浄法寺の漆屋!

浄法寺の漆屋です。漆に関する事を綴りたいと思います

浄法寺周辺の歴史

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陸奥浄法寺城

カシオペア地域で九戸城に匹敵する規模を誇るのが「浄法寺城」です。
二戸市浄法寺町の安比川左岸、南東方向に張り出した丘陵上(比高40−50m)に位置する平山城で、
新城館・西館・大館・八幡館の4郭からなる多館式の城館です

八幡館は東西250m×南北100mほど、大館は東西130m×南北140m、新城館は東西280m×南北150m、西館は東西150m×南北170mほどあり、
どの郭もこれだけで城ができるほど巨大な郭が連続します。
各郭は堀で分断され、特に八幡館・大館間の堀は幅20m・深さ10−15mはありそうな巨大な堀で、近世には鹿角街道が通る交通の要衝でした。

城主浄法寺氏は鎌倉御家人畠山氏の庶流とされます。
一説には元久2(1205)年、畠山重忠とその子重保・重秀が鎌倉幕府に対して謀反を企てたとして誅殺され、出家していた三男重慶が難を逃れて浄法寺に下向し土着したと伝えられます。
また一説には「奥州藤原攻め」で軍功のあった畠山重忠の弟重宗に二戸郡が宛がわれ、
その後 重宗の嫡子が早世し嗣子がなかったため、鎌倉浄法寺で出家していた重慶が還俗して重宗の跡目を継いだとする説もあります。

いずれにしても鎌倉初期、安比川流域に進出した畠山氏は浄法寺氏を称して、勢力を拡大する過程で浄法寺城を築いたと考えられます。
室町期、浄法寺氏の事績は不明ですが、安比川流域に松岡・田山・大森氏等の庶流を配置し南部氏からも客将として認知され独立した在地勢力に成長しました。

天正19(1591)年に勃発した「九戸の乱」で浄法寺修理重安は当初、日和見を決め込み行動を起こしませんでしたが、最終的には南部信直方に与して、姉帯城・根曽利城攻めに参陣しています。
一族の中には「九戸城」に与した勢力もあったようで、一族の血筋を残すために戦国期にはよく見られる行動です。(真田家など)

天正20(1592)年、秀吉の一国一城令により浄法寺城は破却されますが、浄法寺修理は南部氏から5000石を宛がわれ、外様領主として南部氏の家臣団に組み込まれます。
 
慶長2(1597)年には盛岡城築城の普請5奉行に任ぜられています。

慶長5(1600)年、南部家の和賀地方統治に反対する「和賀の乱」が勃発し、重安の子重好は鎮圧のため和賀の岩崎城へ出陣します。
 
南部利直は対陣中に陣を引き払い三戸へ戻ります。この際、浄法寺重好に和賀に残るように命じました。
しかし、和賀を任された重好は部下を残したまま無断で浄法寺に帰ってしまい、翌春に和賀に戻ります。
 
慶長8(1603)年、乱の終結後に重好の行動が戦陣の規律を破ったとされ、浄法寺氏は改易処分となったと伝わっています。

南部領内でも有数の大身者・浄法寺氏の改易は大事件なはずですが、その後の記録はほとんど残されていません。
 
大きな謎と思うのは管理人だけでしょうか?。


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塗師のむら

 八幡平西に約五キロ、ここから安比側の源が発している。この源ちかくに赤坂田というむらがある。昔は川に沿って、幅五、六尺の道があったが、明治二十五、六年頃に県道となった。現在は花輪線の「あかさかた」駅があるので、面目は一新した。皮に沿う水田から米がとれるようになったのは、昭和二十年以降のことで、それまでは稗を作つけていた。ものむらの人々が、全く稗を食わなくなったのは、昭和二十七、八年ごろからのことである。「もとむら」の荒屋新町の人たちからは、「赤坂田のマス」と軽蔑されていた。マスとは猿のことである。むらの人たちもそういわれると仲良くなるはずはないので、結婚圏も隣の郡まで伸びていた。

