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自衛隊機開発秘話FSX編
FS-X(F-2)支援戦闘機の開発と教訓
2011.05.31(Tue)
(2)からの続き
教訓 さて、FS-Xという日米共同開発を経験して感じるこのような形の日米共同開発は、二度としてほしくはないということです。
御案内の通り、共同開発というのは、将来両国の空軍が運用するであろう航空機を、互いに開発経費を持ち寄って両国の技術者がともに開発作業をするというものですが、FS-Xの場合はそうではありませんで、運用するのは航空自衛隊のみで、開発経費はすべて日本負担ですから、正確な意味での共同開発ではありません。
今から振り返ってみると、プライムの三菱重工もそうであったのでしょうが、官側もFS-X開発室を開発官のもとに設けて開発作業に努力はしましたが、良い戦闘機を作り上げるために純粋に技術的な検討をする時間よりも、対米交渉のための準備に多大の労力を取られたというのが現実でした。
正直に申し上げて、飛行試験で生じたような問題を予見できなかったばかりか、コストコントロールなどはとても推進できるような状態ではありませんでした。
平成4(1992)年 Richard Armitage 国防次官補が国防総省を退官後、国務副長官に就任する前に、インタビューに答えて次のような発言をしています。
「米国がFS-Xの国内開発に反対したのは、日本が防衛に十分な金をかけていないのに、戦闘機の開発に巨額の資金を投入するのは有益ではないと判断したからである」
「航空宇宙・防衛分野は米国が世界のリーダーであり、日本が自前の産業として育てようとするのは友好的な態度とは言えない」
「(1)米国がすでに作ったものがあれば、それを買う。(2)日本独自の必要があるものについては、日本の企業が開発し、それを米国にも技術供与する。(3)新しい分野は日米共同で開発する」
日本が航空宇宙産業を自前の産業として育てようとするのは「友好的態度」とは言えないとは随分な言い方ですが、FS-X開発から随分時間は経っているとはいえ、いまだに米国人の心の底にはこのような考えが存在していると考えて、我々航空工業関係者は対応せねばならないのではないかと思っております。
また、トピックスの最後のところで御説明しました機体およびレーダー関係の不具合とその対応ですが、試作までを担当した開発の責任者としては、後輩諸君に誠に申し訳ないことをしたと思って深く反省しています。
我々が基本設計から試作までにもっと技術的に詰めておけば、このような問題は生じなかったであろうとまでは申しませんが、もっと技術的に詰めておくべきであったのは事実です。
特にレーダーについては、運用を想定した実環境下での技術的要求事項を明確にして製造会社に要求する必要がありましたし、製造会社はそれを踏まえた設計、試験、評価をすべきであったということも大きい反省点の1つです。
いずれにしても、この貴重な経験を将来の「戦闘機用レーダー」なり「アビオ二クス」の研究開発に是非とも生かしてもらいたいものと強く念願するものです。
2.結び
まとめの言葉を述べさせていただきたいと思います。
平成2(1990)年12月14日の次期支援戦闘機FS-X設計(その1)の計画審査時の技術開発官(航空機担当)の挨拶として、次のように申し述べました。
「開発に必要なものは人とカネと時間であるが、中でも大切なものは人である。人の技術的能力ももちろん重要であろうが、何にもまして必要なことは良い戦闘機を作り上げるのだという情熱であろうと思う」
〜略〜
「部品1点1点にわたるまで心のこもった暖かいものにして、システムとして完成した時には、まさに血の通った傑作機にしたいと強く念願している」
随分と非科学的な話ではありますが、戦前の「ゼロ戦」から今日の「F-2」に至るまで、技術者が情熱を傾けて、心血を注いだものは必ず「名機」になると私は確信しています。
精神論だけではどうしようもありませんが、次期輸送機の開発に伴うこの困難はどうしても乗り越えねばなりません。そうでなければ、明日の日本の航空工業はその存立さえ危ぶまれることとなりましょう。
特に「老人の繰り言」になるかもしれませんが、私に言わせると、いまだに官民の一体感が得られていなくて、特に官側の「踏み込み」と言いますか、リーダーシップ不足が垣間見られてなりません。
本当の「最後」に、官民の関係者の皆様に、故守屋富次郎防衛庁技術研究本部長が、昭和38(1963)年1月4日の年頭の辞で「技術者の心構え」を述べていますが、それをここに御示ししてかみしめたいと思います。
これは防衛庁の技官や技術幹部に対して述べられた言葉ですが、官民を問わず技術者に共通の事柄だと思いますので掲げさせていただきます。
1. 使命を自覚すること
2. 努力を惜しまぬこと 3. 仕事に責任を持つ 4. 最高の権威者たれ 5. 自ら手を下すこと 6. 常にテーマを持て 7. 不満を克服せよ 8. 基礎学問を忘れるな 9. 孤立しないこと 10. 人間的であること まさに名言であろうと思います。 ↓記事を読み終わりましたら、こちらにもクリックをお願いします。m(_ _)m
