浄法寺の漆屋!

浄法寺の漆屋です。漆に関する事を綴りたいと思います

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秀衡椀の謎は深まる

  平成12年に発行された雑誌「目の眼」に秀衡椀の記事が掲載されました。知っている方の名前も出ていたので印象に残っていました。その記事を掲載して浄法寺・秀衡の参考にしたいと思います。

 秀衡椀という名のおこりは「蘭学階梯子」の著者大槻磐水が書いた「秀衡椀記」(寛政4年が」最初である。
 しかしこの名が広まったのは明治・大正時代の益田鈍翁、畠山一清などの数奇者がこの椀に目を止め茶会席に使うようになってからといわれている。また民芸運動の創始者柳宗悦も早くから秀衡椀ならず浄法寺の古漆器の持つ美しさに目を止めて集められ、日本民芸協会の機関誌「工藝」「民藝」で特集号を出し、日本民芸館で特別展を開くなどしてきた。それによって名が更に知れ渡り、関心を持つ人が増えてきたのである。

 昭和五十六年、中尊寺坂下で秀衡塗を生業としている翁知屋の主人佐々木誠氏から「中尊寺で藤原秀衡公850年祭が行われる。その中で6月1日から一ヶ月間中尊寺で秀衡椀展が開かれるが手伝ってくれないか」と言う話があり、会の始まる前に佐々木氏と中尊寺の人と三人で秀衡椀の借り出しに歩いた。
     
 昔、北上川の舟の関所をしていた旧家では、楓紋の秀衡椀から時代順に十組揃って絵柄の違ったものを三組持ち伝えているには驚いた。こうして秀衡椀を持っている家を殆ど歩いたが、すべての家が当代で37代といった旧家であるところから、秀衡椀は或る程度身分の高い上客の接待用として特別に注文されたものではないかと思った。また、この椀は蓋無しで三つ重ね、時代が下がると四つ重ねが出てくるが、何れも十組が一単位で絵柄が総て違う。従って例えばよく知られている柏紋の椀が一組は日本民芸館、もう一つは秀衡椀の研究家、一関市の菅原精蔵が持ち、後の八組は代々持ち伝えてきた岩手県花泉の旧家にあるのを私は「見ている。

 また、日本民芸館蔵の桃の絵柄の秀衡椀一組は前からあったが、後の一組は柳宋悦がアメリカで入手したものである。この手の椀は菅原が秀衡椀をよく知らない頃十客持ち込まれたが、そんなにあっても思って五客だく買ったという。つまり日本民芸館の桃絵の椀は五組の中の二組で、あとの三組が何処にあるか解らない。読者の中でもし、一組でも図5の桃絵の秀衡をお持ちの方がいれば、その三組の中の一組である。

 秀衡椀はこれだけ有名なのに関連した資料が少ないため産地が解らないが、椀の分布している範囲が、西磐井、東磐井、胆沢の三郡であり、作られたのはこの近辺であり、室町末期から桃山時代ころと言われている。

株式会社里文出版



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川連漆器

心惹かれる漆器に川連があります。


古い技法が残っている地域でもあります。

鎌倉時代(1193年)、源頼朝の家人で稲庭城主の小野寺重道の弟、道矩公が、家臣に鞘、弓、鎧などの武具に漆を塗らせたのが始まりとされています。

本格的に漆器産業が始まったのは17世紀中頃、元和(1615年)から元禄にかけてであり、川連村を中心におよそ26戸が椀師業を営んだと伝わります。


名前は忘れましたが、古い天台寺院があり、それとの関連で漆器産業が発達したという記事を読んだ記憶もあります。


文化12年(1815年)、藩の許可を得て朱塗りの漆器をつくり販路を他国にひらき、江戸時代後期には藩の保護政策で発展します。


 

椀、膳、重箱など幅広い漆器がつくられるようになり、沈金、蒔絵などの飾りが加わって、産業基盤をさらに大きく築きました。


近年は新製品開発など、販路の拡大によって多種企業との連携で全国展開を試みています。


個人的には、秀衡椀の産地だった可能性があると考えています。



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古椀 参考文献

本県(岩手県)は、古来生漆の生産地として知られているが、漆器の産もかなり昔からのように伝えられている。
 
現今県内の漆器産地の集団地をみると、県南はまず胆沢郡衣川増沢と、旧南部領内では盛岡市並びに二戸郡荒屋新町を中心とする一帯の地だけである。
古くから浄法寺椀と呼ばれる郷土的な椀は此の二戸の荒沢地方を中心とする安比川流域に沿って産競られるモノである。