 近ごろ急速に住宅が改造されたり、新築されたが、そういう近代的な建物の中に、小さな古い土蔵が残されている。これが塗師の仕事場であり、塗り物の乾燥場である。

 隣村の門崎も、この村と同様に塗師のむらであった。この地方で有名な浄法寺椀こういうむらからつくりだされたものである。荒澤村産南部塗の沿革によると、次のようになっている。

 「この漆器は、浄法寺町の天台寺の衆坊がこの技法を伝習したのが秀衡以前のことであろう。次いで衣川の没落者が荒澤村の浅沢地方に来住して、次第に同業者ができるようになり、生産品は天台寺の参拝者に供給した、というのが草創期で、その後南部塗というようになり、その後次第に販路が広がり、その名称が御山御器とか、浄法寺御器と呼ぶようになった。この御器が盛んになったのは寛文から享保までの七十年間で、地元にも問屋ができるようになったが、重要がふえるようになると、粗製濫造となって信用を失うものもできるようになり、それに、宝暦、天明の凶作で打撃を受けたが、文化文政の時代には再び盛んになり、明治になると販路が北海道までおよぶようになった。」

 というのだが、これが昭和三十四、五年ごろに現れたベークライトの前にひとたまりもなく、この長い歴史を閉じなければならなかった。
 
 この浄法寺椀というのは、一般の農家が毎日使う物であった。だから需要も多かった。農家では、この椀のことを三ツ椀とか鉄鉢椀などといって愛用していたが、大正の末頃に茶碗が入り込んできた。漆器と違って壊れやすいので、取り扱いに注意しなければならなかったが、模様とか色とか、大きさなどによって、家族がそれぞれ個人別に使えるという便利さがあった。しかし現在でも、寄り合いのような人の集まるときの食事には、昔の浄法寺椀を使っているところが多い。

 明治十年ごろ、汁椀一枚一銭、三ツ椀が四銭であった。
 
(参考文献 高橋九一箸 むらの生活史



竹細工

 県北地方の竹細工の有名なのは、一戸町の鳥越である。ここには次のような伝説がある。それによると、このむらの鳥越観音を開いた慈覚大師が、大同二年に諸国行脚の途中に、鳥越山に住む大白蛇退治して、里人の難儀を救ったとき、その白蛇の輝く鱗から思いついて、竹の編み方を工夫し、それを里人に伝授したといわれている。

 この鳥越のほかに近在には、尻子内、夏間木、似鳥、下斗米などの村むらも竹細工をやっている。この地方一帯にこのような竹細工の村が多いことは、この地方特有のスズタケが山に自生しているからである。藩政時代にも南部特産の竹細工として、この地方の竹細工が知られていた。明治になってから、改良を加えて販路も関東から北海道に及ぶようになり、昭和になってからは、豊富な高地の根曲竹を利用して、小物ばかりでなく家具まで製作するようになり、その販路も年と共に増加し、国内はもちろんのこと、現在では国外からの注文もあって、その求めに応じかねている、という状況にある。

 スズタケは、むらの周辺の山から刈り取ることができる。夏竹は中土用から二十日間くらい刈り取る。また、編み竹は秋竹とも言っているが、これは十月から四月までの間に刈り取る。縁にする唐竹はよそから移入しなければならない。スズタケは六百本を一把とするが、一日に二把ぐらい刈り取ることができる。

 夏間木に電灯が入ったのは昭和二十年ごろのことで、そのころは、小割にした松の根を焚いて明かりとして、一軒の家で六人も七人も竹細工をやったというところもあった。家々では、夕飯が済むと煙草を吸う暇を惜しんで仕事をした。子供も小学校の三年生くらいになると竹細工を始めたものだった。つくる物は、行李かごとかざるの類、腰に縛りつけたり背負ったりする「かっこべ」などいずれも、家庭内とか農作業など、どこの農家でも毎日使う物ばかりだった。

