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江戸の塗師絵図です。
見ていると江戸時代にタイムスリップしそうです。
各地に残っている絵や文献をもっと発掘したいですね。
古い漆器には、現在には伝わっていない不思議な技法が存在します。
江戸の漆技法を知りたいです。
中尊寺の漆塗り技法も、謎の技術があるようです。
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岩手県二戸市浄法寺町の天台寺。
「天台寺のある浄法寺町の生まれです」と言うと混乱する人がいました。
中世に二戸郡に勢力のあった鎌倉武士の浄法寺氏にちなんで浄法寺町と呼ばれていましたが、調べてみると、浄法寺という寺院は鎌倉時代に鎌倉にあったお寺のようです。 中世には二戸市浄法寺町には浄法寺城がありました。 城主は鎌倉幕府系の浄法寺氏です。 浄法寺氏の祖先は鎌倉市で奉られている畠山重忠です。 畠山重忠は北条時政の娘と結婚しました。
北条政子の妹です。 畠山重忠は北条家のお家騒動に巻き込まれ誅殺されます。その際に二男(三男説あり)が陸奥国二戸郡に逃れ浄法寺に住み着きました。 伝説によると天台寺は浄法寺と呼ばれていた時代があったようです。 天台寺という名前が確実に確認できるのは正平18年です。西暦だと1363年です。
これも伝説ですが、浄法寺氏が天台宗なので天台寺となりました。 伝説を信じれば畠山氏は天台寺の庇護者だったのですね。
現在、浄法寺町には浄法寺氏は一人も住んでいません。 浄法寺氏は、盛岡藩が成立して間もなく、分家の松岡氏に預けられたようです。 松岡家は現在に続いています。 青森県三沢市などは浄法寺姓の方が住んでおります。 盛岡藩が成立した頃に、古間木の土地を与えられて移り住んだとう伝説もあります。 盛岡南部藩の五家老に数えられていた浄法寺氏。
その改易の詳細が残されていないのです。 不思議です。 鎌倉浄法寺の宗派はなんだったのか興味が湧きます。 もしも天台宗だとしたえら、天台寺の歴史に新しい説が出てきますね。 宗派を寺の名前にしているのは天台寺だけのように思います。 |
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二戸地方でコーヒーが呑まれた歴史を調べています。
結論から言うと、未だに答えは出ていません。
大正10年頃、岩屋橋周辺にコーヒーを販売する店があったようです。
喫茶店なのか、豆を売る店なのかは不明です。
一戸でも大正期には、商店の引き札で販売店があったことが判ります。
浄法寺の旧家でも昭和初期には、近所の子供達に提供したようです。
当時の人々は、西洋の新しい飲み物をどのように感じたのでしょうか興味があります。
ご存じの方が居りましたら教えてください。
画像は大正10年頃の岩屋橋周辺です。
この近辺にコーヒー店があったようです。
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地元で慣れ親しんだ花林糖です。
ほどよい甘さで、時々食べたくなります。
一袋230円。
どれぐらいの生産量があるか判りませんが、地元で生計を立てられれば素晴らしいです。
どんどん食べて応援したいですね。
体調が良ければ、お茶でも飲みながら「浄法寺」談義でもしたいです。
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明治10年2月に西郷隆盛を中心として起こった反政府運動がいわゆる西南戦争です。
これに呼応して、明治10年5月に青森県三戸郡、岩手県二戸郡、秋田県鹿角郡の旧南部藩士たちも政府転覆計画を起こします。 これは三戸郡田子町の真田大古(泰幸、太古)を首謀者とする怪事件でした。 その計画を簡単に説明すると、5月17日に一派は青森分営を襲い兵器や弾薬を奪い、県庁を撃ち公金を奪う。 別の一派は鹿角地方の金山を襲い、七戸、五戸、三戸を扇動して福岡(二戸)を経て浄法寺に入り、 南部領内随一の豪農小田島勘治を説得(脅し)して資金を出させ、鹿角方面の一派と合流し盛岡に入り、 賛同者を募り仙台鎮台を破り、東京に入らんとするするものでした。 この計画は会輔社(二戸市)の社員・岩館迂太郎の密書により岩手県警察の知るところとなり、青森、秋田の三警察共同捜査により、 5月12日に首謀者が逮捕され未然に防がれたのでした。 この事件の檄文を書いたのが小田為綱です。 彼の明治11年日記によると、この事件の背後には西郷一派のはたらきかけがあったと見られます。 また、この頃に二戸郡は青森県から岩手県に編入されています。
(会輔社 小保内定身の画像)
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