此の浄法寺椀の創めは、秀衡時代にあるように謂われているが、今の浄法寺椀は所謂南部椀の係累であるから南部椀の祖とその源を一元にしてうるわけである。

南部椀の嚆矢には諸説あって、地元の伝承としてより、むしろ中央識者の間に著述されたものに見える処の説である。

一は高倉天皇の御宇陸奥の南部の工人漆器を製す、是を南部椀といふとか、浄法寺御山天台寺にて自家用漆器を作りしに創る、或いは正平年間正法寺にて自家用什器の椀を製したそれより南部椀は出でしと称される如く平安時代、天台寺、正法寺の什器製作にその源を凝定しているので伝説以上の進展を見ていない有様である。
 
日本漆器工業論(昭和21年刊)の著者磯部喜一氏も、前二者の説を掻き混ぜて藤原秀衡が農民に命じて押領使御用の秀衡椀を作らせた秀衡は故に此の面に於いて貴族工芸品と目されるし、また一般庶民の需要のものを製らした、是が後世の南部椀であると解されるように書いている。 

然し一方、秀衡椀は南部椀で、江刺正法寺の寺什や浄法寺の御山天台寺の寺什製作に伝わる正平年間から浄法寺付近の農民の手で浄法寺椀が作られるようになったと述べているが、変遷推移の時代漠然としたものがあって単に伝説の交識に過ぎないもので終始している。
 
現在本県内で伝えられる古椀によると、秀衡椀と世に云われる椀を厳然とした一形式を備えた三ツ椀様式のものを見ることが出来る。

此の椀に就いては既に岩手県史学研究(第八号28ページ)に於いて自説を掲げたので、私は茲では南部椀の圏外に一応おいて、しばらく秀衡椀には触れない事にしたい。

尚ほまた江刺郡黒石村正法寺什器の正法寺椀についても同様取り扱って、南部椀は南部氏時代南部領内に於いて製作された椀のみについて検討を加え研究をしたいと思う。
 
思うに南部椀の呼称は南部領内者よりは領外の者の呼称として考へらるべきで、地元には恐らく此の呼称が用いられてなかったと見られるし、南部椀と云うのは南部領内産の椀類一般に対するものであるかもしれない。

今は概念的であるが浄法寺椀と云われている椀は内外共空き赤か黒の三ツ椀、四ツ椀をさして呼び、北海道漁場などに近年移出された単独椀も左様に呼ばれて地方使用の雑器的のものである。

現在製出のものには南部椀として地元呼称のものはないが、此の名称につながるものとして即ち南部椀と称するものは内は朱色にして外は黒色なり、又は黒漆の上に朱色又は青漆黄漆を用いたるを以て或いは鶴或いは花卉を描き所々方切りしたる金箔を附着し其の朱色絢爛なる此の模様を南部模様と云う云々の説明に従って見ると、現在においてはその様な椀は造られていないが、南部領内に於いてのみ見られるこの説に符号する古椀を見ることが出来る。

然しこうした椀がはたして南部領の何処で造られたかということは問題であったが事実生産されたことが実証出来る文献、最近、淵澤定行氏によって南部家古文書の中に見出された。

先づ南部椀、いや漆器が古くから領内に生産されたり、藩外に移出される程の事実が知れることは、
 南部家雑書(享保二年乙酉年正月の分
  極月廿九日
  黒塗御椀十人前浄法寺太山孫右衛門如御佳例之今日進上し・・・
 南部家雑書(享保二年分)
  六月廿日
  澤内通り御留め物之事
  箔椀同木地
 南部家雑書(寛文十二年分)
  閏六月十二日
  浄法寺村其外御領分中椀師共仕出候塗物箔絵物の外地領へ出し申し度く望み候付遣候証文の事
  御領分中椀師共仕出候塗物箔椀ッ椀、つぼひらき共に壹駄に付三百人前其外の塗物も右椀壹駄の目形の積に体餞一駄に付四百文宛て其度々に指上定右塗物共他領へ出候時分は御町奉行迄其方荷物の書付相出候町奉行手形を取り他領へ通可申し候若御法度の箔絵物不寄何に少し成共隠密仕荷物之内へ入通候者可為曲事候云々
南部家雑書(寛文六年霜月十四日分)
 仙台の泉屋吉右衛門火事に逢遺道具迄焼失に付き当地にて御椀、台皿、平皿二三共参拾人前小数三百六拾同折敷三拾人前小数九拾九枚重箱二厳右調度申御町奉行を以訴訟に付為相調候無相違可申手形鬼柳番所へ右の手形以来引付には無之旨申渡水谷六右衛門迄遣之

