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「三戸地方の山中には48の院坊を巡る御山ガケがあった」
名久井岳の麓には、地元では長谷寺と呼ばれている名刹がある。
長谷寺の境内に牡丹園があり素晴らしい景観を作っている。
名川町の法光寺も近く、歴史のロマンを感じる地域である。
蓮台山長谷寺(真言宗)は奈良の長谷寺の末寺であるという。藤原時代作の県下最古の十一面観音像が宝物殿に納められている。
さらに 450年前、観光上人が八葉山天台寺を第1 番、長谷寺を第33番として巡礼したときの巡礼札が文化財となっている。
境内にあるイチョウの巨木はみごとである。
往時には48の末社があり、長谷寺はその一つとされる。恵光院から山頂の名久井岳権現を含め48の末社を巡る御山がけが行われていた。
今も山麓泉山地区では男子7才になると「月山参り」が行われているという。出羽三山から遠く離れたこの地に月山信仰が根付いたのは、奥州藤原氏の権勢下にあった平安時代後期と推察される。
一体には、南朝方の長慶天皇に関する伝説も残り、馬淵川上流の天台寺とともに歴史の謎を解く鍵を握っていると考えられる。
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三戸町と言っても、かつて盛岡市にあった行政区名です。
昭和50年代は、盛岡市内で「三戸町」表記を見かけた記憶がありますが定かではありません。
盛岡の三戸町は、近世の盛岡南部氏が、故知である三戸(青森県)から盛岡に移る際に、城下の商人などを移住させた事に由来するようです。
・盛岡城造営開始 慶長二年(1597)。
・町割着手 慶長四年(1599)。
・三戸城下から新地(盛岡)に移住 元和三年(1617)。
・最初の町人町のひとつ。
・水田地帯の中に造成された町に移されたので、「田町」とも言われた。
・11日、21日は市日。
・延宝(1680)鐘楼が建立された記録あり、盛岡城天守閣屋上の鯱(シャチ)を鋳造した小泉五郎七作。
三戸町はその名前の通り、三戸の人々の町で、商人の町だったようです。
仙北町も仙北地方からの移住者の町でした。
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「わんこそば」の原型になったと思われる風習が、子供の頃の記憶に残っている。
寒い土地柄でも収穫される蕎麦は、岩手の気候・風土に合い、古くからよく食べられていた。
岩手県北部では、田植え・稲刈り・婚礼・お祭りなど大勢の人が集まる宴会の最後にそばを振る舞う風習があった。
その際に、一家の主がお代わりの蕎麦を振る舞うのだが、椀ごと交換するのではなく、客人の椀に別の椀の蕎麦を入れる風習があった。
「おせんこせ」と言ったような記憶があるが、母親から聞いても知らないと言われた。
現在の盛岡わんこそばのような賑やかさはないが、遠慮する客人にいかにお代わりをさせるかで、子供心にもその駆け引きが面白かった。
たぶん、その風景が「わんこそば」だと勝手に思っている。
一説には、大きな釜を使っても、一度に全員分のそばを茹で上げることはできませんので、そばをお椀に小分けにして出し、その間に次のそばを茹で上げ、また小分けにして出すという形で振る舞う様が、「わんこそば」の原型だったとも言う。
全国的には、大食い大会のようなイベントで知られている
店によっての増減はあるものの、おおよそ「わんこそば」15杯が普通のかけそば1杯分にあたるそうだ。
給仕さんのかけ声と共に、お椀を重ねていく様は一興ですが、「もう食べられない」と思ったら、最後の1杯を食べ終えるタイミングで蓋を閉じるということをお忘れなく。
油断していると、お椀と蓋の隙間から「どんどん」「じゃんじゃん」そばが追加され、もう1杯、さらにもう1杯と、食べ続けることになるのでご注意を
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面岸というむらがある。
現在は88戸、明治の中頃には32戸だったという。享和三年ごろの村には30戸、人口80余人と南部叢書に書かれている。同書に、「木皮をもって箕を造る。世を挙げてこれを面岸の箕という。所謂この地の名産となすとある。
この村は、東北本線の小鳥谷駅から姉帯までバスで行き、あとは山道を歩かなければならない。南部叢書には「山中の面岸村、上り坂なり、嶺上は八戸境西南の間冬部野道なり、大豆食坂左右は連山にして、雪中は行路絶ゆ」と記してある。
十年ほど前に自衛隊の手によって車が通れるようになったが、それ以前までは享和そのままの道であったに違いない。古老のいうところによると、昔は全戸が箕をつくっていたという。
現在は17戸ほどに減った。この村に住んでいる男たちは、十五才になると箕を造り始め、ふつうは一日一枚、まれに二枚造るものもあった。一年で300枚造った人もいる。
箕をつくる材料はサルナシである。これを伐り取って大きな共同の釜で蒸して使う。できあがったものは、飴色の見事なものである。この村の男たちは、この箕つくり技術を身につけて、代々伝承して生涯箕をつくる。箕を売りに出るのは、一般の農家が必要とする七月頃からと、盆と正月とである。十枚くらい担いで近所の町や村の市日の日を選んで出かける。しかし販路は広く、県内はもちろんのこと鹿角や三戸・八戸など旧南部領全域にわたる広大なものであった。
昭和の初めころにこの村の古老が唐箕というものを見てその便利さに驚いた。そして、村で二台買い求めて、上部落と下部落に置いて共同で使うことにした。この便利な唐箕によって、自分達のつくっている箕の売れ行きがわるくなることを恐れたが、影響が亡かったので、大いに安心したという。
面岸部落は親戚縁者で成り立っていた。嫁が実家に泊まりに行くときも、帰って来たときも、一言も挨拶をしないことがあたりまえであった。嫁の姿が見えなくなると、「実家に泊まりに行ったろう」というのがしきたりのようであった。
男は年中箕をつくっているので、百姓仕事は女手によらなければならない。だから女たちは「オナゴとベゴは働いていればいい」といわれている。婚姻圏がこの村に限られるというのは、箕を作りの技法が他に洩れることを極度に警戒したためといわれている。そんなことから、他の社会との交流が全くないため、近隣の村からは「面岸のマス」と軽蔑されていた。
面岸には小さな流れに沿って細々とした帯状の水田がある。それに畑がある。が、これらによっては生活ができなくなって、みんな出稼ぎということになった。十年ほど前に、他の村に嫁いだ娘がいる。この村はじまって以来の伝統が破られたのであった。
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俳人として知られる小林一茶の故郷は、信濃国水内郡柏原村で、黒姫山の麓の雪深い里である。
この地域は、良質のソバが生産されることでも有名で、十五才で江戸の奉公に出るまでの一茶は、秋にはあたり一面に咲く白いソバ畑を見て育ったと思われる。
50歳を過ぎてから故郷に戻り、1829年に65歳の生涯を終えている。
蕎麦を詠んだ句も残されている。
○「そば所と人はいふ也赤蜻蛉」
文化4年(1807)の句である。
蕎麦の花が咲きだすと実に多くの虫たちが飛来する。白い花々にはどの昆虫も似合っているが、なかでも白い花の高見に留まり、ときに低空に飛ぶ赤とんぼとの風景は格別である。
知り合いが、朱の漆器で蕎麦を盛りつけた様子を「赤とんぼ」のようだと言ったことがあったが、もしかしたら一茶の句を知っていたのかもしれない。
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