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古代東北の大きな出来事と言えば前九年の。
平泉以前に奥州に大きな勢力を誇っていた安倍氏と源氏の源義朝の戦いです。
この戦いは鎌倉の源頼朝が藤原泰衡を倒すまで続きます。
安倍氏は厨川周辺が本拠地でしたが、一族に安倍富忠という謎の人物がおります。
その安倍富忠は浄法寺周辺に勢力を誇った人物ではないかと考えています。
安部氏の末裔を自任する安藤氏。
天台寺と津軽との関連を示す伝承なども興味深いですね。
平泉から盛岡、浄法寺、津軽などが何となくつながります。
古い秀衡椀と浄法寺椀がそっくりなのも当然ですかね。
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浄法寺周辺の歴史
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奥州平泉の金色堂は有名です。
当時の奥州は、産金で知られています。
しかし、絢爛豪華な黄金文化も、実は漆の文化なのです。
そういった意味で、平泉の財力を支えた物には、漆があったのかもしれません。
そのあたりから、日本史を調べると面白そうです。
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末の松山と浪打峠
二戸市と一戸町の境にある末の松山に登る道は、かつては人馬の往来も多く道幅も広かったそうです。 また山頂に登ると岩手山や姫神山が望まれ、雄大な風景がひらけています。
古くから歌に詠まれる名所として知られ、三十六歌仙の一人清原元輔が詠んだ歌は有名です。
「契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 なみこさじとは」
後拾遺和歌集の歌は有名ですね。
「末の松山」を詠んだ歌は、古今和歌集の他、拾遺和歌集や千載和歌集などに数多く撰ばれている。
しかし、かつては海底だったことを物語る交差層を見ていると、海の気配が感じられ風景全体が波打っている。別名を浪打峠と称ばれる。 明治9年7月10日朝、明治天皇東北御巡幸の際にここで休まれたと記録に残っています。 「後撰和歌集」 「わが袖はなにたつすゑの松山かそらより浪のこえぬ日はなし」 「拾遺和歌集」
「浦ちかくふりくる雪はしら浪の末の松山こすかとぞ見る」 「金葉和歌集」
「いかにせんすゑの松山なみこさばみねのはつゆききえもこそすれ」 「千載和歌集」
「あきかぜは浪とともにやこえぬらんまだきすずしきすゑの松山」 「新古今和歌集」 「霞たつすゑの松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空」 「能因集」 「すゑのまつ山にて白浪のこすかとのみそきこえける末の松山まつ風の声」 「後鳥羽院御集」 「 見わたせば浪こす山のすゑの松木すゑにやとる冬の夜の月」 末の松山は、一般的には多賀城周辺とされていますが、二戸地方の説も根強くあります。 二戸地方の末の松山は、現在では通る人はほとんどありませんが、和歌でも詠みながら歩いてみたいと思うこの頃です。
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北福岡駅。
昭和62年に二戸駅と名前が変わりました。
あれから31年。
二戸駅も良いけど、北福岡駅も捨てがたい響きがあります。
ここの駅蕎麦が好きでした。
当時の写真や資料を探してます。
お持ちの方はよろしくお願いします。
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江戸期の盛岡藩内では漆蝋が生産され、藩にとっても貴重な産物の一つであったことはよくわかる。
しかし、集めた漆の実をどこで、どのように絞って蝋を作り、これを原料にして何を、どれくらい作ったのかなどはまだ解明されていないことも多い。
史料には、盛岡城下に住んでいた藩お抱え蝋燭師の名前も記録に残っている。
おそらく漆蝋を原料に蝋燭が作られ、城内や武家屋敷での照明として用いられたと思われる。
このほかに祭礼や祈願などの際、藩内の主な社寺への奉納物としても蝋燭は珍重されていた。
明治10(1877)年に来日し、大森貝塚の発見者としても有名なアメリカの動物学者エドワード・S・モースは、日本滞在中に各地を旅行しその記録を『日本その日その日』(平凡社、東洋文庫)として残した。
彼は明治11(1878)年8月20日頃に現在の二戸市福岡を通過するが、そのときの印象を次のように書きしるしている。
一軒の家の前を通った時、木の槌を叩く大きな音が私の注意を引いた。この家の人々は、ヌルデの一種の種子から取得する、植物蝋をつくりつつあった。この蝋で日本人は蝋燭をつくり、また弾薬筒製造のため、米国へ何トンと輸出する。
(中略)
ここ北日本でも同国の他の地方と同じように、この蝋をつくる。先ず種子を集め、反槌で粉末にし、それを竈に入れて熱し、竹の小割板でつくった丈夫な袋に入れ、この袋を巨大な材木にある四角い穴の中に置く。次に袋の両側に楔を入れ、二人の男が柄の長い槌を力まかせに振って楔を打ち込んで、袋から液体蝋をしぼり出す。すると蝋は穴の下の桶に流れこむこと、
岩手県北地方での本格的な漆蝋生産は大正末期までだったらしい。
水力発電所ができて新しい照明の時代になったこと、西洋ローソクの普及が衰退の理由である。
江戸期の浄法寺では、この和蝋燭の炎で漆器に文様を付ける技法があった。
この技法は、西洋蝋燭だと上手くいかないらしい。
蛇足ではあるが、エドワード・S・モースが日本滞在中に住んでいた家の数件隣に、若き日の田中舘愛橘が住んでいた。
もしかしたら、エドワード・S・モースの東北旅行も、愛橘博士の影響があったのかもしれない。
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