|
日本とチャイナ、日本とコリアはギスギスした話題が多い昨今ですが、ギスギスした関係にも長い歴史があることが判りますね。
インターネットを検索すると、「遣日使」という言葉を見かけます。
戦後教育で私たちは、日本が隋や唐から日本より優れた文化を取り入れようとして、遣隋使遣唐使を盛んに送ったと教えられました。
しかし、田中英道・東北大学教授は「遣日使の方が多かった」との見解を述べています。
「日本の歴史において、常に外国から学び、模倣して日本文化が形成されている、という歴史家、評論家の固定観念が、日本の世界における文明的な位置づけを怠らせ、その意義の検討を遅らせてきたのである。
遣唐使という言葉はあるが、遣日使という言葉がないこともその証拠である」
そこで思い出されるのが聖徳太子のあの有名な言葉です。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつ)が無きや」
実は、遣唐使の何倍もの使者が唐から日本に来たと田中氏は説きます。
日本書紀には、「唐人を乗せた船が余りにも多く押し寄せたので、防人たちはすわ侵略軍かと思い弓を射た」という記述があります。
教えを請おうと渡って来たのは唐のみならず、新羅や渤海からも来ていました。
渤海は日本への朝貢国で、高句麗とは対立関係にあった国です。
鑑真和上は有名ですね。
日本へ仏教を広めるため何度も日本への渡海を試みて、やっと日本に来たときは目が見えなくなっていたと教えられました。
なぜ鑑真和上は、日本への渡海を何度も試みたかが不思議でした。
しかし、当時の日本の文化への憧憬から「遣日使」という言葉から浮かんできます。
仏教はすでに聖徳太子が国策として取り入れ、神道と仏教両輪でそれなりに安定した社会でした。 彼らにとって日本は文化果つる国ではなく、憧れの国だったのです。
明治維新後に、清国から多くの留学生が日本を目指したのと同じ現象だったのですね。
この部分を、日本の教育は教えません。
チャイナの文化を吸収し、独自に高め、庶民までもが「万葉集」に見るように和歌を自在に詠む教養度の国が日本でした。
文化だけではなく、金や銀の精製技術をさえ日本は有していたようです。
遣隋使、遣唐使の人や船の数より遣日使の数が上回り、それらの人々の多くが、鑑真のように帰化する道を選びました。
当時の奈良の人口の三分の一は帰化人だったとの説もあります。
反対に、遣唐使や遣隋使として海を渡った日本人たちが、帰化して住み着いたという話は
あまり聞きません・・・・。
遣隋使、遣唐使よりも、「遣日使」が多かった事を覚えておいてください。
|
全体表示
[ リスト ]