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航空自衛隊
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自衛隊機開発秘話FSX編
FS-X(F-2)支援戦闘機の開発と教訓
2011.05.31(Tue)
(1)からの続き
トピックス4 以上主としてTSCで問題になったことをトピックスとして取り上げてきましたが、そのほかに大きい事象としては、平成3(1991)年から平成4(1992)年にかけての日本航空電子工業の武器不正輸出事件があります。
イランへのミサイル部品の不正輸出が明らかとなり制裁措置が取られ、慣性基準装置の製造が危ぶまれたので、平成3(1991)年11月14日TSCの帰途ワシントンを訪れ、国防総省カール・フォード次官補代理に善処方を申し入れたことがありました。
また、平成5(1993)年3月1日付でGDがロッキード社に買収され、GDFWがLMFWとなったこともありました。当時のロッキード社会長ほかの努力もあり、買収はFS-X開発に影響することなく順調に行われました。
最後にマスコミに関わるトピックスですが、平成5(1993)年2月26日エグリン空軍基地での#8TSCの帰路、GDFW(後のLMFW)に立ち寄りました。
2社が記者会見を希望しているというので、本国の了解を取る余裕はなかったが、地元の理解を深めFS-Xプログラムへの味方を増やすことも大切であると考えて受けることとしました。
そして日米関係の重要性とFS-Xプログラムが日米防衛技術協力の Leading Program であることを述べましたが、取材に来たフォートワース・スター・テレグラム社とダラス・モーニング・ニュース社では報道内容が全く異なっており、翌日にはワシントンのTSC米国側委員長から電話で釈明を求められたことがありました。
フォートワース・スター・テレグラム社は“Jockeying for Technology”(策略を用いて技術を手にいれる)“Japan may try to boost share FS-X fighter components”(日本はFS-Xの装備品シェアを増加させようとしている)と報道しています。
一方、ダラス・モーニング・ニュースは私が話したことにほぼ忠実に、“FS-X Fighter work on schedule, Japan Officials says”(日本の高官はFS-Xは計画通り進行中と言及)と報道しています。
このように、洋の東西を問わずマスコミというのは都合のいいことしか報道しません。
この例に見られるように、自分の言いたいことをあらかじめ書いておいて、記者会見はやったという事実だけを利用して、自分に都合のいいところだけを「つまみ食い」するというのがマスコミの常套手段です。現役の皆様におかれましては、くれぐれも御用心なさることを切望します。
トピックス5 次のトピックスはエンジン選定です。エンジン選定は平成2(1990)年6月20日P&W社、GE社に対して提案要求を行い、同年8月22日提案書を受領して評価作業に入り、同年12月21日GE社製のF110-GE-129を採用することを公表しました。
P&W社がF100-220エンジンをベースとするF100-229を、GE社がF110-100エンジンをベースとするF110-129を提案してきましたが、ベースエンジンは両方とも米空軍のF-16Cに採用されており、いずれを採用してもおかしくはない状況でした。
しかし航空自衛隊にとっては、FS-XはF-104以来の単発機であり、特に安全性を重視する必要があったことから、より熟成度の高いエンジンを採用することとしました。
当時F100-220搭載のF-16では約5万時間に1件、F110-100搭載のF-16では約37万時間に4件の事故が発生しており、単位時間当たりの事故発生件数はGEの方が少ないこととGEの方が鳥吸い込み時の推力低下が小さいこと(重さ1.5ポンドの鳥でGEは7.8%のロス、P&Wは23%のロス)、さらにはGEのF110は-100と-129の間に約80%の共通部品があり、P&WのF100は-200と-229の間の共通率は34%と新規エンジンに近いものであることなどから、GEのF110-129の方がより熟成度が高く比較的安全性が高いと判断しました。
なお、コストについてはLCCベースでGEの方がP&Wより10%程度高かったのですが、安全性は何物にも代えがたいことからGE製のエンジンを採用しました。FS-Xでは試験および運用段階でエンジンに起因するトラブルはあまりないようですので、選定は誤りではなかったと安堵しています。
トピックス6 最後のトピックスとして、技術/実用試験段階および運用段階で生じた各種不具合とその対応について述べてみたいと思います。
これらの状況は現役の皆様方の方が詳しいのでしょうが、私としては皆様方に教訓としてぜひ記憶にとどめておいていただきたいものですから、事実関係としては、若干正鵠を欠くところがあるかもしれませんが、御容赦願いたいと存じます。
