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明治10年の政府転覆計画

明治10年2月に西郷隆盛を中心として起こった反政府運動がいわゆる西南戦争です。

これに呼応して、明治10年5月に青森県三戸郡、岩手県二戸郡、秋田県鹿角郡の旧南部藩士たちも政府転覆計画を起こします。

これは三戸郡田子町の真田太古を首謀者とする怪事件でした。
 
その計画を簡単に説明すると、5月17日に一派は青森分営を襲い兵器や弾薬を奪い、県庁を撃ち公金を奪う。

別の一派は鹿角地方の金山を襲い、七戸、五戸、三戸を扇動して福岡(二戸)を経て浄法寺に入り、 南部領内随一の豪農小田島勘治を説得(脅し)して資金を出させ、鹿角方面の一派と合流し盛岡に入り、 賛同者を募り仙台鎮台を破り、東京に入ろうとするものでした。

この計画は会輔社(二戸市)の社員・岩館迂太郎の密書により岩手県警察の知るところとなり、青森、秋田の三警察共同捜査により、 5月12日に首謀者が逮捕され未然に防がれたのでした。

この事件の檄文を書いたのが小田為綱です。

彼の明治11年日記によると、この事件の背後には西郷一派のはたらきかけがあったと見られます。

小田為綱は盛岡藩校作人館寮長で、同年の真田太古がおこした反政府運動に参加し投獄されています。

出獄後「憲法草稿評林」を書き、明治21年八戸義塾をひらき漢学をおしえたそうです。

明治31年衆議院議員に就任し当選2回でしたが、明治34年4月5日63歳で死去しました。

南部藩佐幕派の首領楢山佐渡の参謀であった那珂通高は、真田事件を事前に知っており,
福岡(二戸市)の会輔社代表小保内定身に明治10年2月1日付けで手紙を送り、反真田運動を奨めます。

この際、小保内定身は表だった動きを見せていませんが、同志とも言うべき岩館迂太郎が県に密書を送り、 会輔社の下斗米与八郎を実情調査のために鹿角方面に差し向けています。

また、西郷決起を聞いた際には「私の体を投げ打つには他人の勧誘は受けない。西郷が皇室に対して不忠の心があれば別だが、ただ政府内の意見が異なった為のものである。」といって、西郷討伐にはやる社員をなだめたと伝えています。

会輔社代表の小保内定身の自宅には、明治9年7月10日に明治天皇や木戸孝允などが立ち寄っている。定身には客観的な情勢が判っていたと思われます。

反真田の手紙を送った江幡五郎は、 吉田松陰の友人です。
江戸滞在時に国許で兄が、藩の内紛で死に追いやられたことを知り、対立していた家老への仇討ちを企画します。

江幡は吉田松陰・宮部鼎蔵のみちのく旅行に同行し、途中で別れて仇討ちをする計画でしたが、結局決行にいたりませんでした。

この頃に偽名として那珂弥八郎を名乗りましたが、これが気に入ったのか後に苗字を那珂に改めて、五郎をもじって梧楼と号したようです。

戊辰戦争では南部藩の責任者されましたが、なぜか重い処罰はされませんでした。

明治維新後は新政府に出仕し、大蔵省ついで文部省に勤め、特に文部省で活躍した。


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幕末の志士

二戸市福岡には、幕末の志士たちが訪れた結社があります。

会輔社といいます。

じっくり調べると、おそらくですが、面白いことが出てきそうです。

明治9年には、木戸孝允も来ています。

日本の綿羊発祥の地でもあります。

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方言

私の住んでいる岩手県北部(青森県南も同様)では、「ホンズとは」頭の記憶能力、知能を意味している。
例えば買い物を頼まれて、間違ったものを買ってきた場合などに「ホンズナス!」と言ってしかられたりする。

「ホンズナス」の”ナス”は、「無し」が訛ったものだ。
それでは「ホンズ」の語源は何であろうか?。
元々は、京都で使われていた言葉で「本地」である。
本地とは、「本性・本心・正気」を意味しているようだ。
「酔いてもほんぢを忘れず」と古典にも登場する。
そう言えば酒を飲んで意識が無いことも「ホンズ」を落とすと使ったりもする。

「ホジナシ」・「ホンキナシ」・「モンジャナシ」・「ホデナス」・「ヘデナス」・「ホウデェナス」・モジャネ」など言葉が、
同じような意味を持って東北各地に残っている。

これは「ホンズナシ」文化圏と名付けるしかない!。
「本地無し」!。何とも意味の深い言葉ではないか
さらに驚くべき結果が隠されていた。
九州南部では酒を飲んだら「ホ」が無くなるらしい。
北国の東北でも、酒を飲んだら「ホンズ」が無くなる。
九州でも間違ったものを買ってきたら、「ホがねー」と言ってしかられるらしい。

柳田国男氏の説によれば、言葉(日本語)というものは京都を中心に円を描くように(波紋)日本各地に広がって行くものだと唱えている。
つまり、京都で流行した言葉が長い年月をかけて、少しずつ変化しながら小さな円の地域からより大きな円の地域へ広がると言うことだ。
そして京都ではとっくに忘れられているような言葉も、遠く離れた東北や九州では形を変えて残っている。