是に依って見ると南部領内の漆器は寛永寛文年代相当の産があって、鬼柳番所を経て仙台領或いは澤内街道を秋田等に迄出荷していたようである。
むろん江戸市場にも出ていたことは染屋が南部椀の花鳥模様を南部模様といって応用して流行したことでも推量される。(工芸志料229ページ)
 
以上の記録によると椀のみではなしに各種の塗物が出されていたようであるが箔絵椀のみは何かの理由で厳重な移出管理のもとに作られていたふしがある。

それでは箔絵椀とはどのような椀を言うのであろうか、箔椀とは何か、まず箔椀については工芸資料(二三一頁)会津椀の項に、「天正十八年蒲生氏郷会津領主となる。氏郷漆工に命じて創て南部椀に模擬して以て漆器を製せしむ是を会津塗といい其の椀を箔椀といい其の盆を箔盆という其の中に或いは抹金の描画を少し施して製を南部塗と異にせるものあり」とあり、南部の記事にも薄椀の名も見え箔絵物とも書いているが、南部の場合は薄手物即ち上椀の意か不明であるが箔と薄との音の誤りであろうか判別に苦しむものがある。ともあれこの資料の言に依れば会津ものと南部ものの相違は僅かに抹金を施した点に於いてのみであるとされる。南部の技法には南部蒔絵の名称があり抹金でなしに色絵であることは今日見る古椀について確かめられる点である。
然しまた箔のみで模様の部分を表して雲の菱文を欠くものもあって、大迫の村田氏所蔵椀は真に箔絵椀と言い得る箔のみで藤花を絵画的に表している。平椀や重箱に桐花或いは葡萄を箔絵で描いているものなどの古椀を見ることが出来る。

然しそう多数見受けられ無いが南部地域外にはどの程度にみうるものかは今のところ不明で是が南部椀の産地であるという確認は今のところなされておらぬが箔絵の言葉には完全に合致するものである。

寛永寛文代の南部古椀で所謂箔絵の金蒔絵ものを見るに九戸郡軽米町小笠原哲二氏並びに二戸郡福岡町川嶋一郎氏蔵の四ッ椀は上作で且つ最古と目されるが左のような特徴がある。
一 四ッ椀(秀衡椀三ツ椀 正法寺椀単独椀)
一 母体の外型(正面図)側線が高台から上方に放物線に開いている
(秀衡椀は口辺に近くしぼむ)
一 高台が高く直線に踏ん張る、高台の底面の括りが浅い。南部椀、秀衡椀共に高台の底の括り浅いその理由は手斧作りの手仕事上の為であるこの技術は南部の作りに見られる。(秀衡椀の高台線は主に曲線)
一 高台に帯状の模様がある(秀衡椀はない)
一 方切箔の金模様がある(秀衡椀の切箔は菱形或いは不定)
一 天雲が秀衡椀は概して源氏雲の趣きで南部ものは意匠が強い。
一 花紋は三輪の輪状菊花と枝葉で一定している(秀衡椀は各種の草花梅桜等を描く)
一 輪口の帯状箔が太い
一 用漆は黒地に黄漆にて模様を描き色蒔絵を施し、朱、黄、緑等多彩である点と、片切筆と称する別の筆を使用して模様を描くことも特徴とされる。
 (秀衡椀は朱一色で絵漆仕立てで蒔絵技法をとらない) 
 
私は此の椀を以て南部椀のオリジナルを認めるものであるで、是が箔絵椀とすることに異論がないとすれば南部椀を代表として黒川眞頼や藩末江戸の茶人や数奇者の間にもてはやされた南部椀は秀衡椀と混同される此の箔絵椀が名を得ていたものと思われる。
 