機体関係では、主翼複合材構造の破壊問題、横転性能不足と垂直尾翼、後胴のトルク過大の問題等が生じ、技術/実用試験を3回にわたって延長することとなり、最終的に技術/実用試験は平成12(2000)年6月末までとなったことは御案内の通りです。
これらの機体関係の改善対策はECPとして採用され、C-1契約以降の量産機に適用されることとなったそうです。
レーダー関係では、世界初のアクティブ・フェーズド・アレイ・レーダーを採用したことで世間の注目を集めましたが、実情は当時の担当者は大変な苦労を強いられたようです。
技術的に合格と言っても、実用に供し得なければ合格とはならないのが当然ですが、製造会社の三菱電機も実情を認識せず、三菱重工に至っては官給品でもあることから機体関係の不具合ほど全力を投入した形跡は見られないのです。
量産機が平成12(2000)年度三沢基地に配備されて以来、空幕は実行予算で受信器と信号処理器の間のデータを記録できるデータレコーダーを購入して定量的なデータを把握するとともに、「技術的追認試験」としてCPUの高速化、OFPの改修等を行い、レーダーの性能・機能の改善を図ったようです。
さらに、空幕は平成15(2003)年度から「F-2へのAAM-4搭載事業」の開発要求を技本に対して行い、レーダー性能はさらなる改善向上が見込まれる予定であり、平成23(2011)年度予算で40機分のレーダー改修予算を要求中であり、いずれレーダーはAPG-1からAPG-2に換装されるとのことです。 JBpress.ismedia.jpより引用
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自衛隊機開発秘話FSX編
FS-X(F-2)支援戦闘機の開発と教訓
2011.05.31(Tue)
1. FS-X(F-2)支援戦闘機の開発上の主要トピックスと教訓
F-2支援戦闘機(ウィキペディア)
「昭和56年度中期業務見積」で、F-1支援戦闘機の後継機としてFS-X24機の装備が記載されることになりました。
昭和60(1985)年1月29日航空幕僚長からのFS-X国産開発の可否に関する検討依頼に対して、同年9月17日技術研究本部長は「エンジンを除いて、約10年間で国内開発可能」と回答し、FS-Xは「国内開発」「現有機の転用」「外国機の導入」の3つの選択肢について検討を開始することとなりました。
その後、米国からの「国内開発」反対の圧力が強まり、防衛庁は昭和60(1985)年12月26日「国内開発」を「開発」と改め、「共同開発」に含みを持たせました。
その後の日米間の調整等を経て昭和62(1987)年10月2日、栗原防衛庁長官とワインバーガー米国防長官の間で「FS-Xの日米共同開発」が合意され、昭和63(1988)年11月29日には両国政府間の交換公文および了解事項覚書(MOU)が調印されました。
しかし米国議会の了承が得られず、最終的にF-16Cをベースとした改造開発の着手は平成元年(1989年)となりました。
平成元年(1989年)4月28日のベーカー米国務長官と松永駐米大使間のクラリフィケーションで、量産段階においても米国側にワークシェアの40%を保証すること、フライト・コントロール・システムのソースコードは日本側に開示しないこと、日本側のFS-X関連技術に米国側がアクセスできること等が合意されました。
その後日本国内では平成2(1990)年度予算での「試作(その1)」予算の要求が行われ、米国ではFS-X開発に伴う対日技術供与を巡って米大統領と米議会の駆け引きがあり、平成2(1990)年3月30日三菱重工大江工場に設計チームFSET(Fighter Support Engineering Team)が編成され、やっと本格的に開発作業に入りました。
この開発は、開発完了時期が平成10(1998)年度ではなくて、実際は平成12(2000)年6月までに延長されています。
日米間の了解覚書事項(MOU)には「FS-Xの開発を円滑に推進するため、日米間における所要の調整、協議を実施することを目的として、技術運営委員会(TSC: Technical Steering Committee)を設置する」とあり、当該委員会の日本側委員長に技術開発官(航空機担当)、米国側委員長に米空軍省調達担当次官補(空軍少将)が指定されました。
技術運営委員会は毎年日本で1回、米国で1回開催し、必要に応じて特別委員会をハワイで開催することとしました。この間の事情は、論創社発行、大月信次、本田優著『日米FSX戦争』と新潮社発行、手嶋龍一著『ニッポンFSXを撃て』に詳しく記述されています。
以後、設計から試作に進み、平成4(1992)年5月13日FS-X実大模型審査を行い、同年6月19日実大模型を日米の報道陣に公開しました。
また、同年10月22日米商務省次官代行 Ms Joan Mckentee、同年11月27日駐日米大使のマイケル・アマコストが三菱重工小牧南工場を訪問して、FS-X実大模型を見学しています。
平成7(1995)年1月12日FS-X試作1号機が三菱重工小牧南工場でロールアウトし、同年10月7日初飛行しました。