と言うことは、日本語の成り立ちを考えた場合、方言は資料の宝庫となるはずなのである。
類似の言葉があれば教えて下さい。


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九戸一揆の性格
 
九戸一揆が天正18 (1590) 7月にはじまる奥羽仕置への反撃です。
 
豊臣政権による新体制に反対する一揆であることは間違いありません。
 
この点は天正19 (1591) 317日付の南部信直書状と浅野忠政等書状で確認できます。
 
これらの書状は一揆の最中に、一戸月舘より出されたもので、上杉氏の家臣で出羽国仙北平賀郡大森域に在陣していた色部長真に宛てられているものです。
 
信直の書状にある「郡中悉侍百性等共、京儀雖嫌申候心底候」との文言、あるいは浅野忠政書状の「郡中諸侍其外下々迄、京儀をきらい申内存候問」と表現から、一揆の性格を知ることができます。
 
この点で、九戸一揆は葛西大崎および和賀稗貫の一揆と同じ性格であり、葛西氏・大崎氏の旧領で発生した反豊臣の一揆が拡大したものです。
 
しかし、九戸一揆がこれと明確に異なることも見逃してはいけません。
 
葛西・大崎氏の旧領は、豊臣大名木村氏の所領となり、葛西大崎一揆は木村氏に対する反乱でした。
 
和賀稗貫一揆も、旧領は浅野長吉の管理下におかれ、実際には長吉の家臣が配置されており、一揆の攻撃対象となったのです。
 
九戸一揆においては、戦国期以来この地を代表する南部氏が、 一揆の脅威にさらされたのでした。
 
しかも一揆勢力には、九戸政実という強大な指導者がいました。
 
室町後期から糠部を中心とする地域を代表する領主といえば確かに三戸南部氏でしたが、戦国期の三戸南部氏は、この地域の領主を家臣問に編成しきることができず、諸領主の関係は「郡中」という中世的な領主間連合でした。。
 
実力で諸領主を家臣化することが不可能だった三戸南部氏は、天正10 (1582) 年に信直が家督を相続すると、急速に豊臣政権に接近しました。
 
つまり、豊臣政権の後援を得て近世大名化をはかったのでした。
 
南部信直は豊臣政権の体現者となり、逆に信直と対立する九戸政実は反豊臣勢力の拠りどころとなるのです。
 
この点が、九戸一揆が葛西大崎、和賀稗貫一揆よりも複雑で深刻な争乱に発展せざるを得なかった原因です。
 
“政実の乱"といった呼称の始めは、「南部根元記」だといわれています。
 
これは九戸一揆を“正当大名である信直に対する家臣九戸政実の反乱"との考えからです。。
 
豊臣政権の立場からすれば、糠部郡の諸領主は信直の家臣であるべきで、実際当時の文書ではそのように表現されています。
 
そういった意味で、九戸城下の住民は「九戸政実の乱」とは表現すべきではありません。
 
「九戸一揆」と呼ぶべきでしょう。



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九戸政実は何歳?

九戸政実の決起は、天正19年(1591)に起きた争乱である。
南部家の第25代晴継が没した後、南部家を誰が相続するかで争い、最後は南部信直が相続した。
それに異を唱えたのが九戸政実であった。

九戸実親(政実の弟)を推していた九戸党が、信直の相続を不服として南部家に対して反旗を翻し、最終的には信直を支援する豊臣政権の軍勢が九戸城を攻略し、降伏した政実以下を斬首して解決したということが通説になっている。

九戸政実が九戸城に籠もって豊臣勢と戦ったのは、間違いない史実だが、そのときの当主が「政実」であったかどうかは、実は確実な証拠がないのである。

亡くなった年齢の辻褄が合わないのある。

「政実の名」は、天文7年(1538)の日付で九戸神社に伝わる建立時の棟札で確認できる。
実は、その札のみなのである。
その札には、「大旦那源政実」と記されている。
「大旦那源政実」とは、源氏の血を引く政実という意味であるが、政実は56才で処刑されたと伝わっている。
そうすると、天文7年(1538)は3才ということになり、果たして「大旦那源政実」と名乗り、神社を建立したとは考えにくい。

棟札の政実は、既に元服していたと考えると辻褄が合いそうな気がする。
政実の実際の年齢が15年ほど遡るとすると、すでに子供が跡を継いでいてもおかしくない年である。
政実の子供が跡を継いだという伝承は残されていない。

津軽家文書』によると、永禄10年(1567)、政実が一戸大和守宗綱を攻めた時、宗綱の二男勝五郎(11歳)が、九戸の二男弾正を射取ったとある。

二男がいたということは長男もいたということである。

天正19年(1591)の時点で、市左衛門という子がいたと伝わり、市左衛門は津軽に逃れ、津軽為信が保護を加え、御馬廻役知行400石を与えらとの伝説もある。

また、『聞老遺事』によると、政実には九戸落城時に3歳ばかりの末子がいて、四戸氏の者が江刺黒石の正法寺
に預け、成長ののち江戸に上り3000石をもらい堀野三右衛門と号し、元和年中(1615〜24)陸奥国の巡見使として三迫にきて九戸神社に参詣したという。

一子の亀千代は、落ち延びる途中の田子で討ち取られたとも言う。
政実が敗れたのが68才頃とすると、実弟と伝わる実親は政実の子だったとも考えられる。

歴史の想像は楽しい!


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