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「わんこそば」の原型になったと思われる風習が、子供の頃の記憶に残っている。
寒い土地柄でも収穫される蕎麦は、岩手の気候・風土に合い、古くからよく食べられていた。
岩手県北部では、田植え・稲刈り・婚礼・お祭りなど大勢の人が集まる宴会の最後にそばを振る舞う風習があった。
その際に、一家の主がお代わりの蕎麦を振る舞うのだが、椀ごと交換するのではなく、客人の椀に別の椀の蕎麦を入れる風習があった。
「おせんこせ」と言ったような記憶があるが、母親から聞いても知らないと言われた。
現在の盛岡わんこそばのような賑やかさはないが、遠慮する客人にいかにお代わりをさせるかで、子供心にもその駆け引きが面白かった。
たぶん、その風景が「わんこそば」だと勝手に思っている。
一説には、大きな釜を使っても、一度に全員分のそばを茹で上げることはできませんので、そばをお椀に小分けにして出し、その間に次のそばを茹で上げ、また小分けにして出すという形で振る舞う様が、「わんこそば」の原型だったとも言う。
全国的には、大食い大会のようなイベントで知られている
店によっての増減はあるものの、おおよそ「わんこそば」15杯が普通のかけそば1杯分にあたるそうだ。
給仕さんのかけ声と共に、お椀を重ねていく様は一興ですが、「もう食べられない」と思ったら、最後の1杯を食べ終えるタイミングで蓋を閉じるということをお忘れなく。
油断していると、お椀と蓋の隙間から「どんどん」「じゃんじゃん」そばが追加され、もう1杯、さらにもう1杯と、食べ続けることになるのでご注意を
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蕎麦
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俳人として知られる小林一茶の故郷は、信濃国水内郡柏原村で、黒姫山の麓の雪深い里である。
この地域は、良質のソバが生産されることでも有名で、十五才で江戸の奉公に出るまでの一茶は、秋にはあたり一面に咲く白いソバ畑を見て育ったと思われる。
50歳を過ぎてから故郷に戻り、1829年に65歳の生涯を終えている。
蕎麦を詠んだ句も残されている。
○「そば所と人はいふ也赤蜻蛉」
文化4年(1807)の句である。
蕎麦の花が咲きだすと実に多くの虫たちが飛来する。白い花々にはどの昆虫も似合っているが、なかでも白い花の高見に留まり、ときに低空に飛ぶ赤とんぼとの風景は格別である。
知り合いが、朱の漆器で蕎麦を盛りつけた様子を「赤とんぼ」のようだと言ったことがあったが、もしかしたら一茶の句を知っていたのかもしれない。
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江戸の蕎麦屋は、最初「生そば」でしたが、切れやすかったので、「蒸し蕎麦」と言うモノになったそうです。
生蕎麦の意味も、つなぎを使わない十割蕎麦を意味したようです。
しかし蒸し蕎麦は長続きせず、すぐに消えたとのことです。
蒸し蕎麦がどんなものだったか興味があります。
知っている方は教えてください。
蕎麦のツナギに小麦粉を使う方法は、寛永年間(1624〜1643年)に、奈良東大寺に来た朝鮮の僧侶元珍が伝えたとの説があります。
さて、蕎麦を語るときに、問題になるのが、「二八」の意味です。
ツナギに小麦粉を2割入れるので「二八蕎麦」か、或いは2×8=16で、蕎麦代が16文だったことから来ているのでしょうか。
蕎麦の代金が16文になったのは、江戸時代もかなり過ぎてからのようですし、「二八蕎麦」が文献に出だしたころは、16文では無かったようです。
「蕎麦と江戸文化 二八蕎麦の謎―」(笠井俊彌著・雄山閣出版)と言う本があります。
この本によれば、「二八うどん」というのが「二八蕎麦」と併記されています。
という事は、ツナギ説は成立しません。
笠井俊彌氏の説は「蕎麦二杯で十六文」が「二八」になったというものです。
なぜ二杯なのか?
江戸時代は、仏前・墓前に添えるものは一杯を嫌ったそうです。
なので二杯食べるのが基本だったそうです。
また、明らかな十、或いは二十などを省略して、一の位だけを言う習慣があったとのこと。
妙に納得しました。
しかし、「二八=十六文説」や「ツナギ説」が間違いではないのです。
江戸後期には「二八=十六文」で「二八そば」と看板を出す蕎麦屋がありました。
そんなことを考えながら、美味い蕎麦を食ベています。
熱い蕎麦は、ぜひ浄法寺漆器で食べてください。
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蕎麦湯を入れる湯桶は、蕎麦屋になくてはならない道具の一つである。
塗り物(本物かどうかは別にして)と陶器(土瓶)に大別されるが、陶器が普及するのは大正から昭和にかけての頃で、本来湯桶というのは塗り物だったという。
つまり土瓶は代用品だったわけだ。
外側は朱色か黒塗りだが、内側は朱塗りが一般的である。
塗り物の湯桶には円形の丸湯桶と角型の角湯桶とがある。
好みにもよるだろうが、色合いも温かく映える塗り物の湯桶から注いで飲む蕎麦湯の味は格別、という人も少なくない。
そばを食べ始めた後に蕎麦湯を飲む習慣が江戸で広まり始めたのは、寛延(1748〜51)頃の江戸時代中期以降とされるが、蕎麦屋が蕎麦湯いれとして湯桶を使い始めた年代ははっきりしていない。
蕎麦湯を飲むことについては書かれていても、蕎麦湯をどんな容器に入れて出したかについて記した資料は無いようである。
幕末の頃の風俗の記録である「守貞謾稿」を見ても、蕎麦屋のもりそば1式の道具として蒸籠、猪口。だし汁入れ、箸、薬味皿、盆と図入りで説明しているものの、どうしたことか湯桶と蕎麦湯については全く触れられていない。
道具類に関して、かなり細かく描写している同書がなぜ湯桶を取り上げなかったのか。
ちょっと解せないところではある。
湯桶はもともと上流階級の婦人が化粧用の湯次として用いていたもので、江戸時代には酒器にも使われていたという。
また茶懐石では最後に一口残しておいた飯椀のご飯を、香の物で湯漬けにするか。
このとき焦がし湯を入れて持ち出すのにも湯桶が転用されている。
いずれにしろ湯桶は、本来蕎麦湯専用の容器ではなかったようで、問題はいつ頃から蕎麦屋で転用されるようになったかである。
ところで、江戸時代までの湯桶は曲げ物、つまり丸型で、角湯桶が登場したのは明治になってからともいわれるが、以降は角型の湯桶が代表的な形になった。
この角湯桶はよく知られるように、口が正面についてなく、横のほうに突き出た格好になっている。
そこから、人が話しをしている最中に口出しすることを「蕎麦屋の湯桶」と呼ぶようになったという。
この諺が広まりだしたのは角湯桶が普及した明治以降のことということになる。
ちなみに湯桶を「ゆとう」と読む類いを「湯桶読み」という。
漢字二字で出来ている熟語の上の字を訓で読み、下の字を音で読むことである。
普通の熟語は音読み、訓読みだけで統一して読むものだが、湯桶の場合は「とうとう」とも「ゆおけ」とも読まない。
反対に上を訓読み、下を音読みする場合は「重箱読み」という。 |
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盛岡八幡宮前の初駒。
日替わりをいただきました。
蕎麦を漆器で提供するので、時々利用させていただいています。
これぐらい大きな器は、なかなか立派です。
次回はわんこそばに挑戦です。
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