平成8(1996)年3月22日試作1号機の引き渡しが行われ、以後同年4月26日試作2号機が、8月9日試作3号機が、9月20日試作4号機が納入され、試作機4機で技術/実用試験が実施されることとなりました。
技術/実用試験では、炭素系複合材構造の主翼の一部に強度不足が見られたり、垂直尾翼にかかる荷重が過大であったり、レーダー探知距離が短かったりロックオンが外れるという問題などが起こり、「欠陥機」扱いされたこともあったようです。
しかし、逐次改修して効果を確認して、平成12(2000)年6月末で技術/実用試験を終了し、同年9月12日長官による部隊使用承認が得られ、同年9月25日には量産初号機が納入されました。
当初量産機は130機製造の予定でしたが、最終的に平成18(2006)年12月24日の安全保障会議で総取得機数を94機とすることとし、試作機4機を含め総製造機数は98機となりました。
現在も納入が続いているようですが、平成23(2011)年度には製造が終了することになっていると思います。
この間いろいろな評価がありましたが、残念なことに平成19(2007)年10月31日1機のF-2をIRAN後の社内飛行で航空事故のために失うこととなりました。
さらには本年(2011年)3月11日の東日本大震災で、松島基地所属の18機のF-2が津波のため水没したと聞いています。
FS-Xにつきましては技術/実用試験中そして運用段階の初期に各種の難問が発生して、現在に至るまでにはその後の官民の担当者の方々には筆舌に尽くしがたい御苦労があったことと推察しています。
ここでは主として平成2(1990)年3月から平成5(1993)年3月の間、私が技術開発官(航空機担当)であった期間を中心にトピックスを5点と難問にかかるトピックスを1点、そして教訓めいたことを述べさせていただきたいと思います。
トピックス1 TSCでは毎年、何らかの問題が提起され議論が絶えませんでした。
平成2(1990)年8月1日の#3TSC(東京)、同年10月15日の#1Special TSC(ハワイ)、平成3(1991)年1月29日の#4TSC(ヒル)で問題となったのは、開発総経費でした。
いわゆるクラリフィケーションで平成元年(1989年)松永駐米大使からベーカー国務長官へ書簡が発せられており、その中で米国側のワークシェアは総生産額の約40%になろうとあり、MOUにも規定されましたが、肝心の開発総経費が規定されていなかったのです。
従って米国側としては開発総経費が大きいほど40%の総額は増えるわけですし、そもそも米国の開発は日本の場合と異なって「絨毯爆撃方式」ですから、経費がかさむのは当然です。
昭和60(1985)年度固定価格で技術援助方式、つまり米国GD社からF-16の図面を購入して若干のGD技術者が駐在してその援助を受けつつ開発を進めるというものでしたが、その場合の見積もりが約1650億円でした。
しかしGD社は、技術者が日本に駐在するのみならず、米国FWで技術者がバックアップ体制を取り、さらには製造ラインを展開するという開発分担方式を取るということで約2510億円とし、これを年度展開して約3320億円になるという説明をしました。
しかし、先に述べた理由もあり、彼らの常識では戦闘機の開発は、口には出しませんでしたが1兆円規模というのが常識で、当方の説明は全く理解しようとはしませんし、まして合意には至りませんでした。
最後は、日本の開発責任者がやると言っているのだからということで押し切りました。この問題では、当時の装備局長や航空機課長の努力が顕著でありまして、航空機課長はのちの防衛事務次官の守屋武昌氏でした。
この件については後日談がありまして、GD社は技術者の生活コスト、つまり日本に駐在する技術者の支払う家賃は日本の家主に入るのだから日本のシェアだと言うのですが、これを認めると際限がないので、GD社に支払った段階で米国のシェアということで納得させました。
また技術/実用試験段階での製造会社の支援費用(Contractor's Support Fee)も40%だと言うので、これは開発試験費で予算項目が異なるため約束はできないので、記録を取ることにしようということで折り合いをつけました。
トピックス2 次に問題となったのは、装備品のライセンス生産の件です。
主契約会社三菱重工は平成2(1990)年9月頃から装備品選定作業に入りましたが、その頃私のところには非公式に「米国は装備品のライセンス生産は認めない」ようだという情報が入ってきていました。
案の定、平成3(1991)年7月18日の#5TSC(三沢)で、米国側は「開発段階での装備品のベンダーによるライセンス生産は一切認められない」と通告してきました。
当方は「技術/実用試験の飛行試験の段階で装備品に不具合が発生した場合にはどうするのか、米国企業の技術者が到着するまで飛行試験はお休みをするのか」と食い下がりました。
