするのである。
もちろん記紀には見られない。数少ない滅ぼされた側の伝承である。
次回は熊野市二木島町
伊勢海での難破
 
 
表題の言葉聞いたことがありますよね。イメージ 1
財務省の天皇とかも聞いたことがあります
でもね この言葉おかしいと思いませんか?
天皇って権力を持っているの?
歴史的に見ても 天皇が権力を持っていた時代は どれくらいあったのでしょう。
楠木正成が活躍した時代 ほんの少しです
あの時は少しの間ですが 権力を手中にしましたが そのはるか前にはどうか
聖徳太子(西暦600年ころ)の時代には 既に摂政が置かれていましたし 武士の時代は700年続きましたが もちろん権力などなかった 
イメージ 2薩長が官軍と呼ばれたのは錦のみはたを掲げて江戸に向かったからでしょう。
明治期も権力からは遠い位置にいました。
ですから権力者を模して 天皇というのは間違いです
私は思うんです「権力からは程遠いところにいますがイメージ 3権威としては一流ではないか」権威だから薩長が錦のみはたを使った
日本は昔から天皇を権威の象徴として 崇めたきたのではないか
もちろん制度ではなく「日本に居るもの」としてきた 制度イメージ 4ではないんです
天皇制という言葉は造語ですが 間違えた造語です。
皇統であり皇室なんです。
世界で一番 無私の人が天皇陛下

大馬にあった城

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イメージ 1
辛怒田城があったのは 前に書きましたが詳しく書いてなかったですね
標高633.4mの山頂に築かれ1585年豊臣秀吉が紀州攻めをしたあと 大和・和泉・紀州の3国を弟秀長に与えたので この地を一斉に検地をしようとしたが北山郷が反対したため3年後に北山攻めを命じた 攻撃軍は大馬谷に入り大馬神社の北の
辛怒田に城をかまえて越年したが攻撃群の一部は新宮神倉山を焼くなどの罪により解任された。
藤堂高虎と交代した
藤堂軍は城を出て五郷の岩茸倉山城を攻め落とし 神川から西山郷を攻め制圧した
その後赤木城を築いた。赤木城は国指定の史跡です
津市にある藤堂公のことは知っていましたし 赤木城のことも知っていましたが
大馬に来たのは知りませんでしたね
それにしても近くなのですから 行きたいですね
でも今のわしが行けるか?
子供のころにいったけど 荒れているでしょうね 穴ライザーさん 一緒に行きますか?
下の文を 新聞に記載してもらえないので 次の議会通信で書くことにします
それまでは毎回コピペして記載します
 
クリックあの文に加筆しました
私のブログの説明不足でご心痛をおかけしました
私のブログを見て、ご指摘をいただきましてありがとうございます。
ビーグラッドの皆様やボランティアの皆様にご心痛をおかけしたことをお詫びいたします。皆様の非常に高い心がけの、おかげで 海岸が非常に美しくなり感謝しております。惜しむのは、海岸清掃などは、本来行政がする仕事ですので ボランティアが入る前に行政が動いて欲しかったです
本来の意図は「私が行くとパフォーマンスと取られるので行きませんでした」あそこに行って新聞に載るならもっとすべきことがあると思います。
行政が何もしないでボランティアに頼るなど良いのでしょうか
行政として「今こそ政治力を使う時ではないか」と思うのです。
七里御浜は熊野市の目玉です、これからどうするのか対応が分かりません。
海岸は県の管理ですので、県に働きかけていきます。
私の思いは このとおりですが、説明不足な文になってしまい。それを見られた諸氏にご心痛をおかけしたことをお詫びいたします。
海岸清掃に来られたボランティアの皆様 ありがとうございました。
「地域は皆で守っていくと言うのを実行しておられるグループ」に感謝いたします。
これからも ご指導ご鞭撻をお願いします
そして皆様の声の代弁者として頑張っていきますので色々な声を聞かせてください。
道後宣弘 拝

大東亜戦争終結の日

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イメージ 1皆様ご存知の通り 今日は大東亜戦争の終結日です
終戦記念日と言う名は好きではありません
あの戦争の名ですが 現在の日本人は太平洋戦争と呼ばれていますが あの戦争は大東亜共栄圏構想を掲げて戦いました。
アジアの解放 独立 目指して戦ったのだ ・・・・・
しかし・・・
だがその使命は果たされた。
占領中の戦勝国による ゆがめられた歴史により 今の日本人は自信を喪失しています。
あの戦争は 侵略戦争などではなく 自存自衛の戦争でした。
これは少しだけ 歴史を調べればわかることです
もうねつ造の歴史は 捨てましょうよ
日清戦争・日露戦争は 戦わなければ日本はどうなっていたのか日清戦争は朝鮮の独立を求めて戦った その時ロシアは3国干渉をし遼東半島を自国の領土にしている
ウラジオストックの日本語訳は「東方を攻めろ」だと聞きます・
国力は日本の何倍もある 国家でした。
米国も 同じく日本の数倍 いや数十倍もある国 侵略でそのような国と戦いますか。
戦わなければ 日本は滅びる 
だが 今の日本はその 戦って散華された方々への感謝を忘れています
もう一度思い出して 感謝の誠をささげましょう。

動物愛護と言うのが 日本でも言われていますが 動物愛護法が世界で最初にできたのは日本ですよ。
人種差別も日本では世界で類例がないくらい 少ない アジアの東の方ではその差別が激しいのも知ってください  夫婦別姓ってその特亜が 多いですが あそこは嫁に入っても家人にはさせないって女性蔑視です
日本では うちの嫁になるのです。

http://www.youtube.com/watch?v=Hpz5rFqI7jA&feature=youtu.be
凛として愛  動画です   7までありますので少し長いです

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