ミッドウェー海戦研究所

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第2回に続き「はやぶさ」帰還記念特集を続けたいと思います。
今回は、前回で言及した固体ロケットと液体ロケットのお話です。
宇宙開発は悲劇と栄光のタペストリーである以上、悲劇を避けて語るわけにはいきません。本日は、第2回で登場したΜ‐Ⅴロケットのご先祖様を取り上げます。それは、下の飛行機です。↓
 
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上の写真は、スミソニアンに展示されている「桜花」です。
恐らく、この悲劇の航空機をご存知方も多いでしょうが、ご存じない方の為に下の動画を用意しました。「桜花」とは、良く理解できると思います。
 
 
 
なぜ、「桜花」Μ‐Ⅴロケットの先祖なのか?
それを知る上で貴重な証言を「ペンシルロケット物語 日本の宇宙開発の黎明期」で見つけました。その中で、日本海軍との関係と固体ロケット推進を選択をした理由を知る一文がありましたので、引用します。
 
 戦前から液体燃料ロケットの研究に従事していた三菱重工業KK長崎工場の平岡坦の所を糸川英夫が突然訪ねてきたのは、その直後のこと。宇宙開発を始めるに当たって三菱の協力が得られるかどうかの打診であった。平岡は書いている。「当時三菱重工業は三つの重工に分割されている時代で、宇宙開発の何たるやの認識はなかった。ソ連による初めての人工衛星がこの時より4年後に打ち上げられたという時期であるので、田舎の長崎はもちろん、東京の本社の人の感覚をもってしても理解できなかった。」

 糸川は再度三菱の本社に足を運んで話をしたが、「当時の社の気持ちとしては先生の卓見にどうしてもついて行けず、お断わりするようなことになった」(平岡)。
 
 上の一文で液体ロケットが選択されなかった理由の一端が明らかにされています。しかしそれだけではないと、私は思います。
 液体ロケットと聞いて、コロリョフグルシュコ(余談ですが、お隣の国の打ち上げ花火に使用されたRD-191エンジンの原型RD-170の開発を進めたのは、この人です)の燃料論争を想起された方も多いでしょう。
 要するに常温保存が出来る運用が楽な物質は、非常に危険でコロリョフは、この手法を猛烈に嫌いました。
 もし仮に糸川先生が、常温保存が出来る運用が楽な物質を使用した「秋水」の実績を知っていれば、なおさら液体燃料の開発は躊躇するでしょう。
 因みにそれを選択した国の末路が下の動画です。
 
 
 上の映像で撮影された中国の村の住人は、ヒドラジンを頭から被って溶けたと思われます。怖いですね〜。by淀川長治
 そうなると選択肢は一つしか有りません。固体火薬に全てを託します。
戸田は1954年の正月早々に虎の門に火薬協会を訪ねたところ、即座に「火薬のことなら旧海軍技術将校、戦後日本油脂(株)に行かれた村田博士しかありません」と断定された。

 村田は知多半島武豊の日本油脂の火薬工場に勤務していた。戸田は早速に連絡を取り、1954年2月6日に会う約束をとりつけた。(中略)

 2月6日朝6時30分に武豊駅に着き、少し歩くと日本油脂(株)武豊工場に到着したが、朝早すぎて正門は閉まっている。始業は8時半と書いてある。散歩して時間をつぶそうと工場の鉄条網づたいに山道を登っていった。2月初旬の肌寒い風に吹かれ、眼下にひろがる広大な工場の敷地を眺めながら、戸田は「これからロケットでどのような仕事をすることになるのだろう」と思いに耽るのだった。

 さて時間がきて日本油脂の本館に降りていき、来意を告げると、すでに村田は待っていてくれた。戸田は村田をひと目見て「こりゃ几帳面そうな人だな」と思ったという。短い挨拶の後、すぐにロケット開発への協力を依頼したところ、この海軍きっての火薬の研究者は直ちに「賛成です。全力を挙げてやりましょう」と応えてくれた。まさに打てば響くような反応だった。

 当日の話し合いでは、すぐに提供できる推薬は、近距離から敵の戦車や飛行機を攻撃するロケット弾用に用いたダブルベース(無煙火薬)で、直径9.5 mm、内径2 mmという中空円筒のマカロニ状のもの。長さが123 mmであった。戸田は、いかにも小さいなという感じを持ったが、とにかく帰って糸川と相談しようと決心し、手持ちのカバンに数十本入れて帰京した。

 東京に帰ってAVSAグループにこのマカロニを見せた。志の大きさに比べて、この「マカロニ」の小ささはどうだ。メンバーは言葉もなかった。糸川が沈黙を破った。

 「いいじゃないですか。費用も少なくて済むし、数多くの実験ができる。大きさにこだわっている場合ではないでしょう。すぐに実験を開始しましょう。」

 反論する人もいた。

 「でもこれじゃあ、どうやって観測機器を積むんですか。」

 反論を予想していたかのように糸川はたたみかけた。

 「高度100 km近くまで飛ばすものを作るには、さまざまなデータが必要です。データをとるには何度も飛ばさなければならない。毎回大きなものを作って飛ばせば、コストがかさみます。このちっぽけな固体燃料に合わせて小さなロケットを作るしか、当面打つ手はありませんよ。」

 糸川は即決した。こうして東京大学のロケット開発は、一本5000円の固体燃料を主体として歩むことになった。
 
 これで冒頭の「桜花」Μ‐Ⅴが、繋がりました。
 無論、当時の火薬開発の関係者がこの話を聞いたら、激怒するでしょう、 「そんなものを作るつもりは無かった!」と。
 では、最後に日本初の対空ロケットが適切に使用された写真をご覧下さい。
 
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 上の写真は、1944年10月25日エンガノ岬沖海戦で奮戦する戦艦「伊勢」の写真です。艦尾に非常に小さいですが12cm28連装噴進砲、即ち対空ロケットが装備されているのが、確認できます。
 12cm28連装噴進砲や多数の九六式25mm高角機銃の対空兵装は、極めて有効で「伊勢」の僚艦「日向」の戦死者は、僅か1名でした。
 この事実を知れば、当時のロケット生産に携わった人々の胸のつかえも少しは晴れるでしょう。
 
 その後、ペンシルロケットは、新中央工業でテストを繰り返します。そこは、きしくも戦闘機「隼」に搭載されたホ103を生産した会社の敷地でした。
 次回は、一式戦闘機「隼」と軍人加藤建夫が率いた加藤隼戦闘隊を取り上げます。
 
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閉じる コメント(6)

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転載させて下さい。

2010/6/17(木) 午前 1:45 あまのじゃく

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転載させていただきました。

感謝

2010/6/17(木) 午前 10:38 うまやど

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bostonさん、こんにちは!

>転載させて下さい。

どうぞ、持っていってください!
出来れば、第1回から順番に転載をお願いします!

2010/6/17(木) 午後 1:56 [ 小窪兼新 ]

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こんばんは

2が転載できません・・
お願いします<(_ _)>

2010/6/17(木) 午後 10:00 あまのじゃく

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>2が転載できません・・

「2」は、改装工事を行う予定ですので、暫定的に「3」を持っていってください!

2010/6/23(水) 午後 9:41 [ 小窪兼新 ]

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うまやどさん、こんばんは!

>感謝

いえ、こちらこそありがとうございます!

2010/6/23(水) 午後 9:42 [ 小窪兼新 ]


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