すると少しは理解したのでしょうか。アイテムごとに審査するということで、平成3(1991)年11月12日の#2Special TSC(ハワイ)でアイテムごとの審議を行い、最終的に96品目のライセンス生産を要求したのですが、結果は25品目のライセンス生産を許可するというものであり、平成4(1992)年2月25日の#6TSC(ミラマー)で回答がありました。
トピックス3 最後は平成4(1992)年7月21日の#7TSC(築城)および平成5(1993)年2月23日の#8TSC(エグリン)で議論となったのですが、派生技術(Derived Technology)か非派生技術(Non-Derived Technology)かの問題でした。
これは後々まで尾を引いて、最終的にはDSAA(Defense Security Assistance Agency)と装備局の折衝に委ねられたと聞いています。
派生技術/非派生技術の区分は、米国の技術を「本質的に」使用しているか否かによって決まり、派生技術と認定さればフローバックの義務が生じることとなり、FS-X以外に使用するとなると米国政府の同意が必要となるなどの面倒なことになるので、日本側としてはできるだけ非派生技術として認定されることが望まれ、米国側としてはその逆となります。
当初、米側は非派生技術はMOUに記載してある日本独自の技術、レーダー、ミッションコンピューター、慣性基準装置、電子戦機器の4アイテムのみと考えていたようであり、非派生技術であるとの挙証責任は日本にあり、日本側は相当苦労して最終的に4アイテム以外の7アイテムが非派生技術と認定されたそうです。 JBpress.ismedia.jpより引用
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自衛隊機開発秘話 練習機編
T-2高等練習機からT4中等練習機までの開発と教訓
2011.05.30(Mon)
(1)からの続き
4 T-4中等練習機の開発上のトピックスと教訓
T-4中等練習機(MTX)は昭和56(1981)年4月15日、開発担当企業選定のための提案要求書(RFP)を提示して、5月29日三菱重工業、川崎重工業、富士重工業の3社から提案書を受領、審査のうえ、9月4日川崎重工が主担当企業に、三菱重工、富士重工が協力企業として選定されました。
T-4中等練習機(2006年小松基地、
ブルーインパルス仕様、ウィキペディア)
10月27日、川崎重工岐阜工場内に設計チームMTET(Middle Trainer Engineering Team)が編成され基本設計作業に入りました。以後細部設計、試作と順調に進み、昭和60(1985)年7月29日には試作1号機が初飛行しました。
なお、エンジンは昭和57(1982)年10月29日、機体の基本設計の成果として技本が研究中であった小型ターボファンエンジンXF3-30が選定されました。
昭和60(1985)年12月から昭和63(1988年)3月まで技術/実用試験が行われ、昭和63(1988)年7月28日長官の部隊使用承認が得られ、昭和63(1988)年から平成15(2003)年までに量産機が逐次納入され、試作機を含め212機が製造されました。
飛行教育のみならず指揮連絡用として航空自衛隊各基地に配備され、平成7(1995)年からはT-2に代わってブルーインパルス機としても運用されています。量産212機中4機を航空事故で失いましたが、事故率は低く「名機」と言っても過言ではないと思っています。
トピックス1 旧帝国陸海軍と異なって技本も各自衛隊も「工廠」を持たず、研究開発は民間企業の技術力に依存することとして今日に至っています。従って戦前の技術士官と異なって、戦後育ちの我々技術幹部は航空機の設計経験はありません。
学校教育は別として、実際の機体の強度計算をしたこともなければ、図面を引いたこともありません。このような技術幹部が本当に開発担当企業の選定などできるのかという不安を持ったのは、正直私だけではないでしょう。
しかし、技本、調本(当時、現在の装備施設本部)、自衛隊の協力を得て堤案書をチームで精査すれば、おのずと見えてくると考えて選定作業に入りました。
実際、三菱重工、川崎重工、富士重工3社の提案がありましたので、これらの提案を精査していきますと、おのずと問題点がクローズアップされてきました。
ただし、ここで注意しなければならないのは、開発担当企業として、この開発を完遂し得る技術力、生産力があるかどうかを評価するのであって、堤案された機体計画に目を奪われて優劣を議論しても意味はありません。
提案書の企業側による説明会、現地調査等を経て評価チームによる評価会議に入りますが、説明会に先立って評価チームを質問側と回答側に分けて質問/回答のシミュレーションを行い、回答に窮するような問題を選んで説明会に臨む方策を取るのが有効でした。
「新中等練習機(MTX)開発担当企業の選定について」という資料には、「開発に当たって技術的リスクが少ない三菱重工、川崎重工のうち、価格面で優れ、将来の産業政策とも合致する川崎重工の提案を採用することとし、川崎重工をMTX開発のプライとする。