斯様な次第で南部椀にも子細に言えば種々あると思うが、秀衡椀に並び称される南部椀は箔絵椀であると断定してよいようである。
更に係累椀を示して不足の言葉を補って此の研究を終える事にする。
一 秀衡椀 古椀  後世の南部での模作あり
一 正法寺古椀   後世の模索なし
一 南部椀  箔絵椀 古椀 後世の作
  浄法寺椀 主として赤黒無地三ツ椀、四ツ椀 近時単独椀
  荒澤椀 現在産の浄法寺椀と同系
一 會津椀
一 大内椀


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郷土史研究家の田中庄一氏によれば、戦国時代に近江の君ヶ畑系の木地挽きが浄法寺に来住し、浄法寺氏に仕えて多彩な椀を作った。

しかし、慶長3年(1803)には浄法寺氏は南部利直によって取りつぶされ、領地没収となったのだが、浄法寺湾の製作は中断しなかった。

南部氏が盛岡に築城してから幕末までの約300年間、椀作りを浄法寺通りに命じていたという。

浄法寺椀の原木には、ケヤキ・ホオ・トチ・ヤマグワ・ハン。ブナ・ヒノキなどが用いられた。

東北本線の好摩駅から花輪線に乗り換えると、七番目の駅が赤坂田である。ここで南部藩御用の椀木地が作られた。

さらに二つ目の駅が荒屋新町で、ここから福岡町まで安比側沿いに鹿角街道続いており、浅沢は昔から椀の産地として知られていた。

さらに北西に進むと浄法寺町に出るのだが、このあたりはかつて浄法寺通りと呼ばれ、ここから産する箔椀(薄椀)は御留物(御禁制)として他領への流出をきびしく差し止められていた。

たとえば正保二年(1624)六月二十日付の文書に、箔椀とその木地は、先年から御留物になっているから、もしわき道をかくれ通って他領に持ち出そうする者があった時、その者をとらえて差し出せば褒美を下さるであろう、という通達が残されている。

したがってこれは、十七世紀中頃以前から浄法寺箔椀の評判が他領でも高く、ひそかに持ち出される場合が多かったという証拠になるであろう。

秀衡椀の産地については諸説があり、まだ明らかにされていないようであるが、秀衡椀とは古い時代に浄法寺通りで産した椀のことであり、古式箔椀とも呼ばれていると、田中氏は述べている。
また、浄法寺椀といわれているものには二通りあり、一つは江戸時代初期の古文書に出てくる三ツ椀、四ツ椀である。

これらは三ツ重ね椀、四ツ重ね椀ともいわれ、ゴキと呼ばれた庶民用の塗り物であった。

他の一つは、箔椀と称されたもので、南部家の定紋が入っており、浄法寺通りから盛岡城へ献上される以外は、製作、使用、販売は一切許されぬ禁制品であっったという。


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(平成2年5月発行「目の眼」5月号より引用)

江戸期の浄法寺漆器

あるサイトで、江戸期の浄法寺では漆器が作られていなかったというように書かれていた。

その理由として、東京(江戸)遺跡から出土する漆器椀については、家紋を散らす文様が多くみられるが、こうした文様構成は浄法寺漆器の施文にみられないことが挙げられていた。

しかし、南部藩の古文書などで、浄法寺での漆器生産は確実に江戸時代には行われていたのである。

ただ、一般庶民が使うような雑器は江戸にはほとんど出荷されなかったと思われる。

これは生産地と消費地との距離の問題で、より江戸に近い会津漆器が有利だったと考えられる。
   
一方、南部箔椀と呼ばれる、金箔をあしらった浄法寺周辺で生産された漆器椀は少数ながら江戸遺跡から出土している。

このことから付加価値の高い箔椀は江戸に流通し、会津や大内の箔椀などに影響を与えたと思われる。

江戸時代の一大生産地であった日野町(滋賀県)の伝世品調査では、一部に浄法寺漆器(箔椀)が認められている。

箔椀は日野で生じた技術と一部ではいわれているが、日野は17世紀代までに生産が途絶していることから、これは浄法寺漆器、各地で流通した例と考えられる。

浄法寺の漆問屋の資料には「火野もの」といわれる椀が伝わたとの記録もあるので、近江商人や会津との交流があったことが推測される。


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