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本日は、昨年10月4日に亡くなったドイツ空軍及び全世界の空軍エースパイロット中、第3位の撃墜数275機を誇るギュンター・ラル氏(左、写真の人物)の足跡を振り返る特集をミッドウェー海戦研究所設立1周年記念特集の第二回を、お送りしたいと思います。
下記の記事は"Günther Rall, Luftwaffe ace in Finland June 2003"に掲載された記事をブログ「109がらくた箱」さんで翻訳されたもの転載したものです。
ただし写真は、管理人が独自に貼り付けたものです。
3. 英国の戦い 対仏戦後私たちは後方へ移動し、推測航法による洋上航法を訓練しました。 方位、時間、速度をもとにしたものです。 当時はそれが唯一の方法でした。あの、速度計や人工水平儀、コンパスを使い、時間を測って行うものです。
そして、カレー付近のコキル[Coquilles]へ移動しました。そのころは、国家の上層部が英国侵攻を計画しているかなんて分かりませんでした。 そんなことは高尚な目的とは思えなかった。 大惨事になる事が目に見えていました。 攻める我々の方からは、イングランドは遠すぎる反面、守るイギリスには地の利があるわけですから。 当時の戦闘機の航続距離では、カレーからは、ロンドンまでたどり着くのが関の山です。そこに滞空できるのもせいぜい5分、すぐに戻らなければならない。 爆撃機が内陸深く攻撃する場合、ロンドンから先は援護なしで飛行しなければなりません。 それは悲惨な結果に終わるに決まっています。 今度の相手はハリケーンやスピットファイアですが、英国空軍のこれら戦闘機部隊は質的にも戦術的にも異なったものです。 彼らは間近に迫った脅威に対抗するため良質な迎撃機管理システムを作り上げていました。 この時以来私は、戦闘機操縦士は空中で自由に行動すべき、という信念を持ちました。そういうことは戦闘機操縦士自身が決めるべきなのです。 空中でいかに戦うかは、全て操縦士次第なのです。 地上から、「君はまずそこに向かい、それからどうする〜」などと命令できるものではありません。 状況は刻一刻と変わるもので、そこでとるべき位置を読みとれるのは選ばれた戦闘機操縦士だけであり、そして、いかに攻撃するかは経験の問題です。 英仏海峡での出来事は、苦いものながら良い教訓になりました。 4. バルカン・クレタ・109F それからしばらくたって私たちは後退し、新しい操縦士と戦闘機の補充を受け、オーストリアのNeusiedl am Seeへ移動しました。一週間待つうちに、ルーマニア行きの命令を受けました。ルーマニアにはカルパチア山脈に油田があり、そこの石油施設を防衛する必要があったのです。コンスタンツァはルーマニアでも重要な大きな石油積み出し港で、ドナウ川を渡りブルガリアへ侵攻するには重要な橋梁もありました。当時はもう、ブルガリアを経てギリシャへ侵攻する計画がありました。イタリア軍はギリシャ侵攻にかなり手こずっており、彼らは手助けを求めていましたから。
この間、私たちは、同じ109を装備するルーマニア戦闘機操縦士の訓練も行いました。長い期間ではありませんでしたが。 クレタ島をめぐりギリシャ侵攻戦が始まりました。私たちはアテネへ移動し、ついでペロポンネソス南端の小村モラオイへ移動しました。 そしてクレタ攻防戦が始まりました。それはぞっとするものでした。最初の侵攻部隊は空挺部隊と山岳部隊でした。船と飛行機で、クレタ防衛隊のニュージーランド兵に襲いかかりました。空挺部隊の降下高度が、800メートルと高すぎ滞空時間が長くなったため、その多くが空中で射撃の的になりました。士官達が全滅したため、軍医が指揮を執ることさえあったと聞きますね。 滑走路はマルメーズにありました。我々はそこへ向かいましたが、大規模な航空戦はなく、対地攻撃が主でした。ドイツ軍部隊への補給が問題でした。武器と弾薬をコンテナに詰め落とすわけです。地上軍は鍵十字の旗を目印にするのですが、それを知って、同じように鍵十字の旗を振るニュージーランド兵にも落としてしまうのです。高度3、40メートルを高速で飛行していたら兵の区別なんかできません。これは大問題でしたがその後解決しました。きわどい局面もありましたが、ついにクレタは我々の手中に落ちました。 Bf109F-2 9./JG54, Lithuania, July 1941
武装も優秀でした。プロペラを通して発射する20ミリ機関砲一門、エンジンの上の7.92ミリ機関銃2丁、これだけあれば充分でした。 5.黒海、ママイア 私たちは再び訓練に戻りましたが、そのうちに続々と到着する軍隊に気づきました。私たちは 「一体全体、ここで何が起ころうとしているのだろう?」と口々に話し合いました。