なお、川崎重工の小型ジェット機開発経験不足については、サブコントラクターとして三菱重工、富士重工を全面的に協力させるとともに、官側の開発体制を一層強化する」とされ、提出された3社の技術者の経験等を勘案して設計チームの構成(案)を考え、官側の体制も整備したのであります。
各社とも自社の提案が最高のものであるとの自負がありますので、提案書の機体計画を一度白紙にリセットして基本設計を始めるというのは、なかなか難しい作業でありました。
私は3班長として三宿で予算要求等の作業を行いつつ、1週間おきに岐阜の川崎重工に通い、技術監督官の名のもとに設計会議にも参加しました。
最初の1ないし2カ月の設計会議は、特にサブコントラクターから来ている技術者はなかなか本音を言わず、夜にそれらの本音を聞き出すのが技術監督官の大きい仕事の1つでした。このようにして官民一体となり以後の開発を進めていったのです。
トピックス2 エンジンは昭和57(1982)年10月29日、XF3-30エンジンを搭載エンジンとして選定しました。
選定のためにはMIL-E-5007Dに基づく予備飛行定格試験PFRT(Preliminary Flight Rating Test)のデータを検討する必要があったので、試験項目の1つである高空性能試験(予備試験)を米空軍システムズコマンドのAEDC(Arnold Engineering Development Center)で、昭和57(1982)年6月から10月にかけて実施することとしました。
諸準備が終わり、同年8月16日に運転を開始するや否や、エンジンの全振動計が振り切れるほどの烈しい振動に見舞われ、運転を中止せざるを得ないこととなりました。
米空軍側はエンジンが爆発でもして施設に損傷を与えても困るので、「持って帰れ」と言うし、当時ファクス回線を引いていなかったので、テネシー州タラホマからニューヨークのIHI事務所までデータを運んで、そこから東京田無市(現西東京市)のIHIまで送信して、昼夜を分かたず検討しました。
その結果、エンジン本体に起因する振動ではなくて、排気ダクトとの共振による「音響振動」と判断して、排気ダクト内の面積調整のためのデチュナーを1メートル前に出して試験を再開するよう指示し、米空軍を説得して試験を開始したところ振動は収まり、日本側は面目を保つことができました。
米空軍は日本側の技術力を見直したのか、このためもあって昭和58(1983)年2月第2次高空性能試験を実施し、私も立会いしたのですが、米空軍の秘密保全は極端に厳しくなり、トイレに行くにもエスコートがつくようになりました。
トピックス3 次は、T-4に採用すべき新技術はどんなものにすべきかという設計上の問題です。当時すでにグラスコックピットが新鋭機には採用されており、T-4にも採用すべきかどうか検討しました。
中等練習機としては、前段階の練習機(当時T-3)、後ろ段階の戦闘機(当時F-4EJ)が従来方式の計器配列であるため、時期尚早ということで採用を見送りました。その他のRLG方式のAHRS、OBOGS、カーボンブレーキ、デジタル・データ・バス・システム、CFRP、キャノピー破砕装置等はテストパイロットの強い後押しもあり、積極的に採用することにしました。
トピックス4 次のトピックスはコストコントロール活動です。小型ターボファンエンジンの研究試作はXT-4の開発着手の1年前から始まっており、コストコントロール活動もエンジンが先陣を切って開始されました。
昭和55(1980)年度固定価格、5年間520台(搭載2台/1機×200機、補用率30% 120台)製造と仮定して目標平均単価を1.3億円と設定しました。
ここに示したように、DTC(Design To Cost)活動を行い、812件のコスト低減案を採用して最終的に1.29憶円と目標を達成しました。
機体は昭和56(1981)年度から開発が開始されたのですが、エンジンを含めて、昭和55(1980)年度固定価格、5年間200機製造と仮定し目標平均単価約13億円と設定しました。
エンジンが2台2.6億円ですので、機体は9.5億円を目標とし合計12.1億円として、DTC活動を行い72件のトレ―ドスタディを行い、ここに示したように9.425億円と目標を達成したのです。
これは設計チームの努力もさることながら、資材調達関係者、さらにはベンダー企業の関係者の皆様の努力の結晶であり、今さらながら当時の関係者のご努力に改めて感謝している次第です。
昭和61(1986)年度には量産機12機の予算要求を行ったのですが、予算単価24.9億円は昭和55(1980)年度200機平均に引き直すと12.6億円となり、目標の13億円以下を達成しました。
教訓 開発担当企業の選定につきましては、今もそうであると信じていますが、決していい加減なことをやっているわけではなく、厳正に行っていることを御理解いただけたと思います。
ただプライム、サブコン方式の設計チームの運営と分担製造はかなり難しく、官側が積極的に入り込んで、設計、製造作業をリードしていく必要があると思います。
現在進行中の大型機の試作作業を外野席から見ていると、官側の開発に対する思い入れというか踏み込みが幾分不足しているのではないかと思われます。