 九戸の瀬月内川のほとりに生えているニガタケを利用して、ざるをつくっているむらがある。冬期間には八升くらい入る小ざる、二斗くらい入る中ざる、三斗くらい入る大ざると、千石つくり、夏には稗通しをつくっている。竹を取るのは十一月ごろで、一昼夜水に浸し、小刀で肉をとって使うのだが、今は機械で取るようになった。

 以上のような竹細工は、軽米とか福岡の市日に背負って行くと、仲買人がいて買い取ってくれた。竹細工は耕地の少ない山村のしごとであった。

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漆掻きの村 


   福岡の町で金物屋をしている田中さんの先代が、越前から二十人くらいの漆掻き職人を連れてきて、漆掻きするようになったのは日露戦争の頃であった。越前から一ヶ月ぐらいかけて歩いてやって来た。当時二戸や三戸には300人ぐらいの職人がやってきたようだ。漆掻き用の道具は越前から取り寄せて使った。

 昭和10年頃になると、漆の木は著しく減少した。浄法寺や上斗米などでは植え付けて育成したが、衰退の一途だった。浄法寺には100人以上、上斗米村には50人ぐらいの職人がいた。

 藩政時代には、苗の育成から栽植、保護など山林行政のなかでも、重要な位置を占めていたことは、漆立ち奉行が置かれていたことでもわかる。

 漆の木は、業者が買い求めて掻き子の掻かせる場合と、掻き子が直接木を買い取って掻く場合がある。木の値段は「四十匁たれ」というのが標準になる。四十匁というのは、だいたい二十年の木から採取できる量である。

 漆掻きには、時期と方法によって区別があった。掻き取った漆は、たいていは大阪方面に売り捌いていたことが古い記録に残っている。

(参考文献 高橋九一 むらの生活史)

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縄文時代は、約1万5千年前から約2300年前にかけて日本列島で発展した時代である。

 
世界史で見ると、中石器時代から新石器時代に相当する。土器の出現、竪穴式住居の普及、貝塚の形成が特徴である。
  
縄文時代の終わりについては、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とすれば、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで多くの議論がある。
 
しかし地域差が大きく、また近年の発掘調査から縄文時代にも稲作が行われていた痕跡が見つかっている。
 
つまり稲作で縄文と弥生を分けるのは無理があるのである。
 
この縄文文化を再発見したのは彫刻家の岡本太郎氏だったことはあまり知られていない。
 
嘘のような話に聞えるかもしれないが、それまで縄文について美術的な視点からの発言は誰もいなかった。
 
岡本太郎が1952年に『みずゑ』誌上で「四次元との対話――縄文土器論」を発表するまで、縄文土器や土偶は美術品ではなく遺物という扱いを受けていたのである。
 
実は、カシオペア地域は縄文遺跡の宝庫なのである。
 
特に一戸町では、御所野遺跡を青森の三内丸山遺跡などとともに世界遺産への登録を目指している。
 
御所野遺跡の北方約3kmの地点にある蒔前(まくまえ)遺跡から出土した「鼻曲り土面」は、長さ18cm、幅11cmで、顔全体が右から左へゆがんでいて、太いヒモ状の鼻は右に大きく曲がっている。
 
顔の一部に赤色顔料が残っていることから、当時は全面が赤く彩色されていたと思われる。
  
一見ユーモラスな表情にもみえるが、土面は、精霊や祖先など、死者に関連するものと考えられ、「鼻曲り土面」は、悪霊を表したものとする説もある。
 
世界各地に残る醜女伝説との関連も考えられる。
 
顔の両側には紐を通すためと思われる孔があり、仮面として被っていた可能性もあるが、鼻の裏面にくぼみがないことから、人の被る面ではなく、木あるいは植物質など腐食しやすい材質の像にとりつけたとも推測される。
 
ぜひ縄文遺跡を世界遺産に!

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