それは対ロシア戦の始まりだったのです。 これは私たちには衝撃でした。 まだ西での戦争を終えていないのにも関わらず、謎めいた敵と戦争を始めたのです。 まさにナポレオンですね。この大規模な軍隊をもってしても、かの地は征服できない。 それは妄想です。 しかしまた[対英侵攻の時と]同じことの繰り返しです。結局、戦争というものはこんなふうに始まるものなのでしょう。 命令に従い私は第8中隊を率いママイアまで移動しました。ママイアは黒海、コンスタンツァの北です。 今日、それは大きな海水浴場、バーもあるレクリエーション・センターです。当時それは格納庫が一棟ある他は芝生だけの平地でした。レーダー、電話もありませんでした。 そこへ私たちの中隊は移動しました。ほんとうに何もないところです。しばらくしてコンスタンツァから、一人の高射砲部隊将校がやってきました。彼は、私に海上と最前線の位置[戦況?]を教えてくれました。 私たちにはレーダーも警戒態勢ありません。 とりあえず彼の連絡を了解しました。 そこで私たちは、夜明けから交代で、2機の戦闘機で黒海の高度6000メートルで警戒飛行することにしました。 ロシア軍がコンスタンツァを標的にするに違いありません。 隊の他のものもすべて乗機警戒します。無線機の周波数を合わせ、報告を待つことにしました。 果たして、まもなく彼らはやって来ました。 急いで発進し、高度6000メートルへ達したところ、すぐに護衛なしで飛行中のDB-3を発見しました。戦闘機による援護のない空爆、それは余りにも稚拙な作戦ですね。 ロシア軍は2週間の間に、正確な数はわかりませんが、25〜30機の爆撃機を失ったあげく、この作戦を諦めました。私たちにも損失がありましたが。 そこでおもしろい話があります。隊の下士官の1人(非常に素晴らしい人でしたが、惜しくも後に戦死してしまいました)、彼が高度6000メートルで機を撃たれ、脱出しました。 ところがこの空域では海霧が多く、彼には水平線さえ見えません。 そのため彼はパラシュートを開く高度さえ判断できなかった、にも関わらずその状況で開傘時期を読みとらなければならなかったのです。ところが彼は首尾よく海上までわずか60メートルで開傘したのです。 海上の空戦の場合、そこでパラシュート脱出する場合には、ブーツを脱いで落とせば、それが海へ落ちる音の具合によって、自分が今いる高度を判断できるのです。(くだんの下士官はこうして危機に対処した)こういったことも大切な経験の蓄積ですね。 ペトリャコーフ Pe-2
ロシア軍は残っていた整備中の戦闘機を破壊しました。 また、40人の整備員と、ウィーン出身の非常に素晴らしい整備長の一人を失いました。 それは中隊にとって最悪の日でした。 |
ドイツ空軍
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本日は、昨年10月4日に亡くなったドイツ空軍及び全世界の空軍エースパイロット中、第3位の撃墜数275機を誇るギュンター・ラル氏(左、写真の人物)の足跡を振り返る特集をミッドウェー海戦研究所設立1周年記念特集として、お送りしたいと思います。(尖閣問題の記事に埋もれて、命日に記事を書けませんでした。(T_T) )
下記の記事は"Günther Rall, Luftwaffe ace in Finland June 2003"に掲載された記事をブログ「109がらくた箱」さんで翻訳されたもの転載したものです。
ただし写真は、管理人が独自に貼り付けたものです。
2003年6月、フィンランドを訪れたギュンター・ラル氏は、フィンランド航空博物館協会に請われ、フィンランド・バーチャル・パイロット・アソシエーションの100人ほどの聴衆を前に、講演を行った。
・1918年 Gaggenauの商人の家庭で誕生 ・1936年 ドイツ陸軍に入隊 ・1938年 ドイツ空軍に入隊 ・275機の撃墜記録、うち272機は東部戦線において ・1956年 西ドイツ連邦空軍に入隊、アメリカ製ジェット戦闘機F-84とF-104を操縦 ・第34戦闘爆撃航空団司令 ・NATO防衛大学校 ・1966年 准将へ ・1970から1974 西ドイツ空軍司令 ・1974から1975 NATO付き武官 1. 開戦までフィンランドへお招き頂いて大変光栄に存じます。過去にパイロットとしてノルウェイやスウェーデンを訪れたことはありますが、当地は初めてなのです。とうとうやってきました。大変幸せな気分です。 本日お話しするのは50年も昔のこと、第2次世界大戦のことです。それは大惨事でしたが、当時の若者達にとっては、後にも先にもないくらい自分が試された出来事でした。 その5年半の出来事のうちの主な出来事、その後、私が新ドイツ空軍で操縦できた各種の航空機についてお話しします。後に控える質疑応答の方が楽しみかも知れません、そちらの方があなた方に興味があるかもしれませんね。 さて、私は1936年に幹部候補生として陸軍に入隊しました。私は士官になるつもりでした。1年半後、試験をうけ少尉として任官しましたが、今度は私は、行進したりするより、航空の方へ進みたいと思うようになり、空軍入りを希望しました。飛行するほうがずっと良く思えるようになり、戦闘機パイロットを志したわけです。 その当時は空軍自体設立間もなかったものですから、独自に候補生を訓練する余裕もあまり無く、それで陸軍や海軍から少尉達など下級士官を募ることになったのですね。 アドルフ・ガーランド