形式上は予算要求と仕様書の作成、技術審査が公式の技本の業務であり、契約に基づいて乙が作業しているのであって甲はそれを監督し見守るだけでよいということも言えるかもしれませんが、「航空機は生き物」であり開発は本当の意味で官民一体とならなければスムーズには進まないもので、官側関係者の再考をお願いしたいと思います。
コストコントロール活動については、やはり官民が一致して強い意志を持ち、設計、資材調達、製造部門はもちろんのこと、ベンダーにいたるまで「心を一つにして」進めることが必要です。
F3とT-4開発時にも「コストコントロール活動を行って製造価格を低減させた場合の報償は何か」つまりインセンティブは何かという議論がありました。
しかし、当時報奨金を支払うという制度はなかったので「コストコントロールに成功すれば量産は200機を超えるであろうし、失敗すれば100機にも満たないであろう。これがインセンティブである」と答え、結果としてその通りになったことは誠に喜ばしい限りであったと思っています。
(後編につづく) JBpress.ismedia.jpより引用
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自衛隊機開発秘話 練習機編
T-2高等練習機からT4中等練習機までの開発と教訓
2011.05.30(Mon)
1 はじめに
米空軍のF4戦闘機(1987年、ウィキペディア)
ご紹介するのは、内容的にはそのテストパイロットの卵たちに対して準備した私の経験談ですが、日本のビジネスマンの皆様に何かの参考になればと思います。
飛実団のテストパイロットがこれまで開発に携わった装備品は、昭和40年代にはC1輸送機、F4戦闘機、T2超音速高等練習機。
昭和50年代はF1支援戦闘機、T3初等練習機、F15戦闘機。
昭和60年代はT4練習機、F4改戦闘機、平成以降はF2戦闘機、E767早期警戒管制機、KC767空中給油・輸送機、XC2次期輸送機とその関連装備品などを開発してきました。
今後、XC2の技術・実用試験、F2戦闘機の技術的追認、BMD総合検証のほか、将来的にはUH60J救難ヘリ後継機やFXの導入、先進技術実証機による研究、さらに宇宙分野の研究開発での活躍も期待されています。
航空自衛隊には33年ほど奉職いたしましたが、この間、約26年は防衛用航空機の研究開発に従事しました。
このような経験の中から今回は「 T-2高等練習機からT-4中等練習機の開発上の主要トピックスと教訓」と「FS-X(F-2)支援戦闘機の開発上の主要トピックスと教訓」を2回に分けて皆様に紹介していきたいと思います。
2 T-2高等練習機の開発上の主要トピックスと教訓
T-2超音速高等練習機
(最終型、岩国基地で撮影、ウィキペディア)
三菱重工業を中心に設計チームASTET(Advanced Supersonic Trainer Engineering Team)が編成されて基本設計に着手しました。
昭和46(1971)年7月20日に試作1号機が初飛行し、以後試作機2機、実用試験機2機で技術的試験/実用試験が昭和49(1974)年まで行われました。
昭和49(1974)年7月29日には長官の部隊使用承認を得て量産機が松島基地を中心に配備され、昭和63(1988年)年最終号機(#196)が納入され、飛行教育のみならずブルーインパルス機、飛行教導隊機としても運用されました。量産機96機中9機を航空事故(1機は地上事故)で失い、平成18(2006)年全機が退役しました。
トピックス1 第4次防衛力整備計画(昭和47〜51年)の執行凍結、いわゆる4次防凍結問題が昭和47(1972)年にありました。
同年10月3日、大蔵省防衛担当主計官から、ドル防衛のため「T-2、FS-T2改(後のF-1支援戦闘機)の開発はやめて、T-38またはF-5BとF-5Eを買え」との要求がありました。
10月9日までその議論は継続したものの、最終的には内閣官房副長官主催の会議で「開発継続」と決まりました。
トピックス2 昭和46(1971)年10月17日、試作1号機の14回目の社内飛行試験で右エンジン(RRTM社製「アドア・エンジン」)の加速試験を行ったところ、サージを発生し、振動を生じたのでエンジンをカットオフして片発で名古屋飛行場に緊急着陸しました。
点検の結果、右エンジンのタービンブレードはほぼ全数飛散していました。
トピックス3 昭和48(1973)年6月11日、試作1号機の技術的/実用試験中、高度7500フィート、速度マッハ0.95で「縦短周期運動」の試験中、パイロットの意図に反して突然「頭上げ。頭下げ」の激しい振動を生じ、エンジンは停止しました。
当課程卒業生であるパイロットは、沈着冷静にエンジンを再始動して、10G、−5Gで傷ついた機体をいたわりつつ、浜松基地に緊急着陸しました。
随伴していたF-104Jのパイロットの言によると「突然T-2の腹が見えたと思ったら、すぐ次は翼の上面が見えた」と言うのだから、かなり烈しい振動であったことが分かります。
これはXT-2のPIO(Pilot Induced Oscillation)(現在は Pilot Involved Oscillation または Aircraft Pilot Coupling という)現象であり、Q-Feel、 Bob Weightの改修などで解決しました。
教訓 当時はさほど深刻には考えていませんでしたが、「航空宇宙産業は米国の専売特許であって日本などの出る幕はない」というのが当時の米国の基本的な考え方でありました。これは現在に至るまで脈々と続いている基本姿勢であろうと思われます。
エンジンについては初期のアフターバーナー付きターボファンエンジンであって、トラブルは付き物とも言える状態でしたので致し方ないという一面もありましたが、何分にもオーバーホール間隔(TBO)が短く、150フライトアワーまたは250トータルアワーだったので、4機12台のエンジンでは計画を推進するには不十分でした。
できるだけ安定したエンジンで十分な補用エンジン数を確保することが、航空機の開発では極めて重要です。
PIOにつきましては、次に述べるT-2CCV機で「FBWの横PIO」を経験することになりました。
その他の機体の要改修項目は実用試験を通じて200項目にも及んだのですが、これをどのように量産機の調達仕様書に取り入れるかが「知恵の出しどころ」でして、批判はありましたが量産機の仕様書で初めて「技術審査」を取り入れ、項目ごとに逐一審査して仕様を確定していきました。
3 T-2CCV研究機の研究上の主要トピックスと教訓
技本では「将来戦闘機の要素技術の研究」の一環として「T-2運動能力向上機(いわゆるCCV研究機)(Control Configured Vehicle)の研究」を昭和54(1979)年から開始しました。
T-2試作3号機の操縦システムを3重のFBW(Fly By Wire)とするもので、CA(Control Augmentation)、RSS(Relaxed Static Stability)、MLC(Maneuver Load Control)、DLC(Direct Lift Control)、DSC(Direct Side force Control)の各モードを飛行で実現しようとするものでした。
昭和58(1983)年4月8日、三菱重工業小牧南工場で実機の報道陣への公開を行い、同年8月9日初飛行しました。
社内飛行試験を終えて昭和59(1984)年技本岐阜試験場が領収して、航空実験団の支援を得て昭和62(1987)年まで飛行試験を行いました。
トピックス 昭和58(1983)年10月14日、社内飛行試験の一環として、水平カナードと垂直カナードを装着して初めてのFBWモードでの試験で名古屋空港を離陸しました。離陸後約4秒で機体は突風を受けて左に傾斜しました。
パイロットは左傾斜を修正するため、わずかに右に操舵しましたが機体は反応せず、やや遅れて右に大きく傾斜したため、今度は左に操舵しました。
約8秒後には機体は左右に大きく傾斜しながら高度200フィート、速度215ノットに達しましたが、左右のバンク角は75度にも達しており、当課程卒業生であるパイロットはMBU(Mechanical Back UP)システムに切り替え緊急事態を宣言し、名古屋空港に緊急着陸しました。
この模様は別件で取材に訪れていた報道各社のテレビカメラの撮影するところとなり、全国放映されました。
原因は、FBW機ではよく生じる横方向PIO(Pilot Induced Oscillation)でして、FBWのソフトを修正して修復しました。
0.5Hz付近のパイロットゲインKp=Fs/pが0.13(通常0.05)で位相遅れが180度近くであったものを、RCG(Roll Command Gradient)を小さくして、かつ時定数を大きくすることによって解決しました。
教訓 原因究明の段階で、油圧リグ装置に計器盤を取り付けたような簡易シミュレーターで現象を再現させようとするのですが、どうしても再現しない。
それは今のようなビジュアル付きのシミュレーターではないので、バンク75度といってもパイロットには実感がわかず、飛行の時のような大きい舵を取らないのです。「猛犬を連れてきて、パイロットの横で吠えさせれば」という冗談まで出たのでした。
今では世の趨勢とはいえ、教育訓練用のみならず研究開発用にもビジュアル付きのシミュレーターを設備するのが常ですが、それでもマンマシンインターフェースは難しいもので、永遠の課題とも言えるかもしれません。
また、巷間T-2CCVのFBW技術があったからこそ、FS-Xで米国が Flight Control のソフトウエアを開示しないと言われても驚かなかったし、自力でFS-Xのソフトが開発できたと言われていますが、これは本当です。
当時CCV技術を実証するというのは、欧米から比べると随分「後追いのプロジェクト」で、私自身疑問すら持っていたのですが、「後追い」でも必須の技術はハード・ソフトともに実証しておかなくてはならないものであると、FS-Xの開発に従事することとなって強く感じたものです。
(2)へ続く JBpress.ismedia.jpより引用
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