第一次世界大戦からわずか20年を経ての開戦は、ドイツ国民には驚きでした。熱意などというものはありませんでした。しかしとにかく戦争です。若き操縦士として、また軍人として力を試すべき時です。私たちは、職務に忠実に、義務を果たそうと思いました。 2. 「奇妙な戦争」ところで、いまでも不思議なことですが、戦闘機学校で複葉のアラドAr68で訓練していた頃、私たちが訓練していたのは、当時時代遅れだったはずの3機一組の接近編隊による戦法だったのです。 ヴェルナー・メルダース 戦争初めの時期は、フランス人達が呼ぶところの「奇妙な戦争」でした。私たちはライン川東岸に沿って行ったり来たりするだけ。フランス人は西側で同様に行ったり来たり、絶対接近しない。本当に撃ち合いになるとは考えてなかったのです。それが変わったのは1940年5月、ドイツのフランス侵攻が開始されてからで、それ以来戦争の本当の姿がさらけ出されたわけです。 そして、私は初めて敵機と交戦し、初撃墜を記録しました。中隊が出撃命令を受け、私は第2シュヴァルムを率いました。一個中隊には12機があり、シュヴァルムは三つ組めます。それは一機のハインケルHe111の護衛でした。ナンシー方面から戻ってくる帰還する彼を迎え、無事に帰投できるよう護衛する任務です。 カーチス P-36
私たちは接近しました。初陣であれば誰でも興奮するものです。集中していながら、また熱中している。私は二つめのシュヴァルムを率いて敵の二つめの編隊に向かいました。荒っぽく旋回して、格闘戦に入りました。 Bf109前縁スラット(マニュアルより転載)
この格闘戦で初めて命中弾を得ました。アメリカ製のフランス軍機は炎に包まれました。その機についていた私も、撃たれました。銃弾がビュンビュン。このように、最初の空戦は混乱した物でした。 そのうちに、燃料切れで両軍とも戦闘終了、フランス軍機は帰還しました。彼らは3機、我々は1機を失いました。 最初の空戦での勝利こそ、心理的に大切なのだ、と私はよく言います。なにより自信がつきます。もし撃たれたとしても、どうなれば撃たれるかが分かるようになります。この二つの心理的印象を、戦争の全期間を通じて持ち続けました。成功すれば自信になるし、失敗すれば中止し、注意深くすることです。それ以外の道はないのです。なかなかうまく表現できませんが、対仏戦の最中に、こんなことがおこりました。 (2)へ続く ↓記事を読み終わりましたら、こちらにもクリックをお願いします。m(_ _)m
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最後にHe178に多少な動画ですが、秀逸な選曲をお楽しみ下さい。
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←左の写真は、He280のCG、塗装からして試作機段階を再現していると思われる。
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人気ブログランキングへ 世界初のジェット戦闘機 He280初飛行成功記念日本日3月30日は、世界初の実用ジェット戦闘機He280が進空した記念日です。
連日お伝えしている自衛隊のF-Xも、全ての根源はこれから始まります。
本来ですと、ドイツ夜間戦闘機 He-219"ウーフー"の足跡(2) 「ハインケル対メッサーシュミット」の続編として、その背景をお伝えしたのですが公私共に忙しいので、暫定的にエントリーのみ行います。
下の映像で往年のジェット戦闘機に思いを馳せて頂ければ幸いです。
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人気ブログランキングへ←左の写真は、ヴィルヘルム・エミール・(ウィリー)・メッサーシュミット博士(Wilhelm Emil "Willy" Messerschmitt、1898年6月26日 - 1978年9月15日)撮影は、1968年で晩年の姿である。 ■「ハインケル対メッサーシュミット」 前回の記事で、夜間戦闘機の主力機として取り上げたBf110が激化する戦局に対応できず、たちまち能力不足を露呈した。(原因は、後述)本来ならば迅速な後継機の生産に移行し、問題なく事態が推移する筈だが、後継機の投入は事実上不可能という恐るべき事態に陥った。 なぜそうなったのか?その原因をハインケルとメッサーシュミットという二人の設計者の足跡から原因を探ることが出来る。 二人の設計者が直接の接触を持ったのが、1933年(昭和8年)He51の後継機として、ドイツ航空省が後継戦闘機の選定作業に入り有力な候補として、ハインケルHe112とメッサーシュミットBf109が争ったのが事の契機だった。 このコンペでHe112はBf109に敗れ、順風に見えたハインケル社の前途に暗雲が垂れ込めた。 (以下、明日以降に